第11話:『分け与える腕』
第11話:『分け与える腕』
崩れかけた石造りの家の陰から、途切れ途切れの荒い呼吸音が漏れていた。
「……シエラか!?」
ガルムが膝の割れる痛みに耐えながら駆け寄り、倒壊しかけた屋根の隙間へ這い入る。ヒルデたちもその後を追った。
うす暗い室内の隅、破れた布切れの上に横たわっていたのは、小さな角を生やした幼い魔族の少女だった。少女の右脚は膝から下がすでに灰色に変色し、歪んだ石となって冷たく固まり切っている。その石化は徐々に太腿へと這い上がり、薄い胸の上下運動も今にも止まりそうだった。
「お頭……ううん……お腹、すいたよ……」
「シエラ……くそっ、持ちこたえろ! 今、魔力を……!」
ガルムが焦燥に駆られて己の腕を差し出そうとするが、彼の体にも分け与えられるほどの魔力など残っていない。
ルカが静かに少女の傍らにしゃがみ込み、手に持った魔導具の針と、少女の足の石化痕を観察した。
「……やっぱりか。さっき街の入口で計測した環境魔力の異常な偏り……あれと整合性が取れる。魔王城の方向へ向けて、この外縁部全体の魔力が一方的に吸引されているんだ。循環炉か何かが動いているんだろう。この極限状態じゃ、環境からの魔力補給は不可能だ。彼女たちの肉体を維持するには、高密度の魔力……つまり生体からの『生の魔力』を直接体内に流し込むしかない」
ルカの客観的で残酷な分析結果に、ガゼルが悔しそうに奥歯を噛み締める。
「そんなの……じゃあ、本当に人を殺して奪うしか、この子たちが生き残る術はないってことかよ!?」
「嫌だよ……っ」
かすかな泣き声が漏れた。石化の痛みに耐えかねて涙をこぼしながら、少女——シエラは弱々しく首を振った。
「人を殺して……魔力を奪わなきゃいけないなら……あたし、このまま石になった方がいい……! お兄ちゃんたちみたいに、誰かを傷つけて死にたくないよぉ……っ」
幼い叫びが、荒涼とした部屋に寂しく響く。生きるために他者を奪わなければならない呪い。その理不尽なシステムに押し潰されようとしている小さな命の姿に、ヒルデの胸が激しく締め付けられた。
「……奪う必要なんてない」
ヒルデは静かに前へ進み出ると、シエラの前に膝をついた。
「ヒルデ……?」
ガゼルが制止の声をかけるより早く、ヒルデは左腕の包帯を躊躇なく解き放った。露わになる、黒い鱗に覆われ、脈動する異形の左腕。そこからは、かつて喰らった数多の魔力と、エレボスが宿す異質の熱量が黒い煙となって燻っていた。
「ヒルデ! 正気か! 外縁の魔族にそれを分け与えれば、お前の生命力が削られるどころか、エレボスの『咎』が暴走して……!」
「ルカ、黙ってて」
ヒルデは振り返らず、静かに、だが確かな意思を込めて言った。
「奪い合うから殺し合いになるんだ。なら……分け合えばいい」
『……正気か、娘』
脳裏でエレボスが低く、呆れたように呟く。
『我の力を分け与えるだと? この異形の血は、ただの魔力ではない。数千の怨念と痛みが混ざり合った毒のようなものだ。それを吸わせれば、吸う側も、吸わせる貴様自身も、焼き切れるような苦痛を味わうぞ』
(かまわない。……痛みを分かち合うくらい、奪い合って殺し合うより、ずっとマシだ!)
ヒルデは手にした小刀で、左手の指先を浅く引き裂いた。黒ずんだ朱色の血が、じわりと傷口から滲み出る。
「さあ……吸いな」
ヒルデは異形化した左腕の指先を、シエラの口元へと差し出した。
「え……? でも、お姉ちゃん……あたし、魔族だよ……?」
「関係ない。……あたしだって、半分は化け物だ」
シエラは震える唇で、差し出された指先を小さく食んだ。
次の瞬間——ドクン、と黒い衝動が二人を襲った。
「ぐっ……アぁぁぁッ!?」
ヒルデの口から凄絶な悲鳴が漏れた。左腕の傷口から、エレボスの持つ膨大な熱量と『咎』が、シエラの体内へと怒涛のように流れ込んでいく。全身の神経を焼鏝で撫で回されるような強烈な激痛。左腕の黒い鱗がバチバチと火花を散らし、ヒルデの額から大量の汗が吹き出した。
「あぐ……っ、痛い、痛いよお姉ちゃん……っ!」
シエラもまた苦痛に体を捩らせた。だが、ヒルデは決して腕を引きはしなかった。激痛に膝を折り、歯を喰いしばりながら、異形の左腕でしっかりとシエラの小さな身体を抱き寄せる。
「耐えろ……っ! 負けるな……! 命を……渡してやる……っ!」
「ヒルデッ!」
ガゼルが背中を支え、ルカが即座に二人を包み込むように安定の補正魔術を展開する。3人の絆が、エレボスの荒れ狂う『咎』の毒性をギリギリのところで押し留めていた。
永遠にも思える息詰まる数分間の後。
じじ……と音を立てて、シエラの右脚を覆っていた灰色の石が、ひび割れて剥がれ落ちていった。固まっていた皮膚に、ほんのりと血色が戻り始める。荒かった呼吸が次第に落ち着き、シエラの瞳に確かな生命の光が宿った。
「脚が……動く……? 痛くない……」
シエラは自分の右脚を触り、信じられないというように目を見開いた。
「ハァ……ハァ……っ。……よかった……」
ヒルデは荒い息を吐きながら、力なく笑った。左腕の傷口を再び固く縛り直し、激痛の余韻に体を震わせながらも、しっかりと立ち上がる。
その一部始終を見ていたガルムたち魔族は、言葉を失っていた。
人間は、自分たちを害する敵のはずだった。自分たちの命を繋ぐために、奪い取らなければならない「餌」でしかなかったはずだ。それなのに……目の前の人間の少女は、自らの命と血を削り、激痛に耐えながら、魔族の子供を救ったのだ。
「……なぜだ」
ガルムの手から、手斧が力なくこぼれ落ちた。
「なぜ……そこまでする……? 俺たちは……お前たちの仲間を殺してきたかもしれないんだぞ……!?」
「あたしも……お前たちの仲間をたくさん斬ってきた」
ヒルデはガルムを真っ直ぐに見返した。その瞳に、かつてあったような濁った殺意はもう存在しない。
「だから、許し合おうなんて言わない。……だけどな、誰かを殺さなきゃ生きられない世界なんて、絶対におかしいんだ。あたしは……そんな理屈、絶対に認めない」
「人間……」
ガルムの胸の中で、これまで当たり前だと思い込んでいた「人間=奪う対象」という世界観が、音を立てて崩れ去っていった。憎しみと奪い合いの連鎖の断絶。それは、数千年続いてきた世界の理に風穴を開ける、小さくも決定的な最初の一歩だった。
(第12話へ続く)




