第14話:『偽りの流楽街』
第3章:『光蝕の偽楽園』
第14話:『偽りの流楽街』
重く湿った灰色の風が、不意にやんだ。
荒涼とした岩肌とひび割れた大地が続いていた外縁部の境界を越えた瞬間、一行の視界を覆ったのは、眩いばかりの「光」だった。
「……なんだ、これは……」
ガゼルが絶句し、背負った大盾の重さも忘れたように足を止めた。
そこに広がっていたのは、夜の帳を完璧に跳ね返す巨大な魔導都市——中層部『流楽街』だった。
頭上には、外縁部の空を覆っていた暗雲を切り裂くように、淡い瑠璃色の人工精霊石が幾重にも浮かび、街全体を柔らかい昼の光で包み込んでいる。立ち並ぶ建造物は意匠を凝らした白磁と金の彫刻で彩られ、路上には澄み切った水が流れる水路が巡らされていた。
沿道には色とりどりの魔導灯が灯り、通りを行き交う上位魔族たちは、上質な絹や毛皮の衣服を纏って優雅に談笑している。漂ってくるのは、香辛料の効いた肉料理の芳しい匂いと、甘い果実酒の香りだ。
死と飢餓、そして砕け散る石像しか存在しなかった外縁部の地獄。そこからわずか境界線をひとつ挟んだだけで、目の前には「天国」と錯覚するほどの繁栄が広がっていた。
「綺麗……ですね」
ルカがぽつりと呟いた。だが、その声に感動の色は一切なかった。腰のポーチから取り出した測定器に目を落とすと、針は最大値を超えて狂ったように振れている。
「……信じられない。大気中の魔力密度が、外縁部の百倍以上に跳ね上がっている。街灯、自動で魔力を汲み上げる水路、空中を彩る演出用の魔導具……そのすべてが、過剰なほどの魔力を垂れ流して動いているんだ」
「過剰、ね……」
ヒルデは固く拳を握りしめた。左腕の包帯の下で、黒い鱗がざらりと蠢く。
外縁部で出会った幼い少女、シエラ。彼女の右脚は魔力を奪われ、冷たい石となって砕けかけていた。ガルムたちは、命を繋ぐわずかな魔力すら求めて泥を舐め、互いを貪り合っていた。
その命の残滓が——奪い尽くされた血と叫びの果てが、この街を美しく飾る「街灯の明かり」や「水路のせせらぎ」へと変換されているのだ。
「胸がむかつくぜ……」
ガゼルが低く唸り、吐き捨てるように言った。
「あの乾いた土地で子供が石になって死んでる横で、こいつらはその魔力で道端を照らして酒を飲んでやがる。……これが、ヘメラの治める『中層部』の姿だってのか」
「ああ。外縁部から一方向に吸い上げられた魔力が、魔王城の『循環炉』を経由して、この中層都市へ優先的に供給されている……構造としては完璧に繋がったよ」
ルカの分析が、かえって街の煌びやかさをグロテスクに際立たせる。美しければ美しいほど、光が眩しければ眩しいほど、その根底に埋もれた無数の悲鳴が聞こえてくるようだった。
通りを行き交う魔族たちは、見慣れない旅の装いをしたヒルデたちに、一瞥をくれる程度で気にも留めない。圧倒的な富と魔力の過剰に守られた彼らにとって、外界の飢餓も、人間の存在すらも、自分たちの楽園を脅かすものとしては映っていないのだ。
『……クハハ。どうだ娘、胸が躍るだろう?』
脳裏で響く、不吉な低音。かつては正体不明の『影』として忌み嫌い、己を蝕む恐怖でしかなかった存在。だが外縁部で理不尽な世界の構造を目にして以来、ヒルデはこの呪いすらも「世界を破壊するための毒」として利用する覚悟を決めていた。
『溢れんばかりの魔力と、肥え太った豚どもの「無自覚な悪意(咎)」。外縁のゴミ溜めとは比べものにならん極上の蜜が、この街には充満しておるぞ』
(……黙ってて、エレボス)
ヒルデは心の中でその名を冷たく呼び捨て、脳内の『影』を牽制した。
(お前と和解した覚えも、仲良くなったつもりもない。だけど……この狂った楽園を叩き潰すためなら、お前の毒だって使い倒してやる)
左腕の脈動が、ヒルデの決意に応えるようにかすかに静まった。ヒルデはフードを深く被り直す。
街の賑わいの中心——巨大な噴水広場の中央には、純白の石で削り出された美しい女性の意匠像が聳え立っていた。中層部統括官、あるいは魔王ヘメラを模したと思われるその像の足元からも、清冽な魔術の光線が空へと放たれている。
「浮かれていられるのも、今のうちだ」
ヒルデは低く、だが確固たる意思を秘めた声で言った。
「この光の全部が、奪われた命で出来てる。……ルカ、ガゼル。この街の綺麗な皮を剥いで、残らず真実を暴くよ。まずは、王国から売られてきた人間たちがどこに集められているのか……その『影』を探す」
「了解だ。……こんな不快な楽園、長居したくねえからな」
ガゼルが背中の大盾を静かに引き直す。
光に満ちた偽りの楽園『流楽街』。その絢爛豪華な街並みを踏みしめる足元に、一行は目に見えない緊張感を孕みながら、静かに潜入を開始した。
(第15話へ続く)




