第9話:『死線(デッドライン)の境界』
第2章:『外縁の魔力飢餓』
第9話:『死線の境界』
ルシエルとの死闘が幕を閉じ、血と煙の匂いが残る境界の山脈を越えた先——そこに広がっていたのは、ヒルデたちが想像していたような「禍々しくも壮麗な魔族の王国」ではなかった。
冷たく乾いた風が、草一本生えていない黒ずんだ土を吹き抜けていく。頭上を覆うのは、太陽の光を完全に遮断したような低い灰色の雲。息を吸い込むたびに、喉の奥が砂を噛んだようにヒリヒリと痛んだ。
「……何だ、ここは」
ガゼルが大剣を背の鞘へと戻し、眉間に深い皺を刻みながら周囲を見回す。彼の分厚い甲冑の隙間を擦り抜ける風は、生命の気配をまるで感じさせない。
「魔王領……のはずよね。でも、まるで世界そのものが枯れ果てているみたい」
ルカが腰のポーチから取り出した魔力測定の魔導具に目を落とした。カチカチと鈍い音を立てて振れる針は、最下層の数値を指したままぴくりとも動かない。
「おかしいな。魔王領は人間界よりも濃密な大気魔力に満ちていると、王立図書館の古書には書かれていたはずなんだけど……ここでは環境魔力がほとんどゼロに近い。ううん、ゼロというより……何処かへ強制的に『吸い上げられている』みたいな異常な偏りを感じる」
「……」
ヒルデは無言のまま、己の左腕を見つめていた。異形と化し、黒い鱗のような質感を帯びた左腕。ルシエルを倒したことでその脈動は幾分か落ち着いていたが、この地に足を踏み入れてからというもの、皮膚の奥で小さな蠢動が続いている。エレボスが、この乾いた空気に何かを警戒するように苛立ちを覗かせているのだ。
(吸い上げられている……? この空間の魔力が、全部魔王城に向かって流れているっていうのか……?)
ヒルデは口の中で低く呟き、視線を前方へと向けた。灰色の泥と石が立ち並ぶ荒野の先に、かつて集落だったと思われる崩れかけた石造りの建造物群が見えていた。
「行こう。立ち止まっていても始まらない」
3人は歩みを進めた。一歩踏み出すごとに、靴底がカサカサと不気味な音を立てる。かつて畑だったであろう乾燥した土壌、ひび割れた井戸の跡。そこには生気が一切存在しなかった。
そして、街の入口に差し掛かったところで、ヒルデは足を止めた。
「……ガゼル、ルカ。これ……」
路傍に、幾つかの「像」が転がっていた。風化しかけた黒ずんだ石の像。だが、それは精巧に彫られた芸術品などでは到底なかった。
角を生やした頭部、鋭い爪を持つ指先、苦悶に歪んだ表情。一目で魔族と分かる造形だが、その質感は完全に不気味な灰色と黒の石塊へと変わり果てている。胸のあたりには大きな亀裂が走り、中からは肉でも骨でもなく、ただの乾いた砂粒がこぼれ落ちていた。
「石像……いや、違う」
ルカが膝をつき、壊れた石像の断面にそっと指先で触れた。
「……体内の魔力を完全に失って、細胞ごと石化した……魔族の死骸だ」
「死骸……?」
ガゼルが声を低く潜める。
「ああ。魔族という種族は、体内の魔力循環が途絶えると生命維持ができなくなり、末端から石化して壊死していく。……この石の砕け方を見るに、外から攻撃された跡はない。内側から乾ききって、崩れ落ちたんだ」
「内側から乾く……そんな死に方があるっていうのか」
ヒルデは息を飲んだ。道沿いを見渡せば、そうした「石像」はひとつやふたつではなかった。崩れた壁に寄りかかるように固まった大人らしき姿、角を小さく丸め、互いを抱き合うように石化した幼い二人組。そのどれもが、死への恐怖と苦痛に顔を歪ませたまま、灰色の石となって放置されていた。
人間界で教え込まれてきた魔族の姿——残酷で、狡猾で、圧倒的な力をもって人間を屠る『悪魔』。だが、ここに転がる死体たちから感じられるのは、強者の威厳などでは断じてなかった。あるのはただ、不条理な飢えに踏みにじられた者たちの、救いようのない絶望の痕跡だけだ。
『……クハハ。気味が悪いか、娘』
脳裏に直接、重々しい低音が響いた。大剣『エレボス』の声だ。
(エレボス……お前、この惨状を知っていたのか?)
『知るも何も、ここは魔王の膝元でありながら、王の恩恵が一切届かぬ「捨て場」よ。……命を繋ぐ薪を奪われ、干からびるのを待つだけの死線の境界。貴様らが殺し合ってきた魔族の正体など、その大半がこのような泥を舐める餓鬼に過ぎん』
嘲笑うようなエレボスの言葉が、ヒルデの胸に重く突き刺さる。
かつて故郷を焼き尽くし、目の前で両親の命を奪っていったあの魔族たち。彼らは血に餓えた憎き化け物として現れた。……だが、彼らが国境を越えて人間界へと溢れ出し、略奪を働いていた真の理由は、この「干からびた地獄」から逃れ、ただ生き延びるためだったというのか?
「ヒルデ、大丈夫か?」
ガゼルが心配そうにヒルデの顔を覗き込む。ヒルデは己の左腕を強く握りしめ、短く首を横に振った。
「……大丈夫だ。ただ……あたしたちが見てきたものは、この世界のほんの一部でしかなかったのかもしれない、と思って」
人間と魔族。奪う者と奪われる者。その単純な二項対立の境界線が、足元から音を立てて崩れ去っていく感覚。
灰色の風が吹き抜ける中、ヒルデたちは重い沈黙を抱えたまま、さらに深き「石の街」の奥へと足を踏み入れた。
(第10話へ続く)




