第10話:『石の街と狂える牙』
第10話:『石の街と狂える牙』
寂れ果てた街の奥へ進むほどに、漂う死気は濃くなっていった。
倒壊した石造りの家々の隙間、崩れた屋根の影。至る所から、幾双もの虚ろな光がヒルデたちに向けられている。それは警戒や敵意というよりも、飢えた獣が糧を前にした時のような、歪んだ執着を孕んだ視線だった。
「……囲まれているな」
ガゼルが低く呟き、静かに大盾を身構える。背後から、ズルリと重い足音が響いた。
「肉だ……。命の匂いがする……」
掠れた声とともに影から這い出してきたのは、獣の体躯と人間の骨格を併せ持った巨大な影——狼型の魔族だった。灰色の毛並みは斑らに抜け落ち、皮膚の一部はすでに石化が進んで角質のようにひび割れている。手にした錆びついた手斧を振るうその手は、細く痩せこけていた。
「引け、人間共……。いや、引き渡していけ……! お前たちの血を、魔力をここに置いていけぇッ!」
喉を潰したような咆哮を皮切りに、影の中から十数体の魔族が一斉に飛び出してきた。いずれも末端が石化し、正気を失いかけた眼差しでヒルデたちへ群がり寄ってくる。
「散れッ!」
ヒルデは一瞬で踏み込み、先頭の魔族が振り下ろした棍棒を、右手に握った大剣で容易く弾き飛ばした。間髪入れずに刃の背で腹を叩き込み、後方へ吹き飛ばす。
「ガゼル! 殺すな、制圧しろ!」
「分かってる!」
ガゼルが大盾を前面に押し出し、突進してくる魔族たちの群れを丸ごと押し返した。ルカは後方から牽制の小規模な風魔術を放ち、敵の足元を払って取り押さえる。
圧倒的な戦力差だった。ルシエルという死線を潜り抜けてきたヒルデたちにとって、飢えで体力の落ち切った彼らの攻撃は見切るまでもなかった。
(速い……だけじゃない。こいつらの動き、投げやりすぎる……!)
ヒルデは自らに躍りかかってきた狼型の首領——ガルムの攻撃を、最小限の動きでかわした。ガルムの手斧が空を切り、体勢を崩して地面に激しく倒れ込む。
「ハァ……ハァ……! まだだ……! まだ終わってたまるかッ!」
ガルムは膝の石化した皮膚がバリバリと割れるのも構わず、血を吐きながら泥を噛み、再び手斧を握り直した。その瞳に宿るのは、戦士としての誇りでも、人間を殺戮する快楽でもない。
——死にたくない。 ——ただ、生き延びたい。
狂気にも似た生の泥臭い執念と、その裏側にへばりついた絶対的な絶望。かつて自分の故郷を襲い、冷酷に笑っていたルシエルのような「圧倒的な悪」の眼差しとは、あまりにもかけ離れていた。
「……もうやめろ!」
ガルムの振り下ろした手斧を、ヒルデは避けることも斬り伏せることもせず、大剣の腹でガチりと受け止めた。そのまま刃を押し返し、ガルムを地べたへ組み敷く。
「刃を引け! あたしたちはお前たちを殺しに来たわけじゃない!」
「黙れ……! 黙れ人間がッ!」
ガルムは地面に伏せたまま、血の混じった唾を吐き散らして叫んだ。
「殺しに来てないだと……!? なんだその余裕は! なんだその豊かな体内に巡る魔力はッ! お前たちが平然と息を吸っているその裏で、俺たちの子供が、仲間が、毎日石になって砕けていってんだよッ!」
ガルムの拳が、むなしく土を殴りつける。
「襲いたくて襲ってたと思うか……!? こんな干からびたゴミ溜めに捨てられて、中心部(ヘメラ様)からは一滴の魔力すら降ってこねえ! 生きるには……生きるには、国境を越えてお前たちの血を啜るしかなかったんだよぉッ!」
その悲痛な叫びが、乾いた荒野に虚しくこだました。
「国境を越えて……?」
ルカが息を飲み、背後の死体群を見つめた。
「じゃあ……人間界の村を襲っていたあの『野良』の襲撃隊は……」
「そうだ……! 飢えに耐えかねて理性を失い、国境の結界を破って飛び出していった……俺たちの若い奴らだッ! 戻ってきた者は誰一人いねえ! みんなお前たち人間に討たれたか、途中で石になって死んだ!」
胸の奥を、冷たい鉄の杭で貫かれたような衝撃がヒルデを襲った。
かつて自分の村を焼き払い、家族を奪ったあの襲撃者たち。絶対に許せない、血反吐を吐かせてやるべきだと思ってきた憎悪の対象。彼らもまた、この地獄から這い出そうともがいた末に暴走し、他者の命を奪うしかなかった「飢餓の犠牲者」に過ぎなかったのだ。
「……理不尽すぎるだろ」
ヒルデは握りしめた剣をゆっくりと下ろした。手にした大剣が、カランと虚しい音を立てて背の鞘へと収まる。
「こんなの……誰も救われてねえじゃないか……!」
憎むべき敵の正体は、血も涙もない悪魔などではなく、命を繋ぐことすら許されない不条理な世界の仕組みそのものだった。押し寄せた真実の重さに、ヒルデは己の無力さを噛み締めるように、強く拳を握りしめた。
(第11話へ続く)




