第32話「いってらっしゃい」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第32話「いってらっしゃい」
【帰還から二年四ヶ月 喫茶店「灯」】
「活動休止?」
天音リナが、アイスコーヒーのストローを咥えたまま、目を丸くした。灯の席に、七人とリナが並んでいた。
「ああ」朔が頷く。「長い旅に出る。しばらく、戻れない」
「しばらく、って、どれくらい」
「……分からない」
リナは、七人の顔を、一人ずつ見た。誰も、目を逸らさなかった。リナは、ストローを離して、小さく息を吐いた。
「聞かない。聞かないよ。でも、最後は、ちゃんとやって」
「ああ」
「七人で、派手に。あの夜みたいに、一緒の画面で」
「そのつもりだ」
玲奈が、ノートを広げた。
「日付は、決めてある。あの夜から、ちょうど三年。同じ日、同じ時刻」
「同じ日」と伊織。
「反応が、一番強い気がするの。仮説だけど」
リナは、頷いた。
「分かった。枠は、私が押さえる。……私に、できることは、全部やる」
「リナ」と莉子が言った。「ありがとう。本当に」
「やめてよ、泣くから」
リナは、慌てて顔をそらした。千鶴が、厨房から、静かに、プリンを七つと、一つ余分に、運んできた。
「余ったから」
誰も、余ってなんていないと、分かっていた。
【同じ夜 灯】
リナが帰ったあと、千鶴は、表の札を裏返した。それから、厨房の奥へ引っ込んだ。何も、聞かなかった。
七人だけが、残った。
玲奈が、ノートを開いた。通話の夜に書いた頁。六行の答えと、空いた七行目。莉子が、それを覗き込んだ。
「……これ、何」
「今度、一番に持っていきたい物」と玲奈が言った。「莉子の分は、まだ聞いてなかった」
莉子は、しばらく頁を見ていた。それから、言った。
「鍋」
「鍋?」と伊織。
「みんなに、何か作れるように」
玲奈が、七行目を埋めた。
「じゃあ、始める」と朔が言った。
最初は、玲奈だった。
「何が、一緒に渡るのか。……これも、仮説」
玲奈は、ペンの先で、ノートを軽く叩いた。
「あの夜、恒一のテントは、山に残った。でも、私たちは、向こうから物を持って帰ってきた。手袋も、薬瓶も、ノートも。だから、身につけている物は、渡る。置いてある物は、渡らない。……かもしれない」
「かもしれない、か」と恒一。
「確かめようがない。あの夜は、呼ばれた。今度は、自分で渡る。同じ決まりかどうかも、分からない。背負った荷が『身につけている』に入るのかも、分からない」
「なら」と恒一は言った。「渡らなくても困らねえように、準備する」
玲奈は、頷いた。
次は、重さだった。
「一人が背負って、走れる分まで」と恒一が言った。「荷車も、箱も、ない。持てねえ物は、置いてく」
「軽くしたい」と伊織が、すぐに言った。「前で、動けなくなる」
「食べ物は、削れないよ」と莉子。「最初の何日かは、向こうで手に入るか分からないんだから」
伊織と莉子が、顔を見合わせた。どちらも、引かなかった。
「荷は、同じじゃなくていい」と朔が言った。「伊織は、軽く。その分は、誰かが持つ」
「俺が持つ」と恒一が言った。
次は、日本で用意する物と、向こうで手に入れる物の区別だった。
「向こうでも、買える物はある」と恒一。「鍋も、縄も。……でも、最初の夜には、要る」
「最初の数日を、自分たちだけで越せる物」と朔がまとめた。「それ以外は、向こうで」
「薬は」と琴音が、澪を見た。
「持っていく」澪は、はっきり言った。「治せるから要らない、じゃないの。力が届かない時のために、要るの」
誰も、反対しなかった。
そこから、話が、長くなった。
「向こうのお金は、こっちには、ない」と朔が言った。「こっちのお金は、向こうでは、使えない」
「だから、物に変える」と莉子。「小さくて、軽くて、向こうにもあるけど、こっちの方が出来のいい物」
「何が売れたか、覚えてるか」
答えは、少しずつ、違った。莉子が覚えている物と、玲奈が覚えている物と、恒一が覚えている物は、重なるところもあれば、重ならないところもあった。
「全部、前の話」と玲奈が言った。「向こうで、どれだけ時間が経ってるか、分からない。こっちの二週間が、向こうの五年だった。今度は、どうなるか。……向こうの人たちが、どう暮らしてるかも、分からない。売れた物が、今も売れるとは限らない」
「一つに頼らない」と朔が言った。「少しずつ、何種類か」
「金と、銀は」
朔がそう言うと、伊織が眉を寄せた。
「持ってくの? 重いよ」
「小さければ、重くない」
「向こうで、こっちと同じ値打ちだとは限らない」と玲奈。
「分かってる。……最後の手段だ」
朔は、それ以上、言わなかった。玲奈も、それ以上、言わなかった。持っていくことだけが、決まった。どんな形で、どれだけ持つかは、決まらなかった。
それから、物が売れなかった時の話になった。
「歌えば、食べられる」と琴音が言った。
「護衛なら、すぐ」と伊織。
「道案内と、狩り」と恒一。
「手当て」と澪。
「読み書き」と玲奈。
「パン」と莉子。
朔だけが、少し考えてから言った。
「……話を、まとめる、とか」
伊織が、吹き出した。「それ、仕事?」
「仕事だ」と恒一が言った。笑わなかった。
最後は、お金の話だった。
「使えるものは、使う」と朔が言った。「こっちに残しても、俺は、使えない」
「全部は、やめとけ」と恒一が言った。
朔が、恒一を見た。
「残したい奴は、残せ。……残したい相手がいる奴は」
朔は、少し黙ってから、頷いた。
「それぞれで、決めよう」
話は、それで終わった。決まったことより、決まらなかったことの方が、多かった。
莉子が、カップの底を見つめていた。
「……全部は、持っていけないんだね」
部屋の隅の、缶詰の箱のことだと、誰にも分かった。
「一個は、持ってけるよ」と伊織が言った。
莉子は、小さく笑った。笑って、頷いた。
厨房の奥で、千鶴が皿を洗う音が、静かに続いていた。
【数日後 朝倉朔と高橋美咲】
駅前の小さなカフェで、朔は、美咲を待っていた。
「ごめん、待った?」
「いや。今来たところだ」
美咲は、少し髪が短くなっていた。席に座ると、メニューを開かずに、朔を見た。
「話って、何」
「……遠くへ、行くことにした」
美咲は、まばたきをした。
「どこに」
「それは、言えない。でも、たぶん、戻ってこれない」
「そう」
美咲は、少しだけ、笑った。
「分かってた」
「……え」
「あの日、玄関で、どこに帰るのって訊いたとき。朔、『分からない』って言ったでしょ。あのとき、もう、分かってた。この人は、ここには、いられない人なんだって」
朔は、言葉が出なかった。
「怒ってない、って言えたら、よかったんだけど。……少しだけ、怒ってる。三年分」
「……ああ」
「でも、悲しいほうが、大きいかな」
「美咲」
「ねえ、朔」
美咲は、運ばれてきた紅茶に、ゆっくりと口をつけた。
「私ね、ずっと、『おかえり』って、言いたかったの。でも、結局、ちゃんとは言えなかった」
「……ああ」
「だから、今度は、『いってらっしゃい』って、言わせて」
美咲は、口を開いて、閉じた。言葉が、喉に引っかかっていた。
「……いってらっしゃい」
声が、少しだけ、震えていた。
「本当は、行かないでって、言いたかったの」
「美咲」
「でも、言ったら、朔は、きっと残ってくれる。それが分かるから、言わない」美咲は、涙をこらえるように、笑った。「ちゃんと、帰ってこなくていいから。……自分で選んだ場所で、ちゃんと、生きて」
朔は、頭を下げた。深く、長く、下げた。
「……ありがとう」
「でも、勘違いしないでね」美咲は、カップを置いた。「いってらっしゃいって言うのと、許すのは、別だから」
「……ああ」
「三年分は、三年分。ちゃんと、覚えててよ」
「覚えてる。……幸せになってくれ」
「なるよ」美咲は、目を伏せた。「たぶん。……なり始めてる、と思いたい」
店を出るとき、朔は、振り返った。美咲は、窓際の席で、手を振りかけて、やめた。両手で、カップを包んだまま、動かなかった。
朔は、上げかけた手を、下ろした。代わりに、もう一度だけ、頭を下げた。
【その夜 七つの通知】
七人の画面に、同時に、通知が届いた。
『新着メッセージ(1件)』
差出人の欄は、空白だった。アイコンも、無地。
『楽しみにしています』
たった、それだけの文面だった。
七人の部屋で、七人が、同じように画面を見つめていた。
「……同じ、アカウント」と玲奈が、グループで呟いた。
『見られてる』と伊織。
『やっぱり、いたんだな』と恒一。
『でも、止めにこない』と澪。
朔は、画面を見つめたまま、静かに言った。
「……誰かが、待ってる」
『それが、誰か、だな』
返信しようとした指が、止まった。差出人は、すでに、消えていた。




