第九局|つまらなくなった囲碁
その言葉は、盤面よりも先に、胸に落ちた。
「……つまらない」
ユエは、はっきりそう言った。
部室には、碁脳の起動音だけが残っている。ファンの低い音が、やけに大きく聞こえた。
最近、僕は、確実に強くなっていた。放課後、部室に入ると、まず碁脳を起動する。
「対局モード。棋力設定、プロ初段」
画面に盤が現れ、黒石が置かれる。迷いのない一手。以前なら、意味を考えるだけで数分かかっていた形が、今は、候補として自然に浮かぶ。AIが示す評価値。色分けされた最善手。それを見て、打つ。
間違えれば、すぐに数値が下がる。正しければ、はっきりと上がる。分かりやすい。正直だ。努力が、裏切られない。勝率は、七割を超えた。評価値は、安定してプラスを示している。
――強くなる感覚。それは、麻痺に似ていた。
気づけば、盤面を見るより先に、数字を確認するようになっていた。石を置く理由は、「美しいから」ではなく、「効率がいいから」になっていた。それでも、勝てていた。だから、疑わなかった。
「……林さん、一局どう?」
「やだ」
「え、即答!?」
想像していなかった返事に、間の抜けた声が出た。
「だって、あなた最近つまんないもん」
「え?」
「そのまんま」
ユエは、雑誌を閉じ、机に手を置いた。
「AIみたいに打つようになった」
「囲碁が、つまらなくなってる」
言い直しはなかった。言葉は、正確で、容赦がない。
「それは……」
反射的に言い返そうとして、止まる。その一言が、思っていた以上に深く刺さっていた。
「効率的で、失点が少なくて、正しい」
ユエは、盤を見ない。
「でも、面白くない」
少し間を置いて、続ける。
「前のあなたの囲碁、ヘタだったけど」
「変だったけど」
「……なんか、あった」
評価値は、プラス二・三。勝率は、七割を超えている。数字は、嘘をつかない。その対比が、残酷だった。
「“なんか”って」
「分からない」
ユエは、正直に言った。
「でも、中国で打ってた囲碁には、なかった」
その言葉に、僕は息を呑んだ。
「中国では」
ユエは、少しだけ目を伏せる。
「勝つことだけが、すべてだった」
「負けたら、意味がない」
「効率が悪い手は、存在しないのと同じ」
静かな声だった。
「それで、私は強くなった」
「でも」
顔を上げる。
「いつからか、囲碁を打ってる感覚がなくなった」
だから、日本では打つつもりはなかった。勝つだけの囲碁を、もう一度やる理由がなかった。
「なのに」
ユエの視線が、僕に向く。
「あなたの囲碁は、違った」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「勝つためじゃないのに、盤に向き合ってた」
「迷って、悩んで、でも楽しそうだった」
「……それが、今はない」
「効率が、先に来すぎてる」
「考える前に、選んでる」
「でもそれが、今の囲碁だって言うのも分かってる」
少し、間を置いて。
「だから、疲れた」
「勝つためだけの囲碁に」
言葉が、胸の奥に突き刺さる。それは、僕が、ずっと欲しかったものだったはずなのに。
「でも……」
言葉を探す。
「強くならないと、意味がないじゃないですか」
「意味は、勝ちだけ?」
即答だった。
「じゃあ、楽しさって何ですか」
少し、挑むような口調になる。
「読み合い?」
「駆け引き?」
「それとも、負けること?」
ユエは、少しだけ目を伏せた。
「分からない」
意外な答えだった。
「でも」
顔を上げる。
「少なくとも、今の古賀くんの囲碁には――」
そこで、言葉を切る。
「私が、打ちたい理由がない」
その一言で、盤面が、音を立てて崩れた気がした。
AIは、次の最善手を示しくれる。迷いのない、正解の列。それを見ながら、僕は思う。
ユエは、勝つことだけの囲碁を打ってきた。だからこそ、僕の囲碁に、何かを見つけた。
でも今、僕は、彼女が捨てた囲碁に近づいている。効率は、確かに強い。でも、楽しさを保証しない。囲碁は、答えじゃない。会話であり道だ。
――その道を、僕は、少し踏み外していたのかもしれない。
核心は、もう見えていた。それでも、引き返し方が分からなかった。
部室の棚の奥には、誰も整理しないまま残された、古い雑誌が詰まっていた。背表紙は色褪せ、年代もまちまちだ。
「……まだ、こんなの残ってたんだ」
僕が引き抜いた一冊は、二十年以上前の囲碁雑誌だった。表紙には、今ではテレビ解説でしか見かけない、往年の日本棋士の名前。
「昔の棋譜?」
ユエが、少しだけ興味を示した。
「はい。たぶん、岩田先生の前任の先生が置いてったやつです」
ページをめくると、細かい文字で並んだ解説と、盤面図。評価値も、勝率も、当然、載っていない。ただ……
「この一手は美しい」
「この判断には勇気がいる」
そんな言葉が、普通に書かれていた。
「……変」
ユエが、ぽつりと言った。
「どこが?」
「勝てるかどうか、書いてない」
言われて、気づく。
確かに、どの変化が最善か、数値で示す記述はない。
「この人たち、何を基準に評価してるの?」
「……たぶん、流れとか、構想とか」
「曖昧」
白黒のページに書かれた「三村九段、今期初勝利」の文字を、ユエは指でなぞった。
「昔の日本の棋士、手が遅いけど、粘り強い。今ではムダ手ばっかだけど……気迫がある……」
「……そういうの、嫌いなんじゃなの?」
「別に。資料として興味あるだけ」
――はぃ、あまのじゃく認定で乙……
「中国なら、たぶん却下」
「効率が悪い。意味がない、って言われる」
「でも、昔の日本の棋士は、こういう手を打つ」
雑誌の解説文を、ゆっくり読む。
「“盤全体に風を通す一手”……?」
「風」
ユエが、小さく頷く。
「前に言ったでしょ。AIの囲碁には、風がないって」
盤面の石は、まだ争っていない。でも、これから起こる何かを、確かに予感させる配置だった。
「勝つため、だけじゃない」
ユエは、静かに言う。
「囲碁を、広くするための一手」
その言葉が、胸の奥で、ゆっくり響いた。
僕は、気づく。ユエは、勝利以外の価値を、ずっと知っていた。でも、中国での囲碁は、それを追い出さなきゃいけなかった。勝つために。
「……昔の日本、強かったんだよね」
「うん」
短く答える。
「でも、それ以上に」
少し考えてから、続ける。
「自由だった」
効率よりも、正解よりも、“どう打ちたいか”を、許されていた時代。ページを閉じる音が、やけに大きく響いた。
勝つことは、確かに大事だ。でも、勝つことだけでは、囲碁は、続かない。その思想は、まだ、はっきりと形にならない。けれど、古い棋譜の中に、確かに、種は蒔かれていた。――勝利以外の価値という、名もない伏線が。




