第25話「選んだ、はずのもの」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第25話「選んだ、はずのもの」
【帰還から一年十ヶ月 喫茶店「灯」】
「ブレンドでいい?」
「……ああ」
カウンターの端の席に、朔は一人で座っていた。千鶴は、カップを置いて、何も訊かずに隣の椅子を引いた。
「元気がないわね」
「そう見えますか」
「見えるわよ。あなた、昔から、分かりやすいもの」
朔は、カップの湯気を見つめた。
「……自分が、何かを選んだことが、思い出せないんです」
「選んだこと」
「求められるまま、動いてきた気がして。それが、俺のしてきたことで」
千鶴は、少し笑った。
「選んだことのない人なんて、いないのよ」
「でも」
「選んだのに、選んでない気がしてるだけじゃない? ここに来るのも、仕事を続けるのも、あの子と別れたのも、全部、あなたが選んだのよ」
「別れたのは、選んだというより」
「選んだの」千鶴は、やわらかく、でも遮った。「そこだけは、人のせいにしちゃだめ」
朔は、返す言葉がなかった。美咲の顔が、浮かんで、消えた。
朔は、黙った。千鶴は、湯気の向こうで、やわらかく続けた。
「選ぶって、立派なことじゃなくて、ただ、毎日、小さく、手を伸ばすことよ」
朔は、カップを両手で包んだ。熱が、掌にしみた。
【数日後 夜の河川敷】
「朔」
背後から呼ばれて、振り向くと、澪と伊織と琴音が立っていた。
「何だ、三人そろって」
「話し合ったの」と澪。「朔くん、証が出てこないって、気にしてるでしょ」
「……ああ」
最初に口を開いたのは、澪だった。
「私を治療役に選んでくれたのは、朔くんだよ。私が、無理だって言ったのに。『お前しかいない』って」
「……そうだったか」
「そうだよ。あれがなかったら、私は、自分が誰かを救えるなんて、思えなかった」
伊織が、腕を組んで言った。
「あたしが前に出たときも、あんたが、後ろを守ってくれた。誰より先に、あんたが、前に立ったからだよ」
「それは」
「選んだのは、あんたでしょ」
琴音が、小さく頷く。
「朔くんは、私が歌える場所を、作ってくれた。みんなが折れそうなときに、誰かが歌っていいって、決めてくれた」
三人の言葉が、夜風に混ざった。
朔は、何も言えなかった。胸のどこかが、熱かった。
自分は、流されてきただけだと思っていた。でも、違った。何度も、自分で決めて、誰かの前に立ってきた。それは、たしかに、選んだことだった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」と伊織が笑った。それから、少しだけ、真顔になった。
「礼はいいから。……その代わり、流されたんじゃなくて、自分で決めたって、ちゃんと思ってよ。あたしたち、そうじゃなかったら、困るんだから」
「……困る?」
「いいの。忘れて」
伊織は、目をそらした。澪と琴音が、何も言わずに、視線を交わした。
【その夜 夢】
雨が降っていた。
灰色の石の門が、目の前にあった。冷たい雨が、顔を打つ。背後で、仲間の息づかいが聞こえる。
門の向こうから、誰かが叫んでいた。
名前を、呼んでいる。何度も、何度も。
「閉めろ」
自分の声が、そう言った。
誰かの手が、一瞬、止まった。振り返らなかった。振り返れなかった。
「……閉めろ」
重い音が、雨の中に響いた。門の向こうの声が、ふっと、途切れた。
【朝】
朔は、息を切らして、跳ね起きた。
シャツが、汗で張りついていた。窓の外は、薄明るい。耳の奥に、まだ、雨の音が残っていた。
「……選んだ」
朔は、自分の手を見つめた。
選んで、前に立った。選んで、仲間を守った。そして、選んで、置いてきたものが、あった。
それも、証だった。
守ったものだけではなく、守れなかったものも、確かに、あの五年間を、生きていた。
「……戻らなきゃ、いけないのかもしれない」
誰に聞かせるでもなく、朔は、呟いた。




