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RETURNER ―帰還者たちは戻れない―  作者: れのん
第1章
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第14話「どこに、帰るの」

『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』


第14話「どこに、帰るの」


【帰還から十一ヶ月 二人の部屋 高橋美咲】


夜中に目を覚ますと、隣の布団が空だった。


美咲は、暗い部屋を見回した。朔は、窓際に立っていた。カーテンの隙間から、外を見ている。背中が、いつもより少しだけ遠く見えた。


「……何を見てるの」


「外」


「何か、いるの?」


「いや」朔は振り向かずに答えた。「……癖だ」


美咲は、それ以上訊かなかった。訊けば、また「まだ、言えない」が返ってくる。その言葉を、もう何度も聞いていた。


朔は、優しかった。休みの日は料理を作り、荷物は全部持ち、夜はいつも美咲より遅く眠る。何も、悪くなかった。悪いところが、どこにもなかった。


それなのに、一緒にいる時間が、少しずつ、美咲の中に積もっていく。静かな雪のように。


【数日後 式場からの連絡】


『ご予約の日程のご確認ですが』


電話の向こうの声に、美咲はスマホを握りなおした。


「あの、少しだけ、延期ってできますか」


『もちろんです。いつ頃に』


「……後日、改めて連絡します」


電話を切ると、朔が台所の入口に立っていた。


「延期?」


「うん。ごめん、勝手に」


「いや」


朔は、ほんの少しだけ、息を吐いた。美咲は、その息の意味に気づいてしまった。


ほっとしたのだ。朔も、自分も、同時に。


互いに気づいてしまったことを、二人とも口にしなかった。


【同じ週 喫茶店「灯」】


「どうするの」


千鶴は、カップを拭きながら訊いた。カウンターの端の席で、美咲は小さく首を振った。


「朔が悪いわけじゃないんです。……私が悪いわけでも」


「そうね」


「それなのに、苦しいんです」


千鶴は、手を止めた。


「悪い人がいないのに、終わる恋もあるのよ」


美咲は、カップの湯気を見つめた。涙は出なかった。ただ、胸のどこかで、何かが静かに、ほどけていった。


【その夜 食卓】


向かい合って座ったとき、先に口を開いたのは、美咲だった。


「朔。たぶん、同じこと、考えてる」


朔は、箸を置いた。


「……ああ」


「ごめんね」


「謝らないでくれ」朔は、静かに言った。「悪いのは、俺だ」


「悪くないよ。……って、言えたら、楽なんだけど」


「美咲」


「本当は、少し、悔しいの」美咲の声が、わずかに揺れた。「二週間、必死に待ったのに。あなたは、その間に、私の知らない場所で、私の知らない時間を」


言葉が、そこで切れた。美咲は、唇を噛んだ。


「……ごめん。今のは、言わないつもりだった」


「いや」


「私じゃ、足りなかった?」


「違う」朔は、すぐに首を振った。


「違うって言ってくれるのは、優しさだよね」美咲は、小さく笑った。「ありがとう。でも、今は、少しだけ、聞きたくなかった」


美咲は、まっすぐに朔を見た。二人の間にある、白い皿を見つめた。


「私が待ってた朔は、二週間前の朔だった。ここにいる朔は、私の知らない時間を、たくさん持ってる」


「……ああ」


「その中に、私の知らない、大事な人たちもいるんでしょ」


「……ああ」


「話してくれなくていい。でも、私は、その中に入れない」


朔は、何も言い返さなかった。言い返せないことが、答えだった。


「ずっと、『おかえり』って言いたかったの。でも、言えば言うほど、あなたが、遠くなる気がして」


「……すまない」


「謝らないで」美咲は、笑った。「私ね、ちゃんと、自分の人生を始めるから」


その言葉に、朔の目が、わずかに揺れた。


「待つのは、得意だった。でも、もう、待たなくていいんだと思う」


【玄関】


朔の荷物は、思ったより少なかった。バッグがひとつ。


玄関で靴を履く背中に、美咲は声をかけた。


「朔」


「ん」


「食器、半分こしようね。二人分、ずっと並べてたから」


「……ああ」


朔は、靴の紐を結び終えて、立ち上がった。ドアノブに手をかけたまま、動かない。


「帰るよ、って、言ったよね」と美咲は言った。「最初の夜に。そっち帰るよ、って」


「……ああ」


「ここが、帰る場所だと、思ってた?」


朔は、長いあいだ黙っていた。


「思ってた」声が、かすれた。「思おうと、してた」


その答えが、すべてだった。


「どこに、帰るの」


朔は、振り向いた。美咲を見て、笑った。泣きそうな笑顔だった。


「……分からない」


ドアが、静かに閉まった。


美咲は、玄関の前に立ったまま、小さく呟いた。


「……おかえり、って、言いたかったな」


【夜道 朝倉朔】


朔は、一人で夜道を歩いていた。


街灯の下で、足を止める。空を見上げると、ビルの隙間に、小さな星がいくつか光っていた。


掌を見つめた。何も、握っていなかった。


「……帰る、か」


誰に向けた言葉でもなかった。夜風が、その言葉をどこかへ運んでいった。

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