啄み
ふう、と軽く息をつきながら扉の前に立つ。
心配という穏やかかつ陰鬱な心持ちと、不安という心の中をかき乱す要素が私の中を駆け巡り、扉を開く手を鉛のように重くさせた。
妹に会う。
ただそれだけで、これほどまでに心身ともに沈鬱に沈む兄などいるのだろうか。
関係が劣悪ならばそれはあり得るだろう。しかしながら、関係が良好であるのにもかかわらずこの精神状況だ。我ながら女々しくて嫌になる。
顔の筋肉を意図的に動かし、硬直した表情を作らないように心掛けてみた。病は気からというが、緊張がどうにも私の口角に対して停止を命じていた。
しかし、いつまでも扉の前に気落ちしたまま地蔵になっているわけにはいかないため、鬱々しい言葉を並び立てる心に蓋をして、扉を開いた。
「……あ、兄さんお帰りなさい」
開いた瞬間、音で気づいたのか妹がこちらを向き、声とささやかな笑顔で出迎えてくれた。
その手にはやはり本が握られており、ベッドにもたれかかりながらも、紙の擦れる音がやや断続的に聞こえた。
私を迎え入れたその表情は先ほどよりもやや明るさを増しており、先ほど見たときに白さを感じた頬には血色の色が復活している。
その様子に胸をなでおろしながらも、同時にそれは精神状態が体調に直結する明確な例でもあり、やはり少しだけ自戒の念が浮かぶ。
ただそれでも全体から見れば、私の心は妹の回復を確認したことで深海から浮上しており、精神には快い光がさしていた。
「……ああ、ただいま」
そのため、なんともなしにそう返したくなり、私はその心のままに従った。
その言葉を出すだけで、私の口角は意識しないままに上がった。
ただいま。帰る場所のあることが認識出来る言葉。
待ってる人がいるという言葉。
その何でもないものではあるが、それでも生活の根幹ともいえる言葉は、更に私の心を軽くするのに幾分か寄与してくれた。
「とりあえず経過は良くなってるってさ」
嘘は言ってはいないと己に言いきかせつつ、妹のベッドに近づき、椅子に座る。
それを認識したのか妹は文字から目を離し、本を閉じた。
「……そっか。なら良かった、かな」
それを聞くと、ふうと一つだけ息をついて、妹はこちらを向いた。
そして口を開き、言葉を発するのだった。
「退院は、出来そう?」
その質問は病院に縛り付けられたままの者としては至極当然のものであり、同時に私の心を再度海の底に叩き込むのには、十分にすぎるものだった。
ただそれを聞いただけで、私の体はこわばり、自由が効かなくなってしまいそうになるのだ。
口の中の水分が急激に消え失せ、唾液が乾いて口の中でねばついた。
「……まだ駄目だってさ。経過観察を厳とせよ、とのお達しです」
無理やり気味に口を動かして私が出したその声は、どちらかといえば明るい調子で発することに成功してはいたが、底の抜けた桶程に有意義なものではなかった。
声を発しながら、風もないのにカラカラと無理やり回そうとする風車が私の頭の中に浮かんだ。
「……そっか」
妹の出した言葉自体は先ほどと同じものではあったが、含まれる意味合いがまるで違った。
声の調子は落ち、落胆の意がありありとうかがえた。
妹はまた外を見た。
時間がたち、だんだんと暗がりに堕ちていく橙色に染まった空。
鳥や虫の声が静かにもの悲し気に響き、どこか鳴き声であるがゆえに泣いているように聞こえた。
刻々と立っていく時間はやがて美しい新緑すらも漆黒に染め上げて地面に朽ち果てさせるのだろう。
それでも、真っ黒な世界の中だとしても。
新緑は新緑のままでいてほしいというのは、……そう願うことは、無理難題をふっかけているだけなのだろうか。ただただ細々しい枝に無理を言っているだけなのだろうか。
私たちにとっての幹はもうこの世を離れた。
今度は私が妹にとっての太い幹にならなければいけないのだ。
たとえどれほど弱った枝でも葉であろうとも、私は栄養を届けなければいけない。
光は、十分なほどに妹に貰っている。
ただただ、存在しているだけでうれしいのだ。
そこに生き、会話を交わし、薄いながらも笑顔を浮かべてくれる。
それだけで十分にすぎる。
それが家族というものではないか。
しかしそんな思いとは裏腹に、私は妹の頭に掌をゆっくりと載せることしかできなかった。
当の妹は泣きそうな顔を隠しきれず、隠すかのように外を見つめ続けているのに。
大人の偉大さを感じた。
私はその時ほど大人でいたかったと感じたことはなかった。何をどうすれば妹を暗がりから救えるのか、あるいはどうやれば自分が暗がりから抜け出せるのか、その術を知らなかったのだ。
それが大人に対しての幻想であれ、年齢を重ねただけでは到達できない大人の深みというものが存在するのだと感じた。
きっと父と母であれば、たやすく妹を救いえただろうから。
いや、きっと救うという認識すらなく、親として当たり前のことという認識くらいで、解決に導けたことだろう。
「……俺は、いつまでも待ってるから」
なんとか笑顔を浮かべつつ、妹の頭を撫でていく。
髪の感触が掌を刺激していた。
私の言葉に妹は外から目を離し、こちらを見た。
憧れ、期待だけでは何も生まれない。
強い人間というのは、現実をありのままに直視できる人間のことだと思うのだ。
だからこそ、妹にはこちらを見てほしい。
ありのままに。
私には、無理やり妹を引き上げるほどの強さはない。
ともに、ここから逃れうるために。
「……いつまでかかってもいいから。俺も何回でもここに来るから」
届くかもわからない言葉は、妹がゆっくりと頭を縦に振ったことによって、少しだけ報われた気がした。
妹は私の掌に頭を預けたまま、そのまま暫く大人しくしていた。
そんな妹に、私は静かに寄り添っていた。




