第23話「残る理由、戻る理由」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第23話「残る理由、戻る理由」
【帰還から一年八ヶ月 朝倉朔】
「朝倉さん、課長に昇進って、本当ですか!」
後輩が、駆け寄ってきた。朔は苦笑して、デスクの書類をまとめる。
「まだ、内示だ」
「朝倉さんがいないと、この部署、回りませんよ」
「大げさだ」
実家に顔を出すと、母が肉じゃがを出してくれた。
「あんた、また、どこか行きそうな顔してる」
「……行かないよ」
嘘だと、朔は自分で分かっていた。母は、それ以上、何も訊かなかった。
日本には、必要としてくれる人がいる。仕事も、家族も、ある。
それでも、夜、窓の外を見ると、思う。向こうには、俺を待っている人たちがいる。置いてきた人たちがいる。
どちらも、嘘ではなかった。
【同じ頃 水城澪】
「逃げてもいいんだよ」
カフェで、真帆が言った。澪は、カップを両手で包んだまま、首を振る。
「逃げたいんじゃないの」
「じゃあ」
「選びたいの」
澪は、窓の外を見た。真帆の顔を、まっすぐに見て、続ける。
「私は、真帆がいてくれる日本が、好き。本当に、大好き。……それでも、向こうでしか、できなかったことがあるの」
真帆は、目を伏せた。
「……向こう、って」
「……」
「また、それ。ずっと、私に隠してること、あるでしょ」
声が、少しだけ尖っていた。
「ごめん」
「謝らないで。……腹が立つのは、澪にじゃなくて、頼ってもらえない自分に、なんだけどさ」
真帆は、カップを置いた。
「また、一人で決めて、一人で無理して。私は、いつも、後から知るんだ」
澪は、何も言い返せなかった。真帆は、それでも、澪の手を、そっと握った。
「いつか、ちゃんと、聞かせて。……納得は、してないけど」
「うん」
澪は、その手の温かさを、忘れまいと思った。握り返した指先が、少しだけ、冷たかった。
【同じ頃 神崎伊織】
配信のコメント欄に、一件だけ、毎回、同じ名前が流れていた。
『ピノ、ずっと見てるよ』
「……ありがと」
伊織は、画面に向かって、小さく笑った。見てくれている人がいる。応援してくれる人がいる。それは、確かに、日本で積み上げたものだった。
夜、河川敷で、伊織は、全力で駆けた。風が、髪を切る。誰もいない空の下で、体が、どこまでも伸びていく。
息が上がらないまま、立ち止まった。
「……やっぱり、ここ、狭い」
日本の空は、好きだ。でも、このままでは、いつか、窮屈で、息ができなくなる気がした。
【同じ頃 白川玲奈】
研究室の机に、論文が二本、並んでいた。
一本は、日本で書いている、通常の研究。もう一本は、ノートの余白に、誰にも読めない文字で書きかけた、別の何か。
雅人が、隣の机から、ふとこちらを見た。
「玲奈さん」
「ん」
「……何でもないです」
雅人の目は、言葉より、ずっと多くを語っていた。玲奈は、小さく頷いた。
日本には、この人がいる。研究がある。居場所がある。
それでも、向こうには、まだ、誰にも解かれていない、膨大な「分からない」が眠っている。それを前にしたとき、玲奈は、ただの研究者に戻れる気がした。
【同じ頃 小鳥遊莉子】
「今日の新作、航くん、食べてみて」
カフェの閉店後、莉子は、試作のパンを差し出した。航が、ひと口かじって、目を細める。
「うまい。……やっぱり、莉子の料理は、うまい」
「えへへ」
笑いながら、莉子の胸が、ちくりと痛んだ。
日本が、好きだ。航が、好きだ。この店が、好きだ。何も、捨てたくない。
でも、夜、ひとりになると、思う。向こうで、お腹を空かせていた子たちは、ちゃんと食べているだろうか。小さな手が、パンを握っていた。あの笑顔が、まだ、胸の奥に残っていた。
答えは、まだ出なかった。出したくなかった。
【同じ頃 黒瀬琴音】
スタジオのブースの中で、琴音は、新しい曲を歌い終えた。
ガラス越しに、神谷が、親指を立てた。録音は、完璧だった。
「リリース、来月にしよう。反響、絶対ある」
「うん。ありがとう」
日本で歌えること。支えてくれる仲間がいること。それは、本当に、ありがたかった。
それでも、歌いたい相手の顔が、まぶたの裏に浮かぶ。画面越しではなく、目の前で、聴いてほしい人がいた。
「……届けたいの」
「え?」
「ううん。何でもない」
琴音は、ヘッドホンを外して、微笑んだ。
【同じ頃 佐伯恒一】
「あんた、また、遠くへ行く顔してる」
電話の向こうで、姉が言った。恒一は、山小屋の縁側に座ったまま、苦笑する。
「姉ちゃんには、かなわないな」
「何年、あんたの姉やってると思ってるの」
恒一は、牙の欠片を、指でなぞった。
「俺は、もう、決めてる」
「……そう」
「ごめん」
「謝らないで。ただ」姉は、少し間を置いて、続けた。「帰ってきたくなったら、帰ってきなさいよ」
恒一は、何も言えなかった。ただ、深く、息を吸った。
【夜 それぞれの机】
その夜、七人は、それぞれの部屋で、同じことをしていた。
朔は、引き出しの奥から、擦り切れた革の手袋を取り出した。澪は、小さな薬瓶を。伊織は、欠けた髪飾りを。玲奈は、文字だらけのノートを。莉子は、手書きのレシピ帳を。琴音は、折り目だらけの譜面を。恒一は、牙の欠片を。
どれも、日本の誰にも、説明できないものだった。
それぞれが、それを、手のひらに乗せた。そして、静かに、見つめた。




