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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十二局|再会と敗北

決勝は、会場の中央に置かれていた。周囲より一段だけ明るい照明。自然と、人の輪ができている。得点表の端に、小さく「コミ六目半」と記されていた。条件は公平。黒番の先手有利も、すでに計算に入っている。

――それでも、この一局は、ここまでで一番、重かった。相手は、地元の強豪ペア。派手さはないが、堅実で、崩れにくい。

盤の前に座り、石を握る。黒番は、僕だ。試合は、静かに始まった。


序盤は、悪くなかった。ユエの一手一手は明確で、迷いがない。

――分かっている。今、彼女が何を狙っているか。そう思った。

中盤。その“分かったつもり”が、ズレを生んだ。本来なら、ユエが次に広げるはずの方向。そこに、僕は先に手を入れてしまった。AIで何度も見た、安全で、効率的な形。

――違う。置いた瞬間、分かった。

盤の流れが、わずかに歪む。一瞬、会場の音が遠のいた。でも。ユエは、何も言わなかった。

表情も、変えない。ただ、その歪みを、無理なく包むような一手を置く。

派手じゃない。美しくもない。勝つためだけの、静かなカバー。


終局。数え終えた盤面は、ぎりぎり、こちらに傾いていた。

勝利。拍手が起こる。実績が、一つ、できた。岩田先生が、ほっとした顔で頷いている。でもユエは、笑わなかった。

控室に戻っても、言葉は少ない。

「……さっきの一手、ごめん」

「別に」

即答だった。けれど、その声は、冷たく、何かを否定している。

「ミスしたことじゃない」

ユエは、盤を見ずに言う。

「つまらなかった」

――勝ったのに、胸の奥が、きしんだ。

そのとき、主催者が、控室に顔を出した。

「よかったら、このあと……エキシビション、お願いできませんか」

後ろに、二人の人影があった。

「まさか来るとは思わなかった……」

ユエの視線その先――そこには、スーツ姿の大人に囲まれながら、どこか余裕を纏ったペアが入場してきた。


魯凰ル・ファン

沈星シェン・シン


場の空気が、変わる。

彼らは、今日の大会出場者とは別枠で主催が、目玉として招いた中国の強豪ペアだ。交通費も、滞在費も、主催持ち。地方大会にしては、破格の扱いだ。

沈星が、ユエを見て、目を細めた。

「……好久不见」(……久しぶり)

ユエの指が、わずかに震える。魯凰は、懐かしむように言った。

「没想到……你竟然会出现在“这种地方”」

(まさか……君が、"こんなところ"にいるなんて)

「听说你中途退出了中国棋院的中学部……」

(中国棋院の中等部、途中で抜けたって聞いてたけど)

「……只是偶然。没什么。你是来旅游的吧?」

(……たまたま。別に。あなたは、観光でしょ?)

「哈哈哈,日本的地方比赛。正好用来打发时间」

(はははぁ、日本の地方大会。暇つぶしにはちょうどいいよ)

ユエの拳が、わずかに震えた。

シェン・シンは、笑みを浮かべながら言う。

「你竟然在这种地方比赛。以前,你可是瞄准更高目标的呢……」

(あなたがこんなところで試合してるなんて。昔は、もっと上を目指してたのにね……)


(中国棋院的中学部?)

ユエの過去が、輪郭を持った瞬間だった。

光志が思わず口を挟んだ。

「なんか会話が失礼な雰囲気に聞こえるんですが?」

魯は、ちらりと光志を見て、興味なさそうに言った。

「你,是她的伴侣?嗯……好吧,加油」

(君、彼女のパートナー? ふうん……まあ、がんばって)

その言い方は、雰囲気からして「勝負にならない」と言っているようだ。

ユエは言い返さなかった。――かつて、自分自身も同じように思っていたからだ。


値踏みする目。悪意はない。でも、遠慮もない。

同じ十九路の前に立っているのに、立っている場所が、違う。勝ち続けてきた人たち。勝つことだけを、選び続けてきた人たち。

そして、僕。実績は、できた。でも、胸の奥で、何かが、ざらついている。

ユエは、何も言わず、盤の前に座った。

――これは、試合じゃない。過去と現在が、ぶつかるための、一局だ。そのことだけが、はっきりと、分かった。


エキシビションマッチは、淡々と始まった。勝敗は、公式記録に残らない。拍手も、賞状も、ない。それでも。盤の前に座った瞬間、空気だけは、決勝よりも重くなった。

コミは、六目半。条件は、同じ。逃げ道は、ない。盤を挟んで、再会と対峙が交差する。


序盤。

僕は、無難な囲碁を打っていた。AIと打ち続けて身についた、形の整った配置。損をしない選択。評価値が下がらない手。ユエも、淡々と応じる。感情を挟まない。過不足のない一手一手。盤面は、静かに進んでいく。

相手は隙のない布石を展開してきた。ユエは対応するが、ほんのわずかな“読みの深さ”の差が、じわじわと効いてくる。

――気づけば、少しずつ、こちらの地が、削られている。じわじわと。本当に、じわじわと。

派手な失敗は、ない。致命的なミスも、ない。それなのに、盤面は、確実に相手に寄っていく。

光志も喰らいつくが、相手はプロを目指すレベル。形勢は徐々に傾いていく。

(……差が、開いてる)


中盤。

ユエの石が、ほんのわずか、重くなった。読みが遅れたわけじゃない。手が悪いわけでもない。

でも。石に、勢いがない。そのことに、僕より先に、相手が気づいた。

「……前より、丸くなったね」

魯凰の声は、軽かった。沈星も、何も言わずに頷く。

「悪くはない。でも」

「ユエ、あなたこんな碁、打つ人じゃなかった」

その一言で、ユエの手が、止まった。ほんの一瞬。でも、確かに。

ユエは静かに思った。自分が日本に来る直前までは、魯とは互角だったはず。だが、今は違う。どこかで“伸び悩んでいる”自分に気づいていた。

(日本では、ここでは、自分は、もう成長できないんじゃないか、と。やっぱり、日本に来たことは間違いだった――?)

盤面を見つめるユエの横顔が、どこか、遠くなる。読みの中から、闘志が、抜け落ちていく。

このまま、静かに負ける。そんな気配が、はっきりと、漂った。


自分の一手じゃない一手。でも、この形の責任は、自分にもある。

――ペア碁は、ひとりの碁じゃない。だからこそ、逃げ場がない。

そして僕は、やめた。無難な囲碁を。評価値を。正解を。損をしない一手を。――ここしかない。

「打つよ」

光志は、ぽつりと言った。


盤の中央――白と黒がもつれ合った、そのわずかな隙間。

一見すれば、どちらにも繋がらず、ただ切り離されるだけの場所。

そこへ、石が滑り込むように置かれた。

両側から挟まれる危険地帯。

普通なら、守るか、外へ逃げる。

そのどちらでもなく――あえて中に踏み込む“切り”。

一手で、形がほどけ、ばらばらだった石同士に、かすかな呼吸が通る。

だが同時に、自分から薄くなる手でもあった。AIなら、まず選ばない。

それでも――盤面全体を巻き込んで、生き筋をこじ開ける一手。

石を置いた瞬間、空気が、変わった。


「……それ、打つ?」

沈星が、初めて声を上げる。魯凰も、目を細めた。審判席にいた棋譜取りの老人が、筆を止めた。周囲もざわつく。

(なんで……そこで、その手?)

(え、なんとなく?)

(“なんとなく”でそんな手、打つな)

ユエが困惑をにじませながら見つめる。光志は、照れ笑いを浮かべた。――でも。少なくとも、この碁は、生き返った。ユエが、僕を見る。一瞬だけ。

盤面が、歪む。

秩序が、崩れる。

賭けだ。

しかし――その後のユエは、わずかに乗り遅れた。調子を合わせきれず、細かい読み違いが出た。さっきまでの“無難な碁”と、急に切り替わった“変な碁”。その落差に、ユエの判断が、半拍遅れた。それを相手は、逃さない。


終盤。盤面は、再び、収束していく。

「……数えよう」

静かな声。結果は。白、六目半勝ち。半目。ほんの、半目。

「……ごめん、僕がミスった」

「……違う。むしろ、私が……」

負けた理由は、はっきりしていた。途中まで、僕が、無難すぎた。途中から、僕が、急すぎた。

そして。その変化に、ユエが、ついてこられなかった。


魯が、席を立ちながら言った。

「……面白かった」

「光志くん。君のあの手、ユエが一番、理解していると思うよ。」

「え?」

「今の君たちは、噛み合ってなかった。でも、あの一手は、面白かったよ」

そして、彼はユエに向き直る。

「ユエ、お前、前より表情が柔らかくなったな。そういう囲碁も、悪くないんじゃないか?」

「途中で、碁が息をした」

沈星も、頷く。

そう言い残して、彼らは去っていった。

ユエは、何も言わない。ただ、盤面を見つめている。悔しさでも、怒りでもない。もっと、深いところで。


帰り道。バス停のベンチに二人で並んで座る。

「……あのとき、どうして、あの手を?」

ユエが、ぽつりと尋ねた。

「え? なんとなく、っていうか……AIなら絶対打たないけど、“面白そうだな”って思って」

「……」

「怒ってる?」

「……ううん。私、あなたの囲碁が“つまらなくなった”って思ってた。でもあなたの……」

そこでユエは、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。


"つまらない囲碁を打つようになってたのは……私の方だったかも……"


ユエは少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。

光志は、笑いながら言った。

「ユエさ、今、俺の事“好き”って言おうとした?」

「はぁ?言ってない。まだ“嫌いじゃないけど”の段階」

「だって、顔が赤くなっているから……なるほど、なるほど……昇段には程遠いな」

「あなたには、もう少し努力が必要!」


半目の敗北。

それは、強くなろうとして、何かを削り、それでも、まだ足りなかった、その証だった。成長は、確かにあった。でも、その代償も、はっきりと、そこに残っていた。

囲碁の実力も、感情も、きっとまだ噛み合ってない。けれど、同じ十九路盤に座り、打ちたいと思える。そんな気持ちが、ふたりのあいだに、生まれはじめていた。

――次に進むためには、まだ、越えなければならない何かがある。十九路盤は、そう、黙って告げていた。



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