親鳥の心境
「妹さんは、やはり状態としては芳しくないですね」
蛍光灯の発色がいい部屋の中に、渋い声が響いた。
私は丸椅子の上に腰かけており、目の前には皺ひとつない白衣を着た男性が座っていた。その男性は几帳面そうに綺麗な丸眼鏡をつけており、その奥に見える瞳は細く、梟のような丸みを帯びたフォルムの眼鏡とは正反対に、鷹のような鋭さがあった。
黒い髪は清潔さを象徴するように額のあたりで短く切りそろえられており、体系は中肉中背を地でいく様子であった。医者と聞けば誰でも想像しうるような人物であったが、その姿勢、考え方すらも医師たるものこうでなければならない、と模範と言えるものだった。
その医師の瞳はデスクの上の、全てクリップで一纏めにされていたカルテに注がれていた。
その眉間には険しい皺が山脈を形成しており、どうにも軽快な事柄を考えている表情ではなかった。
「体の問題でしょうか……?」
「いえ、妹さんのお体はもう治りかけています」
水を向けるために放った問いには、あっさりと返答が来た。
「問題は心の方ですね」
そして吐かれる言葉はあっさりと核心を突く。
「精神の方は私の専門ではないですが、事情を聴いた限りから言えば、浅からぬ傷でしょう。流石に一朝一夕では治らないようですね」
「……そうですね、私から見ても……精神状況はあまり好転しているとは思えませんでした」
私は苦々しい顔をしながらそう言葉を吐いた。
「……妹さんを診るにはお兄さんより特効薬はありませんよ。妹さんのことも一番詳しいですしね」
医師はこちらを向きながら、少しだけ安心させるように笑みを浮かべながらそう言う。
笑みに対して私は何事も言えず苦笑いしか返すことができず、自問と回想の海へと段々と沈んだ。
確かにそうなのかもしれない。この世界の中で、未来のことは知らないが、今現在においては妹のことに関しては私以上に詳しい人物などいないだろう。
過去にはきっといただろう。肉親という素晴らしくわかりやすい形で少女を一から十まで知りうる人間はいたのだが、今ではその数は恐ろしい程に落ち込んだ。
一名のみ……私だけという形でのみ、少女の家族という形は残っている。
親という存在ははるか彼方に過ぎ去り、今では遺影の中に笑顔を残すだけの存在となってしまった。
事故。
それが家族の形を大きくゆがめた事象の名前だ。
時速八十キロで疾走する鉄の塊が並び歩いていた三人の家族へと襲い掛かり、そのうちの二人を二つへと変えた。
残った一人も重傷を負い、救急車で病院へと搬送された。
その悲劇が起きたのは夜中だった。久々の家族での外食という話であり私も当然行く気であった。しかし、上司からの無遠慮な赤紙によって急な残業が入ってしまい、私は泣く泣く予定を変更する他なかった。
和やかな空間を夢想していた私の頭が、目の間のコンピューターに対して資料をまとめるために四苦八苦するために切り替わりかけたところ、私のスマートフォンが甲高い音を立てた。
私は今でもその音を覚えてはいるが、その電話で会話した内容は覚えていない。
耳に触る音の次は、いつの間にか病院にいたことに私の記憶ではなっていた。
それだけショックであり、パニックになっていたのだろう。
ただ、私は当事者でありつつも当事者ではない。
被害を受けた、という形にもいろいろある。
家族を失った被害に介しては私も当事者ではあるが、それを目の前で眺めさせられ、自身も直接的な被害を受けたという面に関しては、私の心身の損傷は妹に比べることなどできはしない。
その傷は大きく、深い。
私にとっては、事後処理の忙しさが幸いした。
あちらこちらへと動き回ったことで親族からある程度の信頼と、憎しみしか抱かない加害者から結構な額の賠償金を入手することができた。が、それらは私の心を慰めることはあっても、喪失感が空けた大きな穴を埋めることはなかった。
そうはいっても、やはり行動をしている最中はただひたすらに処理のことにのみ頭を切り替えることができ、家族の喪失に関してはあまり心を巡らせることをせずに済んだ。
端的に言えば、逃げたのだ。
だが少女はそうはいかなかった。
病院という真っ白な空間に押し込められた彼女は、どこにも逃げ場はなかった。
大部屋にその時は押し込められていたようだが、ドアがたたかれるたびに体をびくつかせていたという。
そのたびに、本当は自身単体の事故で家族が見舞いに来たのだ、という夢のような期待と、現実が突き付けられるであろう不安が心の中にないまぜとなり、他の患者への見舞いとわかった時、どうしようもないほどの絶望の谷に叩き込まれてしまったのだろう。
そして家族の死、その喪失を痛いほど、骨身にしみて感じてしまったのだ。
それが繰り返され繰り返され、少女の絶望と不安は少女の心を永遠に突き刺す剣となって顕現し、罪悪感と孤独という不治の病となって少女の肉体の奥深くにずぶずぶと入り込んでいる。
少女を両親が助けた、という正しい認識でなく、少女がその場にいたから両親が死なざるを得なかったのだと、そんな歪んだ認識が魂の芯に組み込まれてしまった。
私が自分のことを落ち着けて妹の様子を見るために振り向いた時、その時ではもう手遅れだったのだ。
少女が自身を鳥かごの中に押し込めようと試みたことを理解した時、深い深い自己嫌悪が私を巡った。
私に笑いかけてばかりの写真の中の両親に、何度詫びたかは分からない。
悲しいことに、事故を契機として、兄と妹に罪悪感という抜き去りがたい棘が共通事項として誕生してしまった。
詳しい、それは、ああ確かに事実そうだろう。
だが私は知識はありつつも、行動に移すことができなかったどうしようもない未熟者なのだ。
手遅れになった後から何とか手を付けようとするなど、夏休みの宿題を最後に一日で終わらせようとする小学生と何ら変わりないではないか。
だが、私は、せめて私だけでも罪悪感の渦から抜け出さなければならない。
二人ともその底が見えない渦にとらわれては、生産性がまるでない生き方が誕生してしまう。
それだけはだめなのだ。何のために両親が少女を助けたのかわからなくなってしまう。
たとえ手遅れであろうと、私は手を尽くさなければならないのだ。
義務と、兄として。感情論と理想論の両方を備えて対処しなければならない。
なんとかしたい。何とかしなければならない。
それは確かに強い感情として私の中にあった。
だからこそ最近はほぼ毎日病院へと通っていたのだが、どうにも一時間ですら時間が取れない日が続き、顔を出したのは一週間ぶりとなってしまっていた。
何でもない様子で彼女と会話をしたものの、私の様子は変化してはいなかっただろうか。
くだらない罪悪感を満たしてはいなかっただろうか。
「……とりあえず、いつもの言葉ともなってしまいますが、心身ともに様子を見たほうがいいでしょう。体の方が完治しましたら、精神科の方に状態を持ち込むことも考えさせていただきたいのですが、よろしいですか?」
長々とした自分の中での感情の螺旋の中、そう医師が言葉をまとめたのが聞こえた。
相槌交じりで医師の言葉はちゃんと聞いており、そのまとめに陥った経緯もちゃんと理解できている。
「はい。構いません」
だからこそ私はそれに対して異論はなく、素直に頷くことができた。
「ありがとうございます。こちらも妹さんのために微力を尽くします」
「……よろしくお願いします」
深く座ったまま礼をすると、同じように医師もこちらに礼を返した。
そのまま立ち上がって帰ろうとすると、医師の後ろに控えていた看護師がドアの付近へと近づき、開きながら私に対して声をかけてきた。
「私たちでも、日常からの様子を見ていきます。もし急変、変化がありましたらご連絡いたしますので」
その言葉は柔らかく、私を安心させるようなほほえみ交じりの言葉だった。
「ありがとうございます」
それによって私の言葉は少しだけ楽になったように感じ、素直に笑みで言葉を返すことができた。
「……お大事に、どうぞ」
部屋から出て扉を閉める直前、患者でもない私に対して医師からかけられた言葉は、いつもの癖でつい出てしまったただの形式的な言葉なのだろうか。
それとも、私の精神状況を見抜かれていたのだろうか。
考えすぎだろうと自分の心の中で否定しながら、ゆっくりと歩きだした。




