第12話「戻りたい、の手前」
『RETURNER ―帰還者たちは戻れない―』
第12話「戻りたい、の手前」
【帰還から七ヶ月 静かな夜】
夜十時、朔は自室で配信を始めた。同時接続は、三百人。
再開した当初に押し寄せた視聴者は、ひと月でほとんど去っていた。残ったのは、昔からの常連と、少しの新顔だけだった。
『お疲れ様です』『今日も残業?』
「ああ。今日は、見積りが三回戻ってきた」
他愛のない雑談に、他愛のないコメントが返る。仕事をしながら続ける、普通の配信者の夜だった。
「……静かだな」
独り言のように言って、朔は笑った。少しだけ、寂しそうな笑いだった。
【水城澪】
昼休み、彼から連絡が来た。
『週末、どうする?』
澪は返信を打っては消して、結局、短く送った。
『どこでもいいよ』
夜、駅前のカフェで、真帆が澪のカップを見つめて言った。
「それ、本当に『どこでもいい』?」
「え?」
「澪は昔から、『どこでもいい』って言うとき、一番どこにも行きたくない顔をするの」
澪は笑ってごまかした。真帆は、笑わなかった。
「本当に、戻りたいの?」
「何に?」
「前の生活に。彼との、前の関係に。前の、何でも『大丈夫』って言ってた澪に」
澪はカップを見つめた。湯気が、ゆっくりとほどけていく。
「……分からない」
「昔の自分に戻れないなら、どうする?」
「……私は、こうしたい、って、言ってみたい」
「誰に?」
「まだ、分からない」
帰り道、澪は街灯の下で足を止めた。掌を見つめると、指先に、淡い熱が灯っていた。
「向こうなら、もっと」
言いかけて、はっとして口を押さえた。街灯の光の下には、誰もいなかった。
【神崎伊織】
「もう一度、やり直さないか」
蓮は、居酒屋のカウンターで、まっすぐに言った。伊織はグラスを握ったまま、すぐには答えられなかった。
「……ごめん」
「理由、聞いてもいいか」
「蓮が悪いんじゃない。あたしが、変わった」
「どう変わった」
「……言えない」
蓮は、ゆっくり頷いた。
「待つよ」
「待たなくていい」
伊織は、思ったより強く言ってしまった。蓮の目が、わずかに揺れる。それを見ないふりをして、伊織は店を出た。蓮のことを考えているはずなのに、頭に浮かんでいたのは、別の顔だった。
夜の河川敷には、誰もいなかった。
伊織は走った。最初はジョギングのつもりだった。風が耳を切る。足が地面を蹴る。橋脚の影を、数秒で通り過ぎた。次の橋までの距離を、息もつかずに駆け抜ける。
立ち止まったとき、息は少しも上がっていなかった。
川面に月が映っている。伊織は、空を見上げて、小さく笑った。
「……ここ、狭い」
誰にも聞こえない、独り言だった。
【黒瀬琴音】
「あの曲、ちゃんと形にしよう」
練習室で、神谷が言った。
「日本語の歌詞をつけて、きちんと録る。あの動画を見て、探してる人もいる」
「……うん」
琴音はノートを開いて、ペンを走らせた。旋律に合わせて、言葉を置いていく。
神谷が、ふと手元を覗き込んだ。
「……琴音さん。それ、何語?」
ノートの上には、見慣れない文字が並んでいた。日本語でも、英語でもない。丸みを帯びた、やわらかい形の記号。
琴音は、自分の手を見つめた。それから、静かに笑った。
「どこの言葉でも、ないの」
「じゃあ」
「……帰る場所の、言葉」
神谷は、何も言えなかった。琴音は、ペンを置いて、ゆっくりと息を吐いた。




