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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十局|ペア碁という提案

最近、部室の空気が、少しだけ重い。理由は、分かっていた。ユエに言われた、あの一言だ。

――つまらない。


盤を前にすると、その言葉が、どこからともなく浮かんでくる。石を持つ指が、以前より迷わなくなったのに、その迷いのなさが、かえって不安を連れてくる。

正解は、分かる。評価値も、勝率も、表示される。でも、その先に何があるのかは、見えない。

そして、悩みは、それだけじゃなかった。囲碁部の「実績」だ。

部員は、僕とユエの二人だけ。顧問は、定年まであと半年の岩田先生。このまま何もしなければ、来年の部としての存続は危うい。


大会に出る。結果を残す。

言葉にすれば簡単だけど、二人だけの囲碁部で、それをどうやって実現するのか。答えは、まだ見えていなかった。

そんなことを考えていたときだった。その提案は、思ってもいなかったところから来た。


「……ペア碁、というのはどうだろう」

岩田先生が、湯呑を持ったまま言った。昼下がりの部室。窓の外では、運動部の掛け声が風に流れている。

「ペア……碁?」

僕とユエが、ほぼ同時に首を傾げた。

「二人一組で、一局を打つやつだよ。交互に手番を担当する。ほら、最近あるだろ。男女ペアとか、国際大会とか」

先生はそう言ってから、少し困った顔をした。

「まあ、私は詳しくないけどね。将棋の連盟ニュースで見ただけだ」

(将棋の連盟ニュース?なぜ将棋……)

囲碁部の顧問としては、相変わらず心許ない。でも、その一言は、何か盤上に新しい石を置いたみたいに、空気を変えた。

「……交互に、ですか」

ユエが、静かに聞き返す。

「そう。相談は禁止。打つ順番も決まってる。つまり――」

先生は、少しだけ口元を緩めた。

「自分の一手で、“隣の相方の選択肢を決めてしまう”ってことだ」

その説明に、胸の奥がざわついた。

――自分の手で、彼女の次を決めてしまう。

自分の手を、誰かに委ねる。誰かの手を、受け取る。それは、今までの囲碁とは、少し違う。

「……面白そうですね」

思わず、声が出た。

AIとは共有できない気持ち。一人では成立しない。勝ちも負けも、途中経過も、全部共有される。

「大会もあるぞ。規模は小さいが、実績にはなる。部の条件、覚えてるだろ?」

岩田先生は、そこでちらりと僕を見た。

「マジですか!? 出ます、出ます!」

「ね? ね? 林さん!」

光志は即答し、ユエの顔を振り返った。

部員三人以上。もしくは、一定の大会実績。ペア碁なら、二人でも、道はある。

ユエは、しばらく黙っていた。窓の外を見るでもなく、盤を見るでもなく、机の一点を見つめている。

「ペア碁の事は、聞いたことがある。でもやったことは無い……相談できない、というのは」

やがて、口を開く。

「相手の考えを、信じるしかないってこと?」

「そうなるね」

岩田先生は、あっさり答えた。

少し、間があった。

「それなら――」

ユエは、僕のほうを見た。

「条件がある」

来た、と思った。

「AI碁は禁止」

即答だった。

「対局前の研究も、AI解析も、全部なし」

「えっ」

「それが嫌なら、やらない」

視線は、逸らされない。冗談でも、試しでもない。

僕は、一瞬だけ迷った。でも、その迷いは、長く続かなかった。

「……分かりました」

自分でも驚くくらい、素直に言葉が出た。

ユエは、ほんの少しだけ目を細めた。それは、笑顔とは言えない。でも、拒絶でもなかった。

「じゃあ、一回だけ」

「え?」

「ペア碁も。一回だけ」

また、その言い方だ。

けれど――その目の奥には、少しだけ、興味の火が灯っているようにも見えた。


一回だけの約束。

一回だけの扉。

でも、不思議と、それで十分な気がした。十九路盤は、まだ何も置かれていない。けれど、そこにはもう、二人分の時間が、並んで立っていた。

――次は、二人で、一局。

夜の部室は、昼とは別の顔をしている。照明は一つだけ。十九路盤の上に、白い光が落ちている。外からは、風に揺れる木の音と、遠くの車の走行音。

大会にでる。それが、囲碁部としての、初めての公式戦だった。


――ペア碁。二人で一局を打つ。相談は禁止。自分の一手が、次の一手を縛る。

ルールを思い返すたびに、胃のあたりが、少し重くなる。

「……緊張してる?」

ユエが、盤を見たまま言った。振り向かない。でも、分かっている言い方だった。

「してない、って言ったら嘘ですね」

正直に答えると、少しだけ楽になった。

勝てるかどうか。それよりも、不安なのは――自分の一手が、ユエの足を引っ張らないか、ということ。

これまでの対局は、全部、自分の責任だった。負けても、納得できた。でも、今回は違う。明日は、僕の一手が、彼女の評価にもなってしまう。

盤の上に、まだ石はない。それなのに、失敗した場面ばかりが、頭に浮かぶ。

「もし……」

言いかけて、止まる。

「変な手、打ったら、ゴメン……」

ユエは、そこで初めて、こちらを見た。

「いつも変な手、でしょ」

否定でも、慰めでもない。

「それが、あなた」

短い言葉だった。でも、不思議と、胸に残った。

変な手。定石に囚われない。効率から外れる。それを、彼女は知っている。知ったうえで、ここにいる。

「私は、勝つために打つ」

ユエは、静かに言った。声は低く、揺れない。

「でも」

一拍置く。

「あなたとなら、負けてもいいとは思っていない」

それは、覚悟だった。勝敗の話じゃない。一局を引き受ける、という意味での。

僕は、何も言えなかった。言葉にすると、壊れそうだったからだ。しばらく、二人で盤を見つめる。夜の部室は、音を吸い込んでいる。

「今日は、もう打たない?」

僕が聞くと、ユエは首を振った。

「頭を、休ませる」

「明日は、考える日」

立ち上がると、ユエは、ふと立ち止まった。

「……古賀くん」

「はい?」

「明日」

一瞬、間があった。

「逃げないで」

それだけ言って、廊下に出ていく。扉が閉まる音が、静かに響いた。

残された部室で、僕は、盤に手を伸ばす。石には触れない。触れないまま、深く息を吸った。

外では、風が強くなっている。嵐の前の夜は、いつも、こんなふうに、静かだ。

――十九路盤は、まだ何も語っていない。でも、明日には、二人分の物語が、確かに刻まれる。



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