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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第九局|つまらなくなった囲碁

その言葉は、盤面よりも先に、胸に落ちた。

「……つまらない」

ユエは、はっきりそう言った。

部室には、碁脳の起動音だけが残っている。ファンの低い音が、やけに大きく聞こえた。

最近、僕は、確実に強くなっていた。放課後、部室に入ると、まず碁脳を起動する。


「対局モード。棋力設定、プロ初段」

画面に盤が現れ、黒石が置かれる。迷いのない一手。以前なら、意味を考えるだけで数分かかっていた形が、今は、候補として自然に浮かぶ。AIが示す評価値。色分けされた最善手。それを見て、打つ。

間違えれば、すぐに数値が下がる。正しければ、はっきりと上がる。分かりやすい。正直だ。努力が、裏切られない。勝率は、七割を超えた。評価値は、安定してプラスを示している。

――強くなる感覚。それは、麻痺に似ていた。

気づけば、盤面を見るより先に、数字を確認するようになっていた。石を置く理由は、「美しいから」ではなく、「効率がいいから」になっていた。それでも、勝てていた。だから、疑わなかった。


「……林さん、一局どう?」

「やだ」

「え、即答!?」

想像していなかった返事に、間の抜けた声が出た。

「だって、あなた最近つまんないもん」

「え?」

「そのまんま」

ユエは、雑誌を閉じ、机に手を置いた。

「AIみたいに打つようになった」

「囲碁が、つまらなくなってる」

言い直しはなかった。言葉は、正確で、容赦がない。

「それは……」

反射的に言い返そうとして、止まる。その一言が、思っていた以上に深く刺さっていた。

「効率的で、失点が少なくて、正しい」

ユエは、盤を見ない。

「でも、面白くない」

少し間を置いて、続ける。

「前のあなたの囲碁、ヘタだったけど」

「変だったけど」

「……なんか、あった」

評価値は、プラス二・三。勝率は、七割を超えている。数字は、嘘をつかない。その対比が、残酷だった。

「“なんか”って」

「分からない」

ユエは、正直に言った。

「でも、中国で打ってた囲碁には、なかった」

その言葉に、僕は息を呑んだ。

「中国では」

ユエは、少しだけ目を伏せる。

「勝つことだけが、すべてだった」

「負けたら、意味がない」

「効率が悪い手は、存在しないのと同じ」

静かな声だった。

「それで、私は強くなった」

「でも」

顔を上げる。

「いつからか、囲碁を打ってる感覚がなくなった」

だから、日本では打つつもりはなかった。勝つだけの囲碁を、もう一度やる理由がなかった。

「なのに」

ユエの視線が、僕に向く。

「あなたの囲碁は、違った」

胸が、きゅっと締めつけられる。

「勝つためじゃないのに、盤に向き合ってた」

「迷って、悩んで、でも楽しそうだった」

「……それが、今はない」

「効率が、先に来すぎてる」

「考える前に、選んでる」

「でもそれが、今の囲碁だって言うのも分かってる」


少し、間を置いて。

「だから、疲れた」

「勝つためだけの囲碁に」

言葉が、胸の奥に突き刺さる。それは、僕が、ずっと欲しかったものだったはずなのに。

「でも……」

言葉を探す。

「強くならないと、意味がないじゃないですか」

「意味は、勝ちだけ?」

即答だった。

「じゃあ、楽しさって何ですか」

少し、挑むような口調になる。

「読み合い?」

「駆け引き?」

「それとも、負けること?」

ユエは、少しだけ目を伏せた。

「分からない」

意外な答えだった。

「でも」

顔を上げる。

「少なくとも、今の古賀くんの囲碁には――」

そこで、言葉を切る。

「私が、打ちたい理由がない」

その一言で、盤面が、音を立てて崩れた気がした。


AIは、次の最善手を示しくれる。迷いのない、正解の列。それを見ながら、僕は思う。

ユエは、勝つことだけの囲碁を打ってきた。だからこそ、僕の囲碁に、何かを見つけた。

でも今、僕は、彼女が捨てた囲碁に近づいている。効率は、確かに強い。でも、楽しさを保証しない。囲碁は、答えじゃない。会話であり道だ。

――その道を、僕は、少し踏み外していたのかもしれない。


核心は、もう見えていた。それでも、引き返し方が分からなかった。

部室の棚の奥には、誰も整理しないまま残された、古い雑誌が詰まっていた。背表紙は色褪せ、年代もまちまちだ。

「……まだ、こんなの残ってたんだ」

僕が引き抜いた一冊は、二十年以上前の囲碁雑誌だった。表紙には、今ではテレビ解説でしか見かけない、往年の日本棋士の名前。

「昔の棋譜?」

ユエが、少しだけ興味を示した。

「はい。たぶん、岩田先生の前任の先生が置いてったやつです」

ページをめくると、細かい文字で並んだ解説と、盤面図。評価値も、勝率も、当然、載っていない。ただ……


「この一手は美しい」

「この判断には勇気がいる」

そんな言葉が、普通に書かれていた。

「……変」

ユエが、ぽつりと言った。

「どこが?」

「勝てるかどうか、書いてない」

言われて、気づく。

確かに、どの変化が最善か、数値で示す記述はない。

「この人たち、何を基準に評価してるの?」

「……たぶん、流れとか、構想とか」

「曖昧」


白黒のページに書かれた「三村九段、今期初勝利」の文字を、ユエは指でなぞった。

「昔の日本の棋士、手が遅いけど、粘り強い。今ではムダ手ばっかだけど……気迫がある……」

「……そういうの、嫌いなんじゃなの?」

「別に。資料として興味あるだけ」

――はぃ、あまのじゃく認定で乙……

「中国なら、たぶん却下」

「効率が悪い。意味がない、って言われる」

「でも、昔の日本の棋士は、こういう手を打つ」

雑誌の解説文を、ゆっくり読む。

「“盤全体に風を通す一手”……?」

「風」

ユエが、小さく頷く。

「前に言ったでしょ。AIの囲碁には、風がないって」

盤面の石は、まだ争っていない。でも、これから起こる何かを、確かに予感させる配置だった。

「勝つため、だけじゃない」

ユエは、静かに言う。

「囲碁を、広くするための一手」

その言葉が、胸の奥で、ゆっくり響いた。

僕は、気づく。ユエは、勝利以外の価値を、ずっと知っていた。でも、中国での囲碁は、それを追い出さなきゃいけなかった。勝つために。

「……昔の日本、強かったんだよね」

「うん」

短く答える。

「でも、それ以上に」

少し考えてから、続ける。

「自由だった」

効率よりも、正解よりも、“どう打ちたいか”を、許されていた時代。ページを閉じる音が、やけに大きく響いた。

勝つことは、確かに大事だ。でも、勝つことだけでは、囲碁は、続かない。その思想は、まだ、はっきりと形にならない。けれど、古い棋譜の中に、確かに、種は蒔かれていた。――勝利以外の価値という、名もない伏線が。



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