第13話「好きな場所」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第13話「好きな場所」
【帰還から九ヶ月 小鳥遊莉子】
「莉子ちゃんの新作、予約が入ってるわよ」
店長の声に、莉子はオーブンの前で顔を上げた。秋の新メニュー。栗とさつまいものタルトは、試作の三回目でやっと形になった。
「看板になってきたわね、この店の」
「えへへ。……ありがとうございます」
こんなふうに、誰かに必要とされるのが、嬉しかった。毎朝、決まった時間に店を開けて、焼きたての匂いのなかで、常連の顔を見る。水道を回せば水が出て、冷蔵庫には季節の食材がたっぷり詰まっている。
日本が、好きだった。心の底から。
閉店後、後片付けをしていると、航が入口に立っていた。
「莉子。話があるんだ」
「新メニューの感想?」
「違う」
航は、少しだけ視線をそらしてから、まっすぐに莉子を見た。
「俺と、付き合ってくれないか」
手に持っていた布巾が、ぽとりと落ちた。
「……ずっと、『たまたま』だったんじゃなかったの?」
「たまたまじゃ、なかった」航は、顔を赤くして言った。「ずっと」
莉子は、笑いながら、泣いていた。
「うん」
「……いいのか」
「うん。……うん!」
航が、ほっとしたように息をついた。莉子は、胸のなかがぱっと明るくなるのを感じた。この場所が、この人が、この日常が、確かに自分のものだと思えた。
その日の帰り道、莉子はふと、足を止めた。
幸せなのに。どうして、ほんの少しだけ、怖いのだろう。
【同じ頃 白川玲奈】
深夜の研究室で、玲奈はノートに箇条書きを並べていた。
『仮説1:七人が同時に存在し、認識される(配信)』
『仮説2:時間のずれが、糸になっている?』
『仮説3:——』
最後の行で、ペンが止まった。
「……足りない」
あの同時配信では、同じ条件を再現した。ノイズは鳴った。針も振れた。それなのに、何も起きなかった。何かが決定的に足りない。
「玲奈さん、まだいたんですか」
雅人が、コンビニの袋を提げて顔を出した。おにぎりと、あたたかいお茶。
「夜食です」
「……ありがとう」
「何を調べてるんですか」
「ただの研究」
雅人は、それ以上訊かなかった。机の端に袋を置いて、隣の椅子に腰を下ろす。
「分からないって、前は嫌いだったのに」
「今も嫌い」
「でも、最近、楽しそうですよ」
「楽しい?」
「顔が」
玲奈は、思わず自分の頬に手をやった。確かに、笑っていた。
分からないことが、嫌いだった。今も、嫌いだ。それでも、分からないものに手を伸ばしているとき、玲奈は確かに、生きている気がした。
【数日後 夕食】
「ごはん作りに来たよー!」
玲奈の部屋の玄関で、莉子が買い物袋を掲げていた。
「頼んでない」
「でも、どうせ食べてないでしょ。ここ、ずっと冷蔵庫、空っぽ」
手際よく台所に立つ莉子の背中を、玲奈はソファから眺めていた。湯気の立つ鍋、包丁のリズム。この音が、玲奈は好きだった。
「莉子は、日本が好きなのね」
「うん。大好き。……だから、怖いの」
包丁の音が、止まった。
「みんな、少しずつ、変わってきてるでしょ。伊織ちゃんも、澪ちゃんも、琴音ちゃんも。恒一くんなんか、最近ずっと、遠い顔してる」
「……気づいてたの」
「気づくよ。ずっと、世話してたもん。……朔くんの話になると、伊織ちゃんも澪ちゃんも琴音ちゃんも、ちょっと顔が変わるし」
「……それは、私も気づいてた」
莉子は、鍋をかき混ぜながら続けた。
「みんなが行っちゃったら、私、ひとりになっちゃう気がして」
「まだ、誰も決めてない」
「そうだけど」
玲奈は、すぐには答えられなかった。莉子の背中は、小さく震えていた。
「……ご飯、できたら食べる」
「うん」
莉子は、目元を拭って、笑った。
【その夜 白川玲奈】
莉子が帰ったあと、玲奈はノートを開いた。
箇条書きの最後の行に、ペンを走らせる。
『仮説3:七人が、同じ場所に集まる必要がある?(仮)』
その下に、もう一行。
『みんなが決める前に、解かなきゃ』
書いてしまってから、玲奈は自分の字を、じっと見つめた。
解いて、どうするのか。それがどちらを選ぶためなのか。まだ、自分でも、分からなかった。




