第26話「小さな手」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第26話「小さな手」
【帰還から二年 カフェ】
「莉子ちゃん、ちょっといい?」
閉店後、店長に呼ばれて、莉子はエプロンのまま、カウンターに座った。店長は、少し照れたように、湯気の立つ紅茶を置いた。
「実はね。来年、私、この店を、閉めようかと思ってたの」
「えっ」
「でも、莉子ちゃんが来てくれて、毎日が楽しくなって。……だから、継いでくれないかなって、思ってるの」
莉子は、紅茶のカップを握ったまま、動けなかった。
自分の店。自分のメニュー。自分の、居場所。
「……考えて、いいですか」
「もちろん。急がなくていいのよ」
店長は、レジの引き出しから、鍵を一つ取り出して、莉子の手に載せた。
「考えるあいだ、持っててちょうだい。合鍵だけど」
店長は、やさしく笑った。莉子は、帰り道、ずっと胸のあたりが、ふわふわしていた。嬉しいのか、怖いのか、分からなかった。
【日曜 航の家】
「莉子ちゃん、いらっしゃい! 航から、いつも聞いてるのよ」
航の母は、玄関で、両手を広げて迎えてくれた。食卓には、炊き込みご飯と、煮物と、お味噌汁が並んでいる。
「いただきます」
「ねえ、莉子ちゃん。航、どう? ちゃんと、やってる?」
「母さん」と航が慌てる。
「航くんは、すごく優しいです。私、いつも、助けてもらってて」
莉子の言葉に、航の父が、うんうんと頷く。航は、耳まで赤くなっていた。
「莉子ちゃんの作るご飯、航がいつも、自慢するのよ」
「えへへ」
笑いながら、莉子は、胸の奥があたたかくなるのを感じた。こういう日常が、ずっと続けばいいと、本気で思った。
食後、台所で食器を拭いていると、航の母が、隣に立った。
「ありがとうね、莉子ちゃん。……あのね」
「はい」
「あなたたちが、いなくなった二週間。航、ほとんど眠れてなかったの。毎晩、莉子ちゃんの店の前まで行って、帰ってきて」
莉子は、手を止めた。
「あの子、何も言わないから。……だから、お願い。もう、どこにも、行かないでね」
言ってしまってから、航の母は、はっとして口元を押さえた。
「ごめんなさい。変なこと言って。莉子ちゃんに言うことじゃないのに」
「……いえ」
莉子は、笑おうとした。うまく、笑えなかった。皿を拭く手だけが、いつまでも、同じところを往復していた。
帰り道、航が、少し緊張した声で言った。
「あのさ、莉子」
「うん」
「急がなくていいんだけど。……いつか、ちゃんと、将来のことも、話したい」
「……うん」
莉子は、航の手を握った。その手は、あたたかかった。
【その夜 夢】
小さな手が、パンを握っていた。
湯気の立つ、薄いスープ。冷えた指先。やせた頬。
「おいしい」
その子は、スープを口に運んで、ぱっと笑った。それまで、一度も笑ったことのない子が、笑った。
莉子は、その笑顔を、見ていた。
「……ありがとう」
小さな声が、そう言った。
別れの日。薄暗い朝の光の中で、その子が、莉子の袖を握っていた。
「また、来る?」
莉子は、しゃがんで、その子の目を見た。
「うん。また、来るよ」
小さな指が、ぎゅっと、莉子の指を握った。
【朝】
莉子は、涙で濡れた枕に気づいて、目を覚ました。
窓の外は、静かな朝だった。机の上に、店の鍵が置いてあった。昨日から、一度も、触っていない。
スマホが光った。航からだった。
『昨日は、ありがとう。母さん、莉子のこと、すごく気に入ったって』
莉子は、返信を打ちかけた。『こちらこそ』まで打って、指が止まった。もう、どこにも、行かないでね。台所で聞いた声が、そのまま、耳の奥に残っていた。
文字を消して、また打って、また消した。
部屋の隅には、缶詰と乾物の箱が積まれている。莉子は、一つ手に取って、重さを確かめて、元の場所に戻した。それから、もう一度、手に取った。
「……約束、したんだ」
握った指の感触が、まだ、手のひらに残っていた。
日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。何も、捨てたくない。
どちらも、本当だった。どちらも、嘘ではなかった。
灯の路地で、千鶴にかけられた言葉が、頭をよぎる。みんなじゃなくて、あなたは。
莉子は、スマホを手に取って、玲奈に電話をかけた。
『……もしもし』
「玲奈ちゃん。解けたら、教えて」
『うん』
「私、まだ、決められない」
『それで、いい』
玲奈の声は、静かで、あたたかかった。
『決まるまで、待つ。莉子が決めるまで』
莉子は、電話を握りしめたまま、小さく頷いた。




