第31話「ずるい、けど」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第31話「ずるい、けど」
【帰還から二年三ヶ月 河原】
「……遠くへ、行くかもしれないの」
莉子は、膝の上で、握った手を見つめたまま言った。
「戻って、これない」
航は、缶コーヒーを持ったまま、動かなかった。川の水音が、二人の間を流れていく。
「……いつ」
「分からない。でも、そんなに、先じゃない」
「どこに」
「航くんが、ついてこれないところ」
航は、ゆっくりと、息を吐いた。
「死ぬとか、そういうんじゃ、ないんだよな」
「ないよ。生きるために、行く」
「……そうか」
沈黙が、続いた。やがて、航は、缶を地面に置いた。
「何で、今まで、言わなかった」
声が、少しだけ、尖っていた。莉子は、肩をすくめた。
「言えなかった。言ったら、決めなきゃいけなくなるから」
「俺のせいか」
「違う」莉子は、首を振った。「航くんは、悪くない。私が、決められなかっただけ」
「莉子の顔、最近、ずっと変だった」航は、空を見上げた。「笑ってるのに、遠かった。……何か、言いたいことがあるんだって、分かってた」
「……ごめん」
「謝るなよ」
航は、両手で顔をこすった。肩が、小さく震えていた。
「俺が、行くなって言ったら、行かないか」
莉子は、すぐには答えなかった。
「……考える。すごく、悩む。きっと、泣く」
「でも」
「でも、航くんは、『行くな』って言う人じゃ、ないって、知ってる」
航は、息を呑んだ。それから、顔を覆ったまま、笑った。
「ずるいな」
「うん。ずるいの、分かってる」
「……ずるい」
「ごめんね」
川面に、月が揺れていた。航は、何度も、鼻をすすった。
「どこに、行くんだ」
「……約束した子が、いるの」
「子?」
「あの子が、待ってる場所」
航は、顔を上げた。莉子の目は、涙で濡れていた。それでも、まっすぐだった。
「……そうか」
航は、ゆっくり頷いた。
「分かった。……分かったけど、」
「うん」
「最後に、ひとつだけ」
「なに?」
「莉子の作るパン、また、食べさせて。ちゃんと、最後まで」
莉子は、笑おうとして、唇が震えた。
「うん。毎日、焼く」
「毎日は、いらない」
「じゃあ、週に三回」
「それなら、いい」
「……やっぱり、行ってほしくない」
航は、前を向いたまま言った。
「分かってる。言っても、変わらないのも。……言いたかっただけ」
莉子は、「うん」としか、言えなかった。謝る言葉は、もう、出尽くしていた。二人は、それ以上、何も言わずに、川の音を聞いた。
【その夜 莉子の部屋】
部屋の隅の缶詰の箱を、莉子は、じっと見つめていた。
日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。それは、これからも、変わらない。
でも、あの子は、待っている。小さな指が、ぎゅっと握った感触が、まだ、掌に残っていた。
莉子は、立ち上がって、缶詰の箱を、一つ、手に取った。
「……私が、決めた」
誰かのためではなく。誰かに言われたからでもなく。
怖さが消えたわけではなかった。航の母の声も、まだ耳に残っている。もう、どこにも行かないでね。その言葉に、莉子は、答えられなかった。答えないまま、決めた。航を傷つけた。それは、決めたあとも、消えなかった。
日本を、大好きなまま。その大好きを、胸に抱えたまま。向こうで、自分の食卓を、つくる。
莉子は、スマホを手に取って、グループに書き込んだ。
『行く』
『全員、揃ったよ』
画面の向こうで、既読が、次々に、ついた。
『ありがとう』
『待ってた』
『おいで』
七つのスタンプが、並んでいった。莉子は、返信を打とうとして、親指が、画面の上で止まった。航の顔が、先に浮かんだ。
【深夜 白川玲奈】
ノートの三行目に、玲奈は、ゆっくり、書き込んだ。
『条件3 全員の意思 → 確認済み』
ペンを置く手が、少しだけ、震えていた。
あと、ひとつ。最後の配信。それが、七人の、最後の、日本での夜になる。
玲奈は、窓の外を見た。夜空に、薄い雲が流れていた。その向こうに、何かが、静かに待っているような気がした。




