表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
9/36

第八局|第三の部員―強くなる感覚―

囲碁部が、公式に「始動」した。といっても、部員は二人のまま。そして顧問は、定年まであと半年の岩田先生。生物教師で、囲碁の知識はほぼゼロだ。

「囲碁って、将棋と違って角がないんだよねえ。あ、駒じゃなくて石か……石ね、はいはい」

――そんな調子である。

「囲碁、好きなんですよね?」と尋ねたら、「嫌いじゃない。あと半年だしな」という、よく分からない返事が返ってきた。

そんなわけで、僕たちは晴れて“仮”ではない囲碁部として活動できるようになった。しかも、新年度予算で、なぜか部費までついた。たぶん、部員が二人しかいないことが、まだバレていない。そのおかげで――


「……ついに、買っちゃいましたよ」

僕は誇らしげに、箱を掲げた。

「最新AI囲碁ソフト、バージョン9.2。プロ推薦、棋力九段設定可、戦型分析付き!」

ユエは興味なさそうに、古い囲碁雑誌をめくっている。

「AIに、勝ちたいの?」

顔も上げずに言った。

「これがあると、助かるんです」

言葉が、自然と早くなる。

「相手がいないときも打てるし、検討もできるし、定石も――」

「定石、ね」

ユエの声は低かった。否定ではない。でも、距離がある。

「今のプロ、ほとんどAI使ってるんですよ」

僕は続けた。

「研究会も、棋院も。トップ棋士ほど、AIを相棒みたいに扱ってる」

それは、本当だった。

「だから、これは――」

言いかけて、止まる。

「……第三の部員、みたいなものです」

自分で言って、少し恥ずかしくなった。


ソフトを起動すると、盤面がすっと表示される。整然とした十九路盤。テンプレートの声が部室に響いた。

「こんにちは。囲碁AI“碁脳ゴノウ”です。今日も一手一手、積み重ねましょう」

どこか人間味のある声だった。さすが、プロ仕様。

「AIは……便利だよね。中国でも使っている人、多いい……」

ユエが、ぼそっと呟いた。聞こえ

たか、聞こえなかったか、分からないくらいの音量で。

これまで人が培ってきたすべての定石。個では辿り着けない読み。個では選べなかった最善手。AIは、それを淡々と提示してくれる。

十九路盤を囲む人数が増える、という感覚が、どうしても嬉しかった。

「じゃあ、打ってみる?」

僕は、AIに先手を与えた。画面上の黒石が、ためらいなく、四隅に置かれる。

速い。迷いがない。


「……綺麗な手」

ユエが、ぽつりと言った。それは、評価だった。

数手進む。

盤面は均整が取れている。無駄がない。美しすぎるほどに。

なのに。ユエは、だんだん口数が減っていった。

「どう?」

僕が聞くと、少し間があった。

「……便利」

「でしょ?」

「でも」

ユエは、画面から目を離した。

「風が、ない」

意味が、すぐには分からなかった。

「石が、呼吸してない」

人間同士の対局では、間がある。迷いがある。躊躇がある。それが、盤面に染み込む。でも、このAIは違う。正解を、正解として置くだけ。

「効率が、先に来すぎる」

ユエの声は、静かだった。

「囲碁が、道じゃなくて、答えになってる」

僕は、少しだけ戸惑った。だって、これは――僕が、ずっと求めていたものだったからだ。

「でも……強くなるには、必要ですよ」

そう言いながら、自分に言い聞かせている気もした。AIは、さらに石を置く。迷いのない一手。

部室の空気が、ほんの少し冷えた。便利さは、確かにそこにある。でも、その影もまた、十九路盤の上に、静かに落ち始めていた。

――第三の異物が、部室に加わった瞬間だった。


変化は、すぐに数字になって現れた。

勝率、六割三分。

評価値、プラス一・八。

盤面の横に並ぶグラフが、ゆっくり右肩上がりになる。

「……すご」

思わず、声が漏れた。

昨日まで勝てなかったAIに、今日は勝てる。(設定次第だけど……)

先週読めなかった形が、今日は見える。それは、努力が報われる感覚だった。

囲碁を始めてから、こんなに分かりやすく「強くなっている」と思えたことはない。碁会所では、勝っても負けても曖昧だった。学校では、比べる相手すらいなかった。でも今は違う。碁脳は、嘘をつかない。


良い手は、良い。

悪い手は、悪い。


評価値が、それを教えてくれる。

「この形……」

盤面を見ながら、指が自然に動く。かつてなら怖くて打てなかった一線。今は、理由が分かる。

石が軽い。盤全体が、前よりも近く感じる。

「……強くなってるね」

ユエが、背後から言った。声は、いつもと同じ温度だった。

「はい」

即答だった。

「分かるんです」

言葉にするのは、少し難しい。

「考える前に、候補手が浮かぶというか……」

「AIの形?」

「はい。でも、それだけじゃない」

少し考えて、付け足す。

「選び方が、分かってきた気がします」

碁脳は、すぐに次の一手を示す。最善手。次善手。悪手。色分けされた評価。

その並びを見ていると、世界が整理されていく気がした。迷わなくていい。間違えなくていい。答えは、そこにある。その感覚が、心地よかった。


「……便利だね」

ユエが、また同じ言葉を使った。

今度は、少しだけ間を置いて。

「はい」

僕は、画面から目を離さずに答えた。

数手進める。評価値は、さらに上がる。勝率、六割八分。数字が、確信に変わっていく。

でもふと、気づく。盤を見ているはずなのに、石を見ていない。

読んでいるはずなのに、考えていない。視線は、いつの間にか、盤面よりも数字に向いていた。


「その手……」

ユエが言いかけて、止まる。

「何?」

「……いい手」

少し、間があった。

「でも、古賀くんの手じゃない」

胸の奥が、ちくりとした。

「AIの?」

「うん」

否定ではない。責めてもいない。ただ、事実を置かれただけだった。

「それでも、勝ててます」

自分でも、少し強がりだと分かる声だった。碁脳は、また評価を更新する。


最善。

最善。

最善。


その連なりが、心を満たしていく。失われているものには、まだ、名前がなかった。でも何かが、少しずつ歪み始めている。十九路盤の上で、静かに、確実に。

――強くなる感覚は、いつだって、危うさと隣り合わせだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ