第29話「答えの手前」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第29話「答えの手前」
【帰還から二年三ヶ月 水城澪】
夜の病院の前で、澪は、足を止めていた。
白い建物の窓から、灯りがこぼれている。日勤を終えた看護師たちが、談笑しながら出てきた。澪は、会社の帰りに、よくこの前を通る。
ここでも、誰かを助けられる。指先に灯る淡い熱で、頭痛を和らげたり、熱を下げたり。小さなことなら、できる。
でも、小さなことしか、できなかった。
澪は、目を閉じた。
狭い部屋だった。薄暗いランプの光。ベッドの上で、誰かの手が、冷たくなっていく。
「……ありがとう」
そう言った声が、細くて、途切れていた。澪は、必死に手を握った。どれだけ力を込めても、温度は戻らなかった。
目を開けると、夜の風が、頬を撫でていた。
「……あの人の、家族に」
澪は、小さく呟いた。
「ちゃんと、会いに行きたい」
それが、自分の、答えだった。誰かのためでも、朔のためでもない。自分が、そうしたかった。
【同じ週 黒瀬琴音】
「最終ミックス、これで確定ね」
録音スタジオのスピーカーから、琴音の歌が、静かに終わった。神谷は、ヘッドホンを外して、小さく息を吐く。
「いい出来だ。リリースは、来週」
「ありがとう。……神谷さん」
「ん」
琴音は、少しだけ迷ってから言った。
「私、いつか、遠くへ行くかもしれない」
神谷の手が、止まった。
「……そうか」
「戻って、これないかもしれない」
「そうか」
神谷は、それ以上、訊かなかった。しばらくして、小さく笑った。
「じゃあ、この歌は?」
「ここに、残る」
琴音は、はっきりと答えた。
「この歌は、ここで生まれたから。日本の言葉をつけて、日本で、歌えたから。……ここに、置いていく」
「いいのか」
「うん。でも、もうひとつは、持っていく」
「もうひとつ?」
「向こうの、あの子たちに、届けたい歌」
琴音は、ノートを閉じた。丸みを帯びた文字が、表紙に、ほんの少しだけ、透けて見えた。
神谷は、黙って、頷いた。それから、ぽつりと言った。
「琴音さんの歌は、どこにいても、琴音さんの歌だよ」
琴音は、返事の代わりに、ノートを抱え直した。
【数日後 白川玲奈】
深夜の研究室で、玲奈は、ノートを見つめていた。
『条件1 七人が同じ場所に集まる → 確認済み』
『条件2 それぞれの証 → 物ではない』
『条件3 全員の意思 → 確認中』
そして、もうひとつ。空欄の四行目。
最初の夜を、思い出した。七つの画面。配信。コメント欄に流れた、同じ記号。召喚されたのは、七人が、同時に、同じ場所で、認識されたからかもしれない。
「……呼ばれたときは、見られていた」
玲奈は、ペンを走らせた。
『召喚:七人が同時に見られた夜に起きた(誰が、何が呼んだのかは、不明)→ 帰還:紐を、逆に辿って戻った? → 次:七人が、自分で選ぶ(仮説)』
選ぶ、ということは、誰かに、見せることかもしれない。自分たちの、選択を。
玲奈は、四行目に、書いた。
『条件4 最後の配信(仮)』
書き終えて、息を吐いたとき、雅人が、ドアのところに立っていた。
「玲奈さん」
「……雅人」
「分かったんですか」
「分かった。……でも、分かりたくなかった」
玲奈は、正直に答えた。雅人は、ゆっくり、隣の椅子に座った。
「言える範囲で、聞かせてください」
「……いつか、遠くへ、行くかもしれない」
「はい」
「たぶん、戻って、これない」
雅人は、少しの間、黙っていた。
「……少しだけ、怒っていいですか」
「うん」
「勝手です。分かってて、言ってます。でも、勝手です」
雅人は、息を吐いた。
「待ちません」
「え」
「待ったら、玲奈さんが、選びづらくなるから」
雅人は、まっすぐに、玲奈を見た。
「代わりに、行く日まで、全力で、隣にいさせてください」
玲奈は、何も言えなかった。
「……って、格好つけました」雅人は、視線をそらした。「本当は、怒ってます。寂しいです。行ってほしくないです。……全部、本当です」
「……ごめん」
「謝らないでください。余計に腹が立つので」
雅人は、いつものように、夜食の袋を、机の上に置いた。いつもより、おにぎりが、一つ多かった。玲奈は、一つ手に取った。温かかった。




