第15話「一周年」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第15話「一周年」
【帰還から十一ヶ月半 朝倉朔】
新しい部屋は、ワンルームだった。
段ボールは、半分しか開けていない。壁際にマットレスを置いて、玄関が見える向きで寝る。その生活は、何ひとつ変わらなかった。変わったのは、部屋に帰っても、「おかえり」が返ってこないことだけだった。
配信のあと、チャイムが鳴った。
「朔くん、いる?」
澪が、買い物袋を提げて立っていた。
「……どうして」
「真帆から、聞いたの。美咲さんのこと」
澪は、返事を待たずに靴を脱いだ。台所に立って、手際よく野菜を刻みはじめる。
「大丈夫か、って訊かないのか」と朔が言った。
「訊かない。だって、朔くん、『大丈夫』って答えるでしょ」
朔は、言葉に詰まった。
「大丈夫、って言わなくていいよ」澪は、包丁を動かしながら続けた。「私も、昔は言ってたけど。……言わなくて、いいんだよ」
朔は、台所の入口に立ったまま、動けなかった。澪の背中を見ていると、胸のどこかが、少しだけ、ほどけていくのが分かった。
「……ああ」
「うん。それでいい」
澪は、振り向かないまま、小さく笑った。
【数日後 夜の河川敷】
「走るよ」
伊織は、一言だけそう言って、朔を河川敷に引っ張り出した。
人影は、ない。月が川面に映っている。伊織は、靴を脱ぎ捨てるようにして、地面を蹴った。
風が切れた。朔も、気づけば走っていた。足音は、ほとんどしなかった。橋の下を、一息で抜ける。笑い声が、風に混ざった。
立ち止まったとき、二人とも息は上がっていなかった。
「……ここ、狭いよね」と伊織が言った。
「ああ」
「あたしたちだけだよ、これ分かるの」
「そうだな」
伊織は、川を見たまま、ぽつりと言った。
「朔が、ひとりで全部抱えてるの、見てて腹立つ。あたしら、共犯でしょ」
「……共犯、か」
「だから、ひとりで勝手に抱えるな」
朔は、小さく笑った。久しぶりに、まともに笑えた気がした。
【同じ週 黒瀬琴音】
「聴いてほしい曲があるの」
琴音は、小さなスタジオで、ギターを抱えていた。朔は、壁際の椅子に座っている。
琴音は、目を閉じて、歌った。やさしい旋律。聞き覚えのない言葉。朔は、それがどこの言葉なのか、確かめなくても分かっていた。
歌い終えたとき、朔は、しばらく何も言えなかった。
「……いい歌だ」
「ありがとう」
琴音は、ギターを膝に置いて、静かに笑った。
「朔くんは、頑張りすぎ。……ずっと、見てたよ」
「……ああ」
「どこに帰るかなんて、誰かに決めてもらわなくていいんじゃない?」
朔は、顔を上げた。琴音の目は、澄んでいた。何かを知っている人の目だった。
「覚えておくよ」
「うん」
琴音は、またギターを抱えて、弦に指を置いた。
【帰還から一年 喫茶店「灯」】
七人が、灯の席に揃った。
千鶴が、ブレンドを七つ並べる。「一周年ね」と、さらりと言って、厨房に戻っていった。
席は、あの夜の並びと、少しだけ違っていた。朔の隣には、伊織が座っている。向かいには、澪。斜め前に、琴音。三人の視線が、ちらりと交わって、すぐにそれぞれの手元に戻った。
莉子が、くすっと笑った。玲奈は、黙ってコーヒーを啜った。
恒一は、窓際の席にいた。外を見たまま、カップに触れていない。
「全員いるな」と朔が言った。
七人は、いつものように頷いた。ただ、恒一だけが、少し遅れて顔を上げた。
「……なあ」
恒一の声が、静かに響いた。
「一年経ったな」
「ああ」
「ちゃんと、言っておきたい」
恒一は、カップを持ったまま、まっすぐに朔を見た。
「俺は、戻りたい」
灯の中が、静まり返った。
「……お前らは、どうする」
誰も、すぐには答えなかった。千鶴が、厨房の入口で、そっと足を止めたのが見えた。




