鳴き声
私が慈しみを込めて少女を撫でていると、やがて扉の向こうから微かに床を靴がたたく音が聞こえた。
その音がだんだん近づいてきたのを認識すると、私は少女の頭から手を離した。
少女はまた私の様子に得心がいかないように不満げに口を尖らせたが、疑問のために口を開く前に扉が開いた。
「あら、お兄さんもいらっしゃるんですね。こんにちは」
姿を現したのは、健康管理のためかクリップボードを持参した看護師だった。
髪の毛は軽く白帽の中に詰め込まれ、黒い前髪の生え際が帽子の端から覗いていた。
化粧っ気の薄い肌はきめ細やかさと白さが目立ち、その服と相まって清楚さの権化とも言えそうな存在だった。
看護師は私に向かって軽く会釈をするともに、唇を軽く弓なりにして柔和な笑みを浮かべ、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。
「ええ。ようやく暇が出来たので」
「そうでしたか。妹さんも寂しがっていましたので何よりです」
ね、と確認をするように看護婦は笑みを浮かべ、べッドの上で大人しく座っている少女に対してそう話すと、少女はどこかごまかすように外を向いた。
それを見ると、看護師は微笑ましいものを見るように再度笑った。
そのまま看護師は少女のベッドに近づくと少女に体温計を渡し、クリップボードに取り付けてあったボールペンの芯を出した。
「妹は何かご迷惑はかけていませんか?」
世間話程度に様子を聞いてみたが、看護師は否定の意を示すように首を振った。
「いえいえ、全く。いい子すぎてこちらの仕事がないくらいで」
笑顔でこちらの心配事を否定され、信頼はしていたとはいえどこか胸が少し楽になっていた。
「何か変わったことはないですか?」
「……兄さんにも同じこと聞かれた」
「あらそう?でもお兄さんの言葉は心配の方が強いと思うわよ」
ため息をつきそうになりながら少女はそういうと、それを意に介さず看護師はその笑顔をこちらに向けた。
反応に少しだけ困りながら苦笑で返すと、看護師はそれで満足したようにカルテにボールペンで何かしらを書き込んでいた。
やがてピピと電子音が響き、少女は体温計を看護師へと渡した。
「36.1度。平熱ですね」
体温計を受け取り、温度を見た看護時はまたボールペンで何かしらを書き込んだ。
「そりゃね。大人しくしてたから」
ベッドの上の少女は何食わぬ顔でそう返すと、看護師はそれをサラリと流して言葉を発した。
「それは大事ね。しばらくそのままでいることを願ってますよ」
敬語の中に少しだけ混じる対等ともいえる言葉が、仲のよさを醸し出していた。
それだけ看護師と仲良くなれるということは、ここに長い時間いて、これからもいるということなのだけれど。
ある程度のことは書き終わったのか、看護師はボールペンの尻を叩いてペン先を引っ込ませると、クリップボードを脇に抱えた。
「それでは、せっかくの再会に水を差すのもあれので、お邪魔虫はさっさと退散しますね」
「……再会っていうのは大げさすぎ」
揶揄うような看護師の言葉に憮然とした表情に少女はなり、それでも看護師は微笑ましく笑っている。先ほどの焼き増しのような光景がそこにはあった。
「それでは、失礼します」
少女から向き直って看護師は私を見て、口角を上げながら会釈交じりであいさつをくれた。
「はい。ありがとうございました」
それに対して私は座ったままでいいのかとは思ったが、そこまで堅い場でもないため楽な姿勢でいいだろうと自分に言い訳をして、座ったまま会釈を返した。
その会釈の後、看護師はちらりとこちらの方を見た。
そして悲しげな眼になって、もう一度、少女から見えない角度で会釈をした。
私はそれで何かしらを察してしまった。少女は、やはり変わっていない。変われていない。
そんなシグナルを私に与えた看護師はそのまま外に出て、後ろ手で扉を閉めた。
「全くもう、あの人は……」
それを知らない少女は少しだけ頬を膨らませながら、それでもどこか楽しげに不満げな態度をとっている。
「案外悪くない入院生活を送ってるようで、俺は何よりだよ」
心の中に生じた言いようのない不安を押し隠しながら、少女に向かって笑いかけながら言葉を返した。
「……まあね、全部が全部辛いかって言われたらそうじゃないよ」
それに少女は気づいた様子もなく、私の言葉に少しだけ思案しながら言葉を発した。
「そうか。救いがあるようで良かったよ」
「でも、ね」
私の言葉の直後、どこか思いつめたような表所になって少女は言葉を鋭く発した。
その後、ためらいがちに、だからこそ信憑性が増す言葉を発した。
窓の方を見て、草木が生い茂るその様子を眺めてながら。遠い目で、羨望と諦観の悲しい悲しいまなざしを生い茂る自然に向けながら。
「……悪くはない、けど……ね。良くもないんだ……」
だからこそ、その言葉は重かった。
よくもない。それは明確に出された少女からの不満であったからだ。
「……どの辺りが、だ?」
私はできる限り優しい口調を出すように努めた。上手くできただろうか。分からない。
「……やっぱり、あの人の言った再会っていうの、大げさじゃなかったかな」
空を見上げたまま、少女は夢の中にいるようにつぶやく。
会話が繋がっていないようにも見えるが、それは仕方がない。心情を吐露するという段階ともなれば、人間はそう冷静にロジックなんて組み立てられないのだ。
決壊したダムは水を流す以外にすることがないのだ。
「……私ね、少し」
少女は窓からゆっくりと私の瞳へと視線を移した。
窓は生の象徴。私は繋がりの象徴。彼女自身は何を表しているのか。
きっと彼女自身は、自身のことを暗い暗い存在とでも認識しているのだろう。ふざけていることだが。
様々な思いを載せているのか、ゆっくりと、ゆっくりと少女の口は動いた。
「……寂しい、かな」
それを発せられた表情はどうしようもないほどに悲しい笑みが貼り付けられていた。
自分の感情を押し殺すために固めた硬い硬い笑顔だった。石のような意思で持って、その笑顔はべったりと彼女の心に癒着していた。
それを見た瞬間、私の心はどうしようもなく揺さぶられた。
なんでこの子がこんな笑顔ができるような事態に追い込まれなければならないのだろう。
不条理、理不尽。そう嘆きたくはなったが、一番そうすべきは少女なのだ。何故一番つらい人間が笑みを浮かべているのに、他者が苦しみにもだえることができるだろうか。
衝動的に椅子ごと私は近づき、それでも理性的に私は少女をゆっくりと抱きしめた。
びくりと一瞬驚いたのか少女は体を固くしたが、それでも私の胸に頭をこすりつけるようにして体重を預けてきた。
「……ごめんね、兄さん」
「謝るな。お前は悪くない。何も悪くない」
言い聞かせるようにそう言ったが、私の言葉は届かないようで、少女の首はゆるゆると横に振られた。
「悪いよ……迷惑、かけてるもの」
彼女の根源は、結局そうなのだ。
罪悪感。
実の兄にどうしようもないほどに負担をかけてしまっていると思い込んでいるのだ。
実際、負担は正直重い。だが、妹のために行うことを苦と思う兄がどこにいるのだろう。
それでも少女が気にするのは、その期間の長さだ。
少女は年単位でここにいるのだから。
「妹が兄に手間かけさせることは当たり前だ。迷惑なんて言うな。殴るぞ」
「……DVされそうって叫ぼうか?」
「この状況で叫ばれたらシャレにならないからやめてくれ」
軽く笑い合うようなじゃれ合いの中でも、言葉の芯の部分では硬さがあった。
抱きしめた少女の体は痩せていて、骨の部分が目立って少し硬かった。
少女の心の中と同じで。




