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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第1章
23/57

第23話「残る理由、戻る理由」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第23話「残る理由、戻る理由」


【帰還から一年八ヶ月 朝倉朔】


「朝倉さん、課長に昇進って、本当ですか!」


後輩が、駆け寄ってきた。朔は苦笑して、デスクの書類をまとめる。


「まだ、内示だ」


「朝倉さんがいないと、この部署、回りませんよ」


「大げさだ」


実家に顔を出すと、母が肉じゃがを出してくれた。


「あんた、また、どこか行きそうな顔してる」


「……行かないよ」


嘘だと、朔は自分で分かっていた。母は、それ以上、何も訊かなかった。


日本には、必要としてくれる人がいる。仕事も、家族も、ある。


それでも、夜、窓の外を見ると、思う。向こうには、俺を待っている人たちがいる。置いてきた人たちがいる。


どちらも、嘘ではなかった。


【同じ頃 水城澪】


「逃げてもいいんだよ」


カフェで、真帆が言った。澪は、カップを両手で包んだまま、首を振る。


「逃げたいんじゃないの」


「じゃあ」


「選びたいの」


澪は、窓の外を見た。真帆の顔を、まっすぐに見て、続ける。


「私は、真帆がいてくれる日本が、好き。本当に、大好き。……それでも、向こうでしか、できなかったことがあるの」


真帆は、目を伏せた。


「……向こう、って」


「……」


「また、それ。ずっと、私に隠してること、あるでしょ」


声が、少しだけ尖っていた。


「ごめん」


「謝らないで。……腹が立つのは、澪にじゃなくて、頼ってもらえない自分に、なんだけどさ」


真帆は、カップを置いた。


「また、一人で決めて、一人で無理して。私は、いつも、後から知るんだ」


澪は、何も言い返せなかった。真帆は、それでも、澪の手を、そっと握った。


「いつか、ちゃんと、聞かせて。……納得は、してないけど」


「うん」


澪は、その手の温かさを、忘れまいと思った。握り返した指先が、少しだけ、冷たかった。


【同じ頃 神崎伊織】


配信のコメント欄に、一件だけ、毎回、同じ名前が流れていた。


『ピノ、ずっと見てるよ』


「……ありがと」


伊織は、画面に向かって、小さく笑った。見てくれている人がいる。応援してくれる人がいる。それは、確かに、日本で積み上げたものだった。


夜、河川敷で、伊織は、全力で駆けた。風が、髪を切る。誰もいない空の下で、体が、どこまでも伸びていく。


息が上がらないまま、立ち止まった。


「……やっぱり、ここ、狭い」


日本の空は、好きだ。でも、このままでは、いつか、窮屈で、息ができなくなる気がした。


【同じ頃 白川玲奈】


研究室の机に、論文が二本、並んでいた。


一本は、日本で書いている、通常の研究。もう一本は、ノートの余白に、誰にも読めない文字で書きかけた、別の何か。


雅人が、隣の机から、ふとこちらを見た。


「玲奈さん」


「ん」


「……何でもないです」


雅人の目は、言葉より、ずっと多くを語っていた。玲奈は、小さく頷いた。


日本には、この人がいる。研究がある。居場所がある。


それでも、向こうには、まだ、誰にも解かれていない、膨大な「分からない」が眠っている。それを前にしたとき、玲奈は、ただの研究者に戻れる気がした。


【同じ頃 小鳥遊莉子】


「今日の新作、航くん、食べてみて」


カフェの閉店後、莉子は、試作のパンを差し出した。航が、ひと口かじって、目を細める。


「うまい。……やっぱり、莉子の料理は、うまい」


「えへへ」


笑いながら、莉子の胸が、ちくりと痛んだ。


日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。何も、捨てたくない。


でも、夜、ひとりになると、思う。向こうで、お腹を空かせていた子たちは、ちゃんと食べているだろうか。小さな手が、パンを握っていた。あの笑顔が、まだ、胸の奥に残っていた。


答えは、まだ出なかった。出したくなかった。


【同じ頃 黒瀬琴音】


スタジオのブースの中で、琴音は、新しい曲を歌い終えた。


ガラス越しに、神谷が、親指を立てた。録音は、完璧だった。


「リリース、来月にしよう。反響、絶対ある」


「うん。ありがとう」


日本で歌えること。支えてくれる仲間がいること。それは、本当に、ありがたかった。


それでも、歌いたい相手の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。画面越しではなく、目の前で、聴いてほしい人がいた。


「……届けたいの」


「え?」


「ううん。何でもない」


琴音は、ヘッドホンを外して、微笑んだ。


【同じ頃 佐伯恒一】


「あんた、また、遠くへ行く顔してる」


電話の向こうで、姉が言った。恒一は、山小屋の縁側に座ったまま、苦笑する。


「姉ちゃんには、かなわないな」


「何年、あんたの姉やってると思ってるの」


恒一は、牙の欠片を、指でなぞった。


「俺は、もう、決めてる」


「……そう」


「ごめん」


「謝らないで。ただ」姉は、少し間を置いて、続けた。「帰ってきたくなったら、帰ってきなさいよ」


恒一は、何も言えなかった。ただ、深く、息を吸った。


【夜 それぞれの机】


その夜、七人は、それぞれの部屋で、同じことをしていた。


朔は、引き出しの奥から、擦り切れた革の手袋を取り出した。澪は、小さな薬瓶を。伊織は、欠けた髪飾りを。玲奈は、文字だらけのノートを。莉子は、手書きのレシピ帳を。琴音は、折り目だらけの譜面を。恒一は、牙の欠片を。


どれも、日本の誰にも、説明できないものだった。


それぞれが、それを、手のひらに乗せた。そして、静かに、見つめた。

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