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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第1章
26/57

第26話「小さな手」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第26話「小さな手」


【帰還から二年 カフェ】


「莉子ちゃん、ちょっといい?」


閉店後、店長に呼ばれて、莉子はエプロンのまま、カウンターに座った。店長は、少し照れたように、湯気の立つ紅茶を置いた。


「実はね。来年、私、この店を、閉めようかと思ってたの」


「えっ」


「でも、莉子ちゃんが来てくれて、毎日が楽しくなって。……だから、継いでくれないかなって、思ってるの」


莉子は、紅茶のカップを握ったまま、動けなかった。


自分の店。自分のメニュー。自分の、居場所。


「……考えて、いいですか」


「もちろん。急がなくていいのよ」


店長は、レジの引き出しから、鍵を一つ取り出して、莉子の手に載せた。


「考えるあいだ、持っててちょうだい。合鍵だけど」


店長は、やさしく笑った。莉子は、帰り道、ずっと胸のあたりが、ふわふわしていた。嬉しいのか、怖いのか、分からなかった。


【日曜 航の家】


「莉子ちゃん、いらっしゃい! 航から、いつも聞いてるのよ」


航の母は、玄関で、両手を広げて迎えてくれた。食卓には、炊き込みご飯と、煮物と、お味噌汁が並んでいる。


「いただきます」


「ねえ、莉子ちゃん。航、どう? ちゃんと、やってる?」


「母さん」と航が慌てる。


「航くんは、すごく優しいです。私、いつも、助けてもらってて」


莉子の言葉に、航の父が、うんうんと頷く。航は、耳まで赤くなっていた。


「莉子ちゃんの作るご飯、航がいつも、自慢するのよ」


「えへへ」


笑いながら、莉子は、胸の奥があたたかくなるのを感じた。こういう日常が、ずっと続けばいいと、本気で思った。


食後、台所で食器を拭いていると、航の母が、隣に立った。


「ありがとうね、莉子ちゃん。……あのね」


「はい」


「あなたたちが、いなくなった二週間。航、ほとんど眠れてなかったの。毎晩、莉子ちゃんの店の前まで行って、帰ってきて」


莉子は、手を止めた。


「あの子、何も言わないから。……だから、お願い。もう、どこにも、行かないでね」


言ってしまってから、航の母は、はっとして口元を押さえた。


「ごめんなさい。変なこと言って。莉子ちゃんに言うことじゃないのに」


「……いえ」


莉子は、笑おうとした。うまく、笑えなかった。皿を拭く手だけが、いつまでも、同じところを往復していた。


帰り道、航が、少し緊張した声で言った。


「あのさ、莉子」


「うん」


「急がなくていいんだけど。……いつか、ちゃんと、将来のことも、話したい」


「……うん」


莉子は、航の手を握った。その手は、あたたかかった。


【その夜 夢】


小さな手が、パンを握っていた。


湯気の立つ、薄いスープ。冷えた指先。やせた頬。


「おいしい」


その子は、スープを口に運んで、ぱっと笑った。それまで、一度も笑ったことのない子が、笑った。


莉子は、その笑顔を、見ていた。


「……ありがとう」


小さな声が、そう言った。


別れの日。薄暗い朝の光の中で、その子が、莉子の袖を握っていた。


「また、来る?」


莉子は、しゃがんで、その子の目を見た。


「うん。また、来るよ」


小さな指が、ぎゅっと、莉子の指を握った。


【朝】


莉子は、涙で濡れた枕に気づいて、目を覚ました。


窓の外は、静かな朝だった。机の上に、店の鍵が置いてあった。昨日から、一度も、触っていない。


スマホが光った。航からだった。


『昨日は、ありがとう。母さん、莉子のこと、すごく気に入ったって』


莉子は、返信を打ちかけた。『こちらこそ』まで打って、指が止まった。もう、どこにも、行かないでね。台所で聞いた声が、そのまま、耳の奥に残っていた。


文字を消して、また打って、また消した。


部屋の隅には、缶詰と乾物の箱が積まれている。莉子は、一つ手に取って、重さを確かめて、元の場所に戻した。それから、もう一度、手に取った。


「……約束、したんだ」


握った指の感触が、まだ、手のひらに残っていた。


日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。何も、捨てたくない。


どちらも、本当だった。どちらも、嘘ではなかった。


灯の路地で、千鶴にかけられた言葉が、頭をよぎる。みんなじゃなくて、あなたは。


莉子は、スマホを手に取って、玲奈に電話をかけた。


『……もしもし』


「玲奈ちゃん。解けたら、教えて」


『うん』


「私、まだ、決められない」


『それで、いい』


玲奈の声は、静かで、あたたかかった。


『決まるまで、待つ。莉子が決めるまで』


莉子は、電話を握りしめたまま、小さく頷いた。

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