第八局|第三の部員―強くなる感覚―
囲碁部が、公式に「始動」した。といっても、部員は二人のまま。そして顧問は、定年まであと半年の岩田先生。生物教師で、囲碁の知識はほぼゼロだ。
「囲碁って、将棋と違って角がないんだよねえ。あ、駒じゃなくて石か……石ね、はいはい」
――そんな調子である。
「囲碁、好きなんですよね?」と尋ねたら、「嫌いじゃない。あと半年だしな」という、よく分からない返事が返ってきた。
そんなわけで、僕たちは晴れて“仮”ではない囲碁部として活動できるようになった。しかも、新年度予算で、なぜか部費までついた。たぶん、部員が二人しかいないことが、まだバレていない。そのおかげで――
「……ついに、買っちゃいましたよ」
僕は誇らしげに、箱を掲げた。
「最新AI囲碁ソフト、バージョン9.2。プロ推薦、棋力九段設定可、戦型分析付き!」
ユエは興味なさそうに、古い囲碁雑誌をめくっている。
「AIに、勝ちたいの?」
顔も上げずに言った。
「これがあると、助かるんです」
言葉が、自然と早くなる。
「相手がいないときも打てるし、検討もできるし、定石も――」
「定石、ね」
ユエの声は低かった。否定ではない。でも、距離がある。
「今のプロ、ほとんどAI使ってるんですよ」
僕は続けた。
「研究会も、棋院も。トップ棋士ほど、AIを相棒みたいに扱ってる」
それは、本当だった。
「だから、これは――」
言いかけて、止まる。
「……第三の部員、みたいなものです」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
ソフトを起動すると、盤面がすっと表示される。整然とした十九路盤。テンプレートの声が部室に響いた。
「こんにちは。囲碁AI“碁脳”です。今日も一手一手、積み重ねましょう」
どこか人間味のある声だった。さすが、プロ仕様。
「AIは……便利だよね。中国でも使っている人、多いい……」
ユエが、ぼそっと呟いた。聞こえ
たか、聞こえなかったか、分からないくらいの音量で。
これまで人が培ってきたすべての定石。個では辿り着けない読み。個では選べなかった最善手。AIは、それを淡々と提示してくれる。
十九路盤を囲む人数が増える、という感覚が、どうしても嬉しかった。
「じゃあ、打ってみる?」
僕は、AIに先手を与えた。画面上の黒石が、ためらいなく、四隅に置かれる。
速い。迷いがない。
「……綺麗な手」
ユエが、ぽつりと言った。それは、評価だった。
数手進む。
盤面は均整が取れている。無駄がない。美しすぎるほどに。
なのに。ユエは、だんだん口数が減っていった。
「どう?」
僕が聞くと、少し間があった。
「……便利」
「でしょ?」
「でも」
ユエは、画面から目を離した。
「風が、ない」
意味が、すぐには分からなかった。
「石が、呼吸してない」
人間同士の対局では、間がある。迷いがある。躊躇がある。それが、盤面に染み込む。でも、このAIは違う。正解を、正解として置くだけ。
「効率が、先に来すぎる」
ユエの声は、静かだった。
「囲碁が、道じゃなくて、答えになってる」
僕は、少しだけ戸惑った。だって、これは――僕が、ずっと求めていたものだったからだ。
「でも……強くなるには、必要ですよ」
そう言いながら、自分に言い聞かせている気もした。AIは、さらに石を置く。迷いのない一手。
部室の空気が、ほんの少し冷えた。便利さは、確かにそこにある。でも、その影もまた、十九路盤の上に、静かに落ち始めていた。
――第三の異物が、部室に加わった瞬間だった。
変化は、すぐに数字になって現れた。
勝率、六割三分。
評価値、プラス一・八。
盤面の横に並ぶグラフが、ゆっくり右肩上がりになる。
「……すご」
思わず、声が漏れた。
昨日まで勝てなかったAIに、今日は勝てる。(設定次第だけど……)
先週読めなかった形が、今日は見える。それは、努力が報われる感覚だった。
囲碁を始めてから、こんなに分かりやすく「強くなっている」と思えたことはない。碁会所では、勝っても負けても曖昧だった。学校では、比べる相手すらいなかった。でも今は違う。碁脳は、嘘をつかない。
良い手は、良い。
悪い手は、悪い。
評価値が、それを教えてくれる。
「この形……」
盤面を見ながら、指が自然に動く。かつてなら怖くて打てなかった一線。今は、理由が分かる。
石が軽い。盤全体が、前よりも近く感じる。
「……強くなってるね」
ユエが、背後から言った。声は、いつもと同じ温度だった。
「はい」
即答だった。
「分かるんです」
言葉にするのは、少し難しい。
「考える前に、候補手が浮かぶというか……」
「AIの形?」
「はい。でも、それだけじゃない」
少し考えて、付け足す。
「選び方が、分かってきた気がします」
碁脳は、すぐに次の一手を示す。最善手。次善手。悪手。色分けされた評価。
その並びを見ていると、世界が整理されていく気がした。迷わなくていい。間違えなくていい。答えは、そこにある。その感覚が、心地よかった。
「……便利だね」
ユエが、また同じ言葉を使った。
今度は、少しだけ間を置いて。
「はい」
僕は、画面から目を離さずに答えた。
数手進める。評価値は、さらに上がる。勝率、六割八分。数字が、確信に変わっていく。
でもふと、気づく。盤を見ているはずなのに、石を見ていない。
読んでいるはずなのに、考えていない。視線は、いつの間にか、盤面よりも数字に向いていた。
「その手……」
ユエが言いかけて、止まる。
「何?」
「……いい手」
少し、間があった。
「でも、古賀くんの手じゃない」
胸の奥が、ちくりとした。
「AIの?」
「うん」
否定ではない。責めてもいない。ただ、事実を置かれただけだった。
「それでも、勝ててます」
自分でも、少し強がりだと分かる声だった。碁脳は、また評価を更新する。
最善。
最善。
最善。
その連なりが、心を満たしていく。失われているものには、まだ、名前がなかった。でも何かが、少しずつ歪み始めている。十九路盤の上で、静かに、確実に。
――強くなる感覚は、いつだって、危うさと隣り合わせだった。




