第十局|ペア碁という提案
最近、部室の空気が、少しだけ重い。理由は、分かっていた。ユエに言われた、あの一言だ。
――つまらない。
盤を前にすると、その言葉が、どこからともなく浮かんでくる。石を持つ指が、以前より迷わなくなったのに、その迷いのなさが、かえって不安を連れてくる。
正解は、分かる。評価値も、勝率も、表示される。でも、その先に何があるのかは、見えない。
そして、悩みは、それだけじゃなかった。囲碁部の「実績」だ。
部員は、僕とユエの二人だけ。顧問は、定年まであと半年の岩田先生。このまま何もしなければ、来年の部としての存続は危うい。
大会に出る。結果を残す。
言葉にすれば簡単だけど、二人だけの囲碁部で、それをどうやって実現するのか。答えは、まだ見えていなかった。
そんなことを考えていたときだった。その提案は、思ってもいなかったところから来た。
「……ペア碁、というのはどうだろう」
岩田先生が、湯呑を持ったまま言った。昼下がりの部室。窓の外では、運動部の掛け声が風に流れている。
「ペア……碁?」
僕とユエが、ほぼ同時に首を傾げた。
「二人一組で、一局を打つやつだよ。交互に手番を担当する。ほら、最近あるだろ。男女ペアとか、国際大会とか」
先生はそう言ってから、少し困った顔をした。
「まあ、私は詳しくないけどね。将棋の連盟ニュースで見ただけだ」
(将棋の連盟ニュース?なぜ将棋……)
囲碁部の顧問としては、相変わらず心許ない。でも、その一言は、何か盤上に新しい石を置いたみたいに、空気を変えた。
「……交互に、ですか」
ユエが、静かに聞き返す。
「そう。相談は禁止。打つ順番も決まってる。つまり――」
先生は、少しだけ口元を緩めた。
「自分の一手で、“隣の相方の選択肢を決めてしまう”ってことだ」
その説明に、胸の奥がざわついた。
――自分の手で、彼女の次を決めてしまう。
自分の手を、誰かに委ねる。誰かの手を、受け取る。それは、今までの囲碁とは、少し違う。
「……面白そうですね」
思わず、声が出た。
AIとは共有できない気持ち。一人では成立しない。勝ちも負けも、途中経過も、全部共有される。
「大会もあるぞ。規模は小さいが、実績にはなる。部の条件、覚えてるだろ?」
岩田先生は、そこでちらりと僕を見た。
「マジですか!? 出ます、出ます!」
「ね? ね? 林さん!」
光志は即答し、ユエの顔を振り返った。
部員三人以上。もしくは、一定の大会実績。ペア碁なら、二人でも、道はある。
ユエは、しばらく黙っていた。窓の外を見るでもなく、盤を見るでもなく、机の一点を見つめている。
「ペア碁の事は、聞いたことがある。でもやったことは無い……相談できない、というのは」
やがて、口を開く。
「相手の考えを、信じるしかないってこと?」
「そうなるね」
岩田先生は、あっさり答えた。
少し、間があった。
「それなら――」
ユエは、僕のほうを見た。
「条件がある」
来た、と思った。
「AI碁は禁止」
即答だった。
「対局前の研究も、AI解析も、全部なし」
「えっ」
「それが嫌なら、やらない」
視線は、逸らされない。冗談でも、試しでもない。
僕は、一瞬だけ迷った。でも、その迷いは、長く続かなかった。
「……分かりました」
自分でも驚くくらい、素直に言葉が出た。
ユエは、ほんの少しだけ目を細めた。それは、笑顔とは言えない。でも、拒絶でもなかった。
「じゃあ、一回だけ」
「え?」
「ペア碁も。一回だけ」
また、その言い方だ。
けれど――その目の奥には、少しだけ、興味の火が灯っているようにも見えた。
一回だけの約束。
一回だけの扉。
でも、不思議と、それで十分な気がした。十九路盤は、まだ何も置かれていない。けれど、そこにはもう、二人分の時間が、並んで立っていた。
――次は、二人で、一局。
夜の部室は、昼とは別の顔をしている。照明は一つだけ。十九路盤の上に、白い光が落ちている。外からは、風に揺れる木の音と、遠くの車の走行音。
大会にでる。それが、囲碁部としての、初めての公式戦だった。
――ペア碁。二人で一局を打つ。相談は禁止。自分の一手が、次の一手を縛る。
ルールを思い返すたびに、胃のあたりが、少し重くなる。
「……緊張してる?」
ユエが、盤を見たまま言った。振り向かない。でも、分かっている言い方だった。
「してない、って言ったら嘘ですね」
正直に答えると、少しだけ楽になった。
勝てるかどうか。それよりも、不安なのは――自分の一手が、ユエの足を引っ張らないか、ということ。
これまでの対局は、全部、自分の責任だった。負けても、納得できた。でも、今回は違う。明日は、僕の一手が、彼女の評価にもなってしまう。
盤の上に、まだ石はない。それなのに、失敗した場面ばかりが、頭に浮かぶ。
「もし……」
言いかけて、止まる。
「変な手、打ったら、ゴメン……」
ユエは、そこで初めて、こちらを見た。
「いつも変な手、でしょ」
否定でも、慰めでもない。
「それが、あなた」
短い言葉だった。でも、不思議と、胸に残った。
変な手。定石に囚われない。効率から外れる。それを、彼女は知っている。知ったうえで、ここにいる。
「私は、勝つために打つ」
ユエは、静かに言った。声は低く、揺れない。
「でも」
一拍置く。
「あなたとなら、負けてもいいとは思っていない」
それは、覚悟だった。勝敗の話じゃない。一局を引き受ける、という意味での。
僕は、何も言えなかった。言葉にすると、壊れそうだったからだ。しばらく、二人で盤を見つめる。夜の部室は、音を吸い込んでいる。
「今日は、もう打たない?」
僕が聞くと、ユエは首を振った。
「頭を、休ませる」
「明日は、考える日」
立ち上がると、ユエは、ふと立ち止まった。
「……古賀くん」
「はい?」
「明日」
一瞬、間があった。
「逃げないで」
それだけ言って、廊下に出ていく。扉が閉まる音が、静かに響いた。
残された部室で、僕は、盤に手を伸ばす。石には触れない。触れないまま、深く息を吸った。
外では、風が強くなっている。嵐の前の夜は、いつも、こんなふうに、静かだ。
――十九路盤は、まだ何も語っていない。でも、明日には、二人分の物語が、確かに刻まれる。




