第16話:断罪の執行官
第16話:断罪の執行官
「ひッ……ひいいっ! か、化け物……ッ!」
血と炎の匂いが一瞬で地下洞穴を支配した。
クロードが悲鳴を上げながら後ずさる。彼の傍らにいた上位魔族の兵たちが、一瞬で三人も黒炎の藻屑と消えていた。肉の焼ける異臭と、一瞬で石畳を溶かした圧倒的な熱量に、残された兵たちは長槍を握りしめたまま硬直している。
二メートルを超える巨躯の女剣士——ヒルデが踏み出すたび、黒炎を纏った大剣から重々しい圧力が放たれ、地下空間全体を震わせた。
「おい、何を怯えている! たかが女一人だぞ!」
クロードが引きつった声を張り上げる。
「殺せ! 殺してしまえ! この『薪』どもを外に逃がすわけにはいかんのだ!」
「は、ははッ!」
正気を取り戻した魔族の兵たちが、死角から一斉に襲いかかる。四本の長槍が、疾風の如き速度でヒルデの急所へと突き出された。
「ヒルデ!」
ガゼルが大盾を構えて飛び出そうとした——その瞬間。
ドォンッ!!
爆音とともに、突風が地下洞穴を吹き抜けた。
ヒルデは大剣を横一閃に振るっただけだった。だが、そこに込められた質量と黒炎の衝撃波は、迫り来る魔族の兵たちを槍ごと薙ぎ払い、壁へと叩きつける。石壁に巨大な亀裂が入り、兵たちは崩れ落ちてピクリとも動かなくなった。
「な……ッ!?」
クロードが腰を抜かし、尻餅をつく。
ヒルデは冷ややかな瞳でクロードを見下ろし、大剣の先をその首元へと突きつけた。
「鍵を出しな。……檻の鍵だ」
「ひ、ひぃっ……! わ、分かった、渡す! 渡すから助け——」
クロードが懐に手を突っ込んだ、その時。
——ヒュッ。
甲高い風切り音が響き、クロードの首筋から朱色の線が走った。
「え……?」
クロードの目が点になり、そのまま言葉を失って前に倒れ伏す。その背中に深く突き刺さっていたのは、美しく研ぎ澄まされた細身の黒銀の直剣だった。
「……役に立たないゴミね、クロードは」
暗がりの中から、静かな足音が近づいてくる。
石畳を打つ硬質な靴の音。現れたのは、澄んだ藍色の髪を束ね、黒と銀を基調とした隙のない甲冑を身に纏った一人の女性だった。その身から溢れ出る魔力は、これまで対峙してきた上位魔族とはまるで異質な、重く冷たい圧力を孕んでいる。
「人間界の裏切り者……いや、ヘメラ様の『執行官』と言うべきかしら」
女性はクロードの背中から直剣を引き抜くと、優雅に血を振り払った。その胸元にもまた、クロードと同じ『白銀の鷲』の刻印——だが、その上にヘメラの紋章が重なるように刻まれていた。
「……ヴェール」
ルカが息を飲み、痛々しく顔を歪めた。
「君は……元・王国騎士団、第三部隊長のヴェール隊長……! なぜ君ほどの人が、魔王城側に……!」
「久しいわね、ルカ」
ヴェールと呼ばれた女性剣士は、氷のように冷ややかな瞳をルカへ向けた。
「失望したような顔をしないで。私はただ、より『理にかなった側』を選んだだけよ」
「理だと……!?」
ガゼルが前に踏み出し、激昂の声を上げる。
「同族を売って、魔族に飼い殺されるのがお前の『理』だって言うのかッ! 国のために戦って死んでいった仲間たちに、お前は胸を張ってそう言えるのかッ!?」
ヴェールは感情を一切見せず、ただ静かにガゼルを見据えた。
「怒りに任せて吠えるのは、全体が見えていない証拠よ、盾持ち」
彼女が直剣を小さく構えると、地下空間の気が一変した。中層部が持つ濃密な大気魔力が彼女の剣先へと集束し、目に見えるほどの銀色の奔流となって渦を巻く。
「考えてみなさい。なぜ人間界は、魔王軍の侵攻を受けながらも『滅びていない』のか。……なぜ人間界の都市は、今日も平穏を保てているのかしら?」
「それは……俺たちが国境で防ぎ止めているからだ!」
「違うわ」
ヴェールはあっさりとガゼルの主張を切り捨てた。
「ヘメラ様がその気になれば、人間界の防衛線など三日で崩壊するわ。……それを押し留めているのは、定期的に供給されるこの『薪』よ。ほんのわずかな弱者や罪人、価値のない人間を『犠牲』として差し出すことで、人間界の九割以上の平和が保たれている。……これが、世界を破滅させないための調律なのよ」
「価値のない人間だと……!?」
「そうよ。国境で死んでいく兵士の血も、ここで回収される魔力も、すべては『世界というシステム』を維持するための必要経費。一部の犠牲によって全体の平和が買えるなら、これほど効率的な話はないでしょう? 貴方たちがやろうとしている『救出』は、その均衡を破壊し、人間に無差別の虐殺をもたらすだけの愚行よ」
静かな、しかし付け入る隙のない論理。
ルカは言葉を失い、ガゼルは悔しさに歯を食いしばって拳を震わせた。外縁部で戦ってきた自分たちの存在理由すらも否定されるような、残酷な現実。
だが——その静寂を切り裂いたのは、重厚な踏み込みの音だった。
ドォン!
ヒルデが、二メートルを超えるその体躯を大きく前へと押し出す。
「長い言い訳だな」
ヒルデの声は、低く、どこまでも冷ややかだった。
「犠牲が必要? システムの調律? ……くだらない」
「……何?」
ヴェールの眉がかすかに動く。
ヒルデは背中の大剣を正眼に構え、不敵な笑みを浮かべた。左腕の異形の鱗から、黒炎が激しく燃え上がる。
「自分が犠牲になる側に回らないから、そんな綺麗事が吐けるんだ。……綺麗に着飾って、理屈をつけて、やってることは弱い奴を踏みつけて笑ってるだけのクソ野郎と同じじゃないか」
『クハハハッ! 見ろ娘、これが人間の隠したがる『咎』だ! 喰らい甲斐があるだろうッ!』
脳裏で狂喜するエレボスの嘲笑を、ヒルデは冷ややかに受け止める。
(……フン、否定はしないよ)
ヒルデは心の中でエレボスの声を切って捨てると、ヴェールを鋭い眼光で射抜いた。
(だがな、エレボス……どんな理屈で世界が回っていようと、こんな胸の悪くなる仕組み、あたしが叩き潰してやる)
黒炎が爆発的に膨れ上がり、地下洞穴の天井を焦がす。
「……言葉で理解できない愚者には、死を与えるしかないようね」
ヴェールの瞳に殺気が宿る。次の瞬間、彼女の姿が消えた。
中層部の濃密な魔力を纏った突進——閃光のような踏み込みとともに、細身の直剣がヒルデの喉元へと一直線に放たれる。
「速っ——」
ガゼルの目が追いつかないほどの神速。だが、ヒルデは避けない。
ガキィィィンッ!!!!
重厚な衝撃音が地下空間に轟き渡った。
ヴェールの直剣は、ヒルデが最小限の動きで合わせた大剣の腹によって完璧に受け止められていた。刃と刃が擦れ合い、激しい火花が散る。
「……! この重圧……!?」
ヴェールの顔に初めて焦りの色が浮かぶ。
どれほど鋭く、濃密な魔力を込めた一撃であっても、ヒルデの圧倒的な体躯と黒炎が誇る絶対的な質量を前には、決定打となり得ない。
「自分の手を汚さずに世界を救った気になってる奴の剣なんて……」
ヒルデが大剣を力任せに押し返す。たったそれだけの動作で、ヴェールの華奢な体が数メートル後方へと弾き飛ばされた。
「……軽いんだよ!」
ヒルデの踏み込みとともに、石畳が弾け飛ぶ。黒炎の尾を引く大撃が、世界の不条理を切り裂くべく、ヴェールへと振り下ろされた。
(第17話へ続く)




