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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十一局|初めての大会

会場の体育館には、盤の数だけ、白と黒の小宇宙が並んでいる。

会場は、思っていたよりも、にぎやかだった。地方開催とはいえ、意外と参加ペアは多い。長机が規則正しく並び、その上に碁盤と碁笥が置かれている。壁には大会名の紙が貼られ、受付の横ではスタッフが忙しなく動いていた。


空気が、少し熱い。

笑い声。

碁石袋の匂い。


石が碁笥に触れる、軽い、乾いた響き。部室の静けさとは、まるで別の世界だった。

周囲を見渡すと、年齢層はばらばらだ。学生もいれば、社会人らしきペアもいる。畳敷きの一角では、囲碁とは関係なさそうな将棋部が、なぜか観戦席でワイワイ盛り上がっている。

「駒落ちしないだけでマシだろ」

「いや、囲碁はパスできるからズルい!」

騒がしい。ルールすら違うのに、なぜ将棋部の彼らはここにいるのか?

それよりも気になるのは、主催スタッフに紛れてやたら高そうな三脚を立て、碁盤を上から覗き込む老人だ。棋譜取りのようだが、ノートには判読不能の達筆で“幽玄”とか“厚み”とか書き込まれている。

「……いるよね、どこにでも、ああいう人」

光志が小声でつぶやいた。

「多分、アレが一番強いタイプだと思う」

「いや、たぶん“囲碁語りは好きだけど勝率は微妙”タイプ」

「……リアル」

二人の控えめな会話の横では、対局時計が“カチッ、カチッ”と規則正しく鳴っていた。普段の静かな部室と違い、ここの空気は少し乾いていて、落ち着かない。

――もしかして場違い?かもしれない。

そんな言葉が、頭をよぎる。


――ペア碁

最近では、アマチュアやプロ棋士を対象とした国際棋戦や国内棋戦も行われ、国際大会でも正式種目として採用されている。

ルールは単純で、男女のペア同士が一面の共通の碁盤で、黒番の女性、白番の女性、黒番の男性、白番の男性の順で交互に打ち、相談や話し合いは禁止。互いの読みと呼吸、信頼が試される。しかし仲が良ければ勝てるというものでもない


僕たちは、並んで立っていたが、交わす言葉は、少ない。ユエは、普段と変わらない表情だ。静かで、落ち着いていて、周囲の喧騒から、少し距離を取っている。

「人、多いですね」

無理に出した声は、少し上ずっていた。

「普通」

ユエは短く答える。

中国での大会を思えば、この程度は、日常なのかもしれない。受付を済ませ、指定された卓へ向かう。番号札のついた机の前で、足が止まった。

ここだ。碁盤は、新しいものだった。盤面は明るく、線がはっきりしている。

席に着くと、自然と、ユエとの距離が近くなる。肩が触れるほどではない。でも、一人で打つときより、あきらかに近い。

呼吸の音が、分かる。向かいのペアが、軽く会釈した。年上だ。表情に、余裕がある。

緊張が、じわじわと上がってくる。ペア碁では、手番が決まっている。黒白も、あらかじめ指定されていた。順番も決まっている。それでも、最初の一手だけは、「誰が打ったか」が、はっきり残る。


――最初の一手。

石を持つユエの視線を感じた。見ている。でも、何も言わない。それが、ペア碁のルール。それが、今の約束。


深く息を吸う。

吐く。


部室とは違う。でも、盤は、同じ十九路だ。石を置く場所は、まだ、空いている。

ユエの呼吸が、少しだけ、僕と重なった気がした。それだけで、「一人じゃない」という事実が、確かになる。


アナウンスが流れた。

「それでは、第五回ペア碁大会、第一局を開始します」

会場のざわめきが、すっと引く。盤面に、静けさが降りてくる。連携は、まだ始まっていない。でも、もう、同じ局に立っている。――ここからだ。

ユエは、最初の石を、盤の上に置いた。


光志とユエは、序盤から順調だった。

光志の成長は目覚ましかった。AIで学んだ変則布石や、判断の早さ、そしてなにより「考えた手を、責任を持って打つ姿勢」が身についていた。

(光志、そこ)

(打つよ)

ユエの目線に応える形で、黒石が盤に吸い込まれる。その連携は、見ている者の目にも心地よかった。


そして勝った。一局目は、思っていたよりも、あっさり終わった。中盤で相手の形が崩れ、終盤を待たずに投了。

「ありがとうございました」

頭を下げながら、ようやく息を吐いた。指先が、少し震えている。

ユエは、静かに立ち上がった。表情は変わらない。勝ったときの顔、というものが、そこにはなかった。自分自身でも成長していたのが、判る一局だった。

結果だけを見れば、そうだった。


――しかし時折見せる光志のポンコツぶりも健在だ……

右と左を間違えそうになったり、昼食のパンにカレーパンを重ねて持っていたり――が顔を出すたび、ユエはため息をついた。

「……この国の炭水化物、過剰すぎない?」

「愛だよ。糖質という名の応援」

「バランスの問題」


「次の卓、準備してください」

スタッフの声に促され、席を移る。

二局目。三局目。勝ち進んでいた。派手な勝ち方じゃない。でも、崩れない。ミスが少ない。

僕が置いた石を、ユエが引き取り、ユエの石を、僕が次につなぐ。ペア碁としては、理想的な流れ――少なくとも、周囲から見れば、そうだったと思う。

「いいペアだね」

すれ違いざまに、誰かが言った。褒め言葉のはずなのに、胸の奥で、何かが引っかかった。

確かに、勝っている。でも、それは――

盤面を振り返る。

ユエの黒は、強い。迷いがなく、形が綺麗だ。無駄を削ぎ落とした、一直線の手。

その次に、僕が打つ。自然と、似た手を選んでいる自分に気づく。変な手を、打たなくなっている。評価値を見ていないはずなのに、頭の中に、あの数字が浮かぶ。

そして、ユエの機嫌が少しだけ悪い気がする……?

――安全。

――効率的。

それが、悪いわけじゃない。勝っているのだから。でも。


次の対局が始まる直前、ユエが、ほんの一瞬だけ、盤から目を離した。

視線は、窓の外。そこには、特に何もない。呼吸が、合っていないわけじゃない。でも、重なってもいない。

二人で同じ方向を見ている。それなのに、歩幅が、少しだけ違う。そのズレは、勝敗には、まだ影響しない。

けれど、このまま進めば、いつか、はっきりした形で現れる。そんな予感だけが、盤の端に、小さな石のように残っていた。


結果は、上々だ。初大会としては、出来すぎなくらいだ。拍手も、言葉も、もらった。それでも、十九路盤の上に残るのは、成功よりも先に、説明のつかない違和感だった。


――勝っている。

――でも、何かが、ずれている。

その感覚だけが、

静かに、次の局へとつながっていた。



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