第18話「待たなくていい」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第18話「待たなくていい」
【帰還から一年三ヶ月 水城澪】
夜の公園のベンチで、彼は缶コーヒーを二本持って待っていた。
「話って?」
「……別れたい」
缶の蓋を開けかけた彼の手が、止まった。
「理由、聞いていい?」
「あなたが悪いんじゃない。私が、ずっと、自分の気持ちを言わなかった。それが、あなたを傷つけてた」
「……俺は、気づけなかった」
「気づかせなかったの。私が」
澪は、自分の指先を見つめていた。ずっと、飲み込んできた言葉があった。それを、今、口にしようとしていた。
「私は、こうしたい、って、初めて言う。これが、初めて」
彼は、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「別れ話で初めて聞くとは、思わなかったな」
「ごめん」
「……嬉しい、って言いたいけど」彼は、缶を握りしめた。「帰ってきてから、一年だよ。澪が『大丈夫』って言うたびに、俺は、それを信じてた。あれは、全部、嘘だったのか」
「全部じゃない」
「全部じゃない、か」
彼は、笑った。笑い方が、ぎこちなかった。
「……ごめん。責めたいわけじゃないんだ」
彼の目が、少し赤かった。
「……誰か、いる?」
澪は、少しだけ間を置いた。
「まだ、分からない。でも、そのせいじゃない。私が、私のために言ってる」
「そっか」
彼は、自分の缶コーヒーを、澪には渡さなかった。手の中で、何度も握りなおしている。
「分かった」
「……うん」
「ありがとうは、まだ、言えない。……いつか、言えたら、言う」
帰り道、真帆に電話をかけると、第一声が飛んできた。
『言えたの?』
「言えた」
『朔くんのため?』
「違う」澪ははっきり答えた。「朔くんのためじゃない。私が、そうしたいから」
電話の向こうで、真帆が、小さく笑った。
【同じ週 神崎伊織】
駅前のラーメン屋のカウンターで、伊織は箸を持ったまま、動かなかった。
「蓮」
「ん」
「ちゃんと言う。あたし、蓮の隣には、戻れない」
蓮の手が、麺の上で止まった。
「……そうか」
「蓮が悪いんじゃない。あたしが……」
「知ってる」
蓮は、レンゲを置いて、ゆっくりと息を吐いた。
「あのさ、伊織」
「うん」
「待つのは、得意じゃないんだ。……待たなくていいなら、少し楽になる」
伊織は、苦笑した。胸のどこかが、ちくりと痛んだ。
「ごめん」
「謝るな。ありがとう。ちゃんと、言ってくれて」
蓮は、不器用に笑った。
「また、配信見るよ。……元気でな」
「うん」
店を出ると、夜風が冷たかった。伊織は、ポケットに手を突っ込んで、少しだけ、空を見上げた。
【同じ週 黒瀬琴音】
「ミックス、できたよ」
スタジオのスピーカーから、琴音の歌が流れた。日本語の歌詞が、あの旋律にやさしく乗っている。
神谷は、椅子に座ったまま、目を閉じていた。歌が終わっても、しばらく動かなかった。
「……俺、琴音さんの歌の、一番のファンだと思ってた」
「ありがとう」
「でも、もう分かってる」
神谷は、目を開けて、琴音を見た。
「届けたい相手が、ほかにいるんだろ」
琴音は、目を見開いた。
「……気づいてたの」
「歌を聴けば分かる。ずっと、誰かに向けて歌ってた」
神谷は、少し笑った。
「いい歌だ。……届くといい」
琴音の目から、涙がこぼれた。神谷は、何も言わずに、ティッシュの箱をそっと押し出した。
【その夜 居酒屋】
カウンターの隣の席で、一人の男が、ジョッキを睨んでいた。蓮だった。反対側の隣には、神谷が、静かにグラスを傾けている。
蓮が、ぽつりと言った。
「……待ってた側か」
「え?」と神谷。
「あ、いや。顔に書いてある」
二人は、目を合わせた。それから、どちらからともなく、笑った。
「神谷さん、ですよね。琴音さんの」
「蓮さん、でしたっけ。伊織さんの」
「……飲みますか」
「ええ」
ジョッキとグラスが、小さく触れ合った。
【同じ夜 朝倉朔】
配信を終えて、朔は部屋の電気を落とした。
スマホが、続けて三回、震えた。
『澪:話したいことがある』
『伊織:今、会える?』
『琴音:聞いてほしいことがあるの』
朔は、画面をじっと見つめた。
恒一の言葉が、頭をよぎる。背負うな。選べ。
返信を打ちかけた指が、画面の上で、止まった。




