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第三話:暗転と事故

第三話:暗転と事故



 その事故は、あまりに唐突だった。


 深夜、店を上がった根古ねこが、結衣ユイの待つマンションへ向かってバイクを走らせていた時のことだ。


 視界がふっと歪んだ。

 信号は青。対向車もいない。


 ポケットの中のスマホが異常な熱を持ち、太ももを焼くような熱さを放った。



「熱つっ……!?」


 反射的にハンドルから片手が離れる。

 

 その瞬間、目の前の景色がぐにゃりと曲がり、街灯の光が真っ赤な血の色に見えた。



 ──キィィィィィィッ!


 激しい金属音と共に、根古ねこの身体は宙を舞った。




 意識が戻った時、ツンと鼻をついたのは消毒液の匂いだった。真っ白な世界。


「……ここは、……?」

「根古さん、気がつきましたか?」



 視線を動かすと、自分が寝かされていたベッドの脇に、白いナースキャップを被った女性が立っていた。


 看護師の雅美まさみだ。後から聞いたところ三十二歳だという。

 落ち着いた物腰と、冷ややかなほどに整った顔立ち。かなりの上玉だな。根古の口角が上がる。


 点滴を調整する彼女の左手薬指には、鈍く光る結婚指輪があった。



「右足の骨折と全身の打撲です。命に別状がなかったのは、運が良かったですね」


 雅美の声は事務的だったが、ふと根古と目が合った瞬間、その瞳に妖艶な光が宿った。

 根古は、こういう女の「隙」を見つける天才だった。


「……運がいい? だな。こんな美人の看護師さんに会えたんだから、俺は、最高についてるよ」


 骨折の痛みも忘れ、根古はニヤリと笑った。


 雅美はその根古の笑顔に同じ匂いを嗅ぎ取った。

 カーテンを閉め、周囲に誰もいないことを確認してから、根古の耳元に唇を寄せた。


「口が上手いのね。……でも、嫌いじゃないわ、そういう男」




 その夜、寝静まった病棟の一番奥、根古の病室は二人の密会の場となった。


 雅美は夫という「帰る場所」がありながら、動けない根古に跨り、腰を振り背徳的な悦びに身を任せた。

 根古にとっても、清楚なナース服姿の彼女を籠絡ろうらくするのは、新しい玩具を手に入れたような高揚感だった。


 入院中に、病室のベッドで看護婦とまぐわう。AVでしか見かけない男の夢だろう。



 二人の睦み合いを、サイドテーブルの上に置かれたスマホが、真っ暗なレンズでじっと見つめていた。……ヒダリテ、クスリユビ……



 その頃。

 

 自宅のベッドで、沙織サオリたちは、それぞれスマホを握りしめていた。

 根古が事故に遭ったことは、スマホが勝手に彼女たちに知らせていた。


『事故った。今、中央病院。……不安なんだ。お前にそばにいてほしい、明日の朝、来てほしい』


 そのメッセージは、四人全員に同じタイミングで届いていた。


 彼女たちは、はやる気持を抑えて朝を待ち、必死の思いで病院へ駆けつけた。

 病院のドアを足早に駆け抜け、見知らぬ女たちと、ほぼ同時に病室へと向かう。



 通り過ぎる瞬間、ナースステーションで若い看護師たちの黄色い歓声が上がった。


「マジ? 昨日急患で搬送されてきた根古さんと?」

「そうなの。雅美さんと、その根古さんがヤッてたの」

「右足骨折で固定してるのに? 病室で?」

「よくやるぅー、ってかマサミさんって確か結婚してたよね」


 根古と誰がヤッてたって? 何を? 文脈的に考えれば、間違いなく男女の営みであろう。

 まさか? そんなはずない。


 けれども……病室の前についた彼女たちの目に飛び込んできたのは、驚くべき光景だった。


 ドアの隙間から見えた、根古の満足げな顔。

 そして、彼に寄り添い、頬を撫で、笑みを浮かべる看護師、多分あれが『マサミさん』と呼ばれていた人だ。


「……嘘」


 沙織の脳裏に、スマホから届いたあの甘い言葉たちがフラッシュバックする。


『俺が本当に必要なのは、サオリだけだ』


 あれは、嘘だったのか。

 

 あの時……くれた言葉たちは。

 


 スマホの中の「記憶」が、激しく、叫ぶように振動した。


 ──アイシテルッテ、イッタノニ。

 ──オクサンガイタ。コドモガイタ。

 ──ユルセナイ。


 沙織たちの脳内に、直接、女の泣き声のようなノイズが響き渡る。



 それは、スマホの元の持ち主の女性が、かつてスマホの画面越しに味わった「裏切りの絶望」そのものだった。



 退屈な日曜の午後、約束はなにもない。彼は今日も接待ゴルフだ。


 何気無く眺めていたインスタグラムの画像たち


 ふと目に止まった、幸せそうな女性の笑顔。

 スクロールする、お花見、海水浴、お誕生日のお祝い、クリスマス、幸せそうな家族写真と美味しそうな料理。


 わんぱくそうな男の子の笑顔、微笑む彼女、そしてその肩を抱く男性。左手の薬指に光る指輪。

 

 そこに映っていたのは、自分の恋人、いや恋人だと信じていた男だった。見たこともないような温かな笑顔。


 


 根古が手に入れたスマートフォンの元の持ち主の女性の『彼氏』は、

 ちょうど根古と同じ三十四歳で、中肉中背よりも少しだけ長身、少しだけマッチョ寄り、同じような背格好だった。



 インスタグラムの写真を見つけて慌てた彼女は、禁を破って日曜日の夕方、彼氏に電話をかけてしまった。

 間違いだよって、他人の空似なんじゃないか、今はゴルフの後で、付き合いで上司と飲んでるよ、そう言って貰いたかった。


 でも……耳に届いたのは迷惑そうな「どうした突然、なんかあった?」の声と、

 「ユウくん、パパにお風呂だよって言ってきて」っていう女の声、

 そして「パパー、オフロよー」という子供ユウくんの声だった。



 平日にしか会えないのも、

 遅くなっても絶対に泊まらず家に帰ってしまうのも、

 一人暮らしの部屋に一度たりとも呼ばれないのも、

 外食や外でのデートがないのも、

 土日に会えないのも、連絡をしてはいけないのも、全てがつながった、……つながってしまった。



 発作的に、風呂場に向かい、カミソリを手首に当てた。お湯が赤く染まっていくのを見ながら目を閉じた。彼は、泣いてくれるだろうか。最期に会いたい。許せない。連絡が欲しい。許せない。今すぐ来て、抱きしめて、誤解だよ、バカだなって言って。……迷惑そうな声だった。許せない。私の最期の姿を見て、泣いて後悔すればいい。後悔するだろうか。それとも何も変わらず、日常に戻っていくのだろうか。……許せない。





 憎悪のターゲットは、今や根古一人ではなかった。

 自分を「持たざる者」として見下す、あの「左手に指輪をはめた既婚の看護師」にも向けられていた。




 四人の女たちは、病室の外で初めて顔を合わせた。

 言葉は交わさなかった。


 彼女たちのスマホが同時に震え、同じメッセージを映し出した。



『ヤリナオソウ。アノオンナカラ、スベテヲウバイ、アノオトコヲ、トワニワタシタチノモノニ……』



 女たちの瞳から、光が消えた。



 スマホという名の鎖で繋がれた四人の「共犯者」が、静かに頷き合った。











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