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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第1章
31/57

第31話「ずるい、けど」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第31話「ずるい、けど」


【帰還から二年三ヶ月 河原】


「……遠くへ、行くかもしれないの」


莉子は、膝の上で、握った手を見つめたまま言った。


「戻って、これない」


航は、缶コーヒーを持ったまま、動かなかった。川の水音が、二人の間を流れていく。


「……いつ」


「分からない。でも、そんなに、先じゃない」


「どこに」


「航くんが、ついてこれないところ」


航は、ゆっくりと、息を吐いた。


「死ぬとか、そういうんじゃ、ないんだよな」


「ないよ。生きるために、行く」


「……そうか」


沈黙が、続いた。やがて、航は、缶を地面に置いた。


「何で、今まで、言わなかった」


声が、少しだけ、尖っていた。莉子は、肩をすくめた。


「言えなかった。言ったら、決めなきゃいけなくなるから」


「俺のせいか」


「違う」莉子は、首を振った。「航くんは、悪くない。私が、決められなかっただけ」


「莉子の顔、最近、ずっと変だった」航は、空を見上げた。「笑ってるのに、遠かった。……何か、言いたいことがあるんだって、分かってた」


「……ごめん」


「謝るなよ」


航は、両手で顔をこすった。肩が、小さく震えていた。


「俺が、行くなって言ったら、行かないか」


莉子は、すぐには答えなかった。


「……考える。すごく、悩む。きっと、泣く」


「でも」


「でも、航くんは、『行くな』って言う人じゃ、ないって、知ってる」


航は、息を呑んだ。それから、顔を覆ったまま、笑った。


「ずるいな」


「うん。ずるいの、分かってる」


「……ずるい」


「ごめんね」


川面に、月が揺れていた。航は、何度も、鼻をすすった。


「どこに、行くんだ」


「……約束した子が、いるの」


「子?」


「あの子が、待ってる場所」


航は、顔を上げた。莉子の目は、涙で濡れていた。それでも、まっすぐだった。


「……そうか」


航は、ゆっくり頷いた。


「分かった。……分かったけど、」


「うん」


「最後に、ひとつだけ」


「なに?」


「莉子の作るパン、また、食べさせて。ちゃんと、最後まで」


莉子は、笑おうとして、唇が震えた。


「うん。毎日、焼く」


「毎日は、いらない」


「じゃあ、週に三回」


「それなら、いい」


「……やっぱり、行ってほしくない」


航は、前を向いたまま言った。


「分かってる。言っても、変わらないのも。……言いたかっただけ」


莉子は、「うん」としか、言えなかった。謝る言葉は、もう、出尽くしていた。二人は、それ以上、何も言わずに、川の音を聞いた。


【その夜 莉子の部屋】


部屋の隅の缶詰の箱を、莉子は、じっと見つめていた。


日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。それは、これからも、変わらない。


でも、あの子は、待っている。小さな指が、ぎゅっと握った感触が、まだ、掌に残っていた。


莉子は、立ち上がって、缶詰の箱を、一つ、手に取った。


「……私が、決めた」


誰かのためではなく。誰かに言われたからでもなく。


怖さが消えたわけではなかった。航の母の声も、まだ耳に残っている。もう、どこにも行かないでね。その言葉に、莉子は、答えられなかった。答えないまま、決めた。航を傷つけた。それは、決めたあとも、消えなかった。


日本を、大好きなまま。その大好きを、胸に抱えたまま。向こうで、自分の食卓を、つくる。


莉子は、スマホを手に取って、グループに書き込んだ。


『行く』


『全員、揃ったよ』


画面の向こうで、既読が、次々に、ついた。


『ありがとう』


『待ってた』


『おいで』


七つのスタンプが、並んでいった。莉子は、返信を打とうとして、親指が、画面の上で止まった。航の顔が、先に浮かんだ。


【深夜 白川玲奈】


ノートの三行目に、玲奈は、ゆっくり、書き込んだ。


『条件3 全員の意思 → 確認済み』


ペンを置く手が、少しだけ、震えていた。


あと、ひとつ。最後の配信。それが、七人の、最後の、日本での夜になる。


玲奈は、窓の外を見た。夜空に、薄い雲が流れていた。その向こうに、何かが、静かに待っているような気がした。

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