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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第1章
27/57

第27話「怖かった」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第27話「怖かった」


【帰還から二年一ヶ月 神崎伊織】


リビングのテレビから、爆発音が響いた。


伊織は、ソファの上で、反射的に身を低くした。膝が曲がって、肩が壁に向く。右手が、また、腰へ伸びる。


空を掴んだ。


画面の中では、ただの映画の戦闘シーンが、続いている。伊織は、息を整えて、リモコンに手を伸ばした。音が消えた。静かな部屋に、自分の心臓の音だけが、響いていた。


「……何してんの、あたし」


笑おうとして、笑えなかった。指先が、まだ、細かく震えていた。


伊織は、スマホを手に取った。画面に、ひとつの名前が浮かんだ。


『澪。今、時間ある?』


返事は、すぐに来た。


『あるよ。来る?』


【澪の部屋】


「お茶、淹れるね」


澪は、いつもと同じ調子で、湯を沸かした。伊織は、クッションを抱えて、床に座った。


「あのさ」


「うん」


「前に、言ったじゃん。言える日が来たら、聞くって」


「うん」


「今日、聞いてほしい」


澪は、急須を置いて、伊織の前に座った。何も言わずに、頷いた。


伊織は、しばらく、膝の上で指を絡めていた。それから、ゆっくりと、口を開いた。


「あの日、あたし、前に出たの」


声が、少し掠れていた。


「みんなの前に、立った。あたしが、一番強いからって。そう言われてたし、自分でも、そう思ってた」


「うん」


「そしたら」


伊織は、言葉を探した。まぶたの裏に、暗い洞窟が浮かんだ。冷たい空気。水の滴る音。その奥から、ゆっくりと、何かが動く気配。


大きな影が、壁に伸びた。


低い咆哮が、胸の奥を、直接震わせた。血の匂いが、鼻をついた。握りしめた剣の柄が、手汗で滑る。足が、動かなかった。


後ろから、声がした。


「伊織、下がれ」


朔の声だった。静かで、でも、少しだけ、震えていた。


伊織は、下がらなかった。下がれなかった。ここで退いたら、全部が崩れる気がした。歯を食いしばって、剣を構えた。


「……動けなかったの。あのとき、足が」


伊織は、目を閉じた。


「強いって、言われてた。だから、怖いなんて、言えなかった。言ったら、みんなの足が、止まっちゃうと思って」


澪は、黙って聞いていた。


「それからずっと、笑って、強がって。戻ってきても、ずっと、同じ。夜に、あの影が、夢に出てくる。そのたびに、また、足が動かなくなる」


伊織は、瞬きをした。落ちたものを、手の甲で、乱暴に拭った。


「あたし、本当は」


息を、吸った。


「……怖かった」


その一言が、ようやく、声になった。


「怖かった。ずっと。怖くて、怖くて、でも、言えなくて」


「うん」


「だから、強がってた。あたし、弱いの」


「弱くないよ」


澪は、伊織の肩に、そっと手を置いた。


「怖かったって、言えるのは、弱いからじゃない。あのとき、怖いのに、前に立ち続けたのは、伊織だよ」


伊織は、顔を覆った。肩だけが、しばらく揺れていた。澪は、背中をさすりながら、「聞いたよ」とだけ言った。


「……ありがと」と伊織は言った。「でも、言ったからって、怖くなくなるわけじゃないんだね」


右手が、まだ、腰のあたりを探していた。


「うん。……私も、怖いよ」


澪が、続けた。


「助けられなかった人が、いたの。思い出すと、手が冷たくなる。でも、誰にも、言えなくて」


伊織は、顔を上げた。澪の目も、赤かった。


「……聞くよ」


「うん。いつか、ね」


伊織は、鼻をすすって、澪の顔を覗き込んだ。


「澪は、今、大丈夫?」


「大丈夫」


答えは、反射のように出た。伊織の目が、すっと細くなる。


「……今の、大丈夫の顔だった」


「え」


「前に真帆さんが言ってた。澪の『大丈夫』は、一番大丈夫じゃないときの顔だって」


澪は、口を開いて、閉じた。それから、ようやく、小さく言った。


「……大丈夫、じゃない。かも」


「うん」


「でも、言ったら、みんな、私を行かせてくれなくなる気がして」


言ってしまってから、澪は、自分で自分の口を押さえた。


「今の、なし。忘れて」


「無理」


「伊織」


「無理だよ。聞いたもん」


澪は、困ったように笑って、視線をそらした。言えたのに、少しも楽にならなかった。かわりに、言ってしまったという重さだけが、胸に残った。


二人は、それ以上、何も言わずに、冷めかけたお茶を飲んだ。


【その夜】


伊織は、帰り道に、朔にメッセージを送った。


『あたし、言えたよ』


しばらくして、返事が来た。


『そうか。よかった』


『あんたも、言いな』


『何を』


『怖かったって』


画面の向こうで、返信が止まった。伊織は、スマホを胸に抱えて、夜空を見上げた。冷たい風が、頬を撫でた。


どこかで、遠くの犬が、長く、吠えていた。

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