第十二局|再会と敗北
決勝は、会場の中央に置かれていた。周囲より一段だけ明るい照明。自然と、人の輪ができている。得点表の端に、小さく「コミ六目半」と記されていた。条件は公平。黒番の先手有利も、すでに計算に入っている。
――それでも、この一局は、ここまでで一番、重かった。相手は、地元の強豪ペア。派手さはないが、堅実で、崩れにくい。
盤の前に座り、石を握る。黒番は、僕だ。試合は、静かに始まった。
序盤は、悪くなかった。ユエの一手一手は明確で、迷いがない。
――分かっている。今、彼女が何を狙っているか。そう思った。
中盤。その“分かったつもり”が、ズレを生んだ。本来なら、ユエが次に広げるはずの方向。そこに、僕は先に手を入れてしまった。AIで何度も見た、安全で、効率的な形。
――違う。置いた瞬間、分かった。
盤の流れが、わずかに歪む。一瞬、会場の音が遠のいた。でも。ユエは、何も言わなかった。
表情も、変えない。ただ、その歪みを、無理なく包むような一手を置く。
派手じゃない。美しくもない。勝つためだけの、静かなカバー。
終局。数え終えた盤面は、ぎりぎり、こちらに傾いていた。
勝利。拍手が起こる。実績が、一つ、できた。岩田先生が、ほっとした顔で頷いている。でもユエは、笑わなかった。
控室に戻っても、言葉は少ない。
「……さっきの一手、ごめん」
「別に」
即答だった。けれど、その声は、冷たく、何かを否定している。
「ミスしたことじゃない」
ユエは、盤を見ずに言う。
「つまらなかった」
――勝ったのに、胸の奥が、きしんだ。
そのとき、主催者が、控室に顔を出した。
「よかったら、このあと……エキシビション、お願いできませんか」
後ろに、二人の人影があった。
「まさか来るとは思わなかった……」
ユエの視線その先――そこには、スーツ姿の大人に囲まれながら、どこか余裕を纏ったペアが入場してきた。
魯凰。
沈星。
場の空気が、変わる。
彼らは、今日の大会出場者とは別枠で主催が、目玉として招いた中国の強豪ペアだ。交通費も、滞在費も、主催持ち。地方大会にしては、破格の扱いだ。
沈星が、ユエを見て、目を細めた。
「……好久不见」(……久しぶり)
ユエの指が、わずかに震える。魯凰は、懐かしむように言った。
「没想到……你竟然会出现在“这种地方”」
(まさか……君が、"こんなところ"にいるなんて)
「听说你中途退出了中国棋院的中学部……」
(中国棋院の中等部、途中で抜けたって聞いてたけど)
「……只是偶然。没什么。你是来旅游的吧?」
(……たまたま。別に。あなたは、観光でしょ?)
「哈哈哈,日本的地方比赛。正好用来打发时间」
(はははぁ、日本の地方大会。暇つぶしにはちょうどいいよ)
ユエの拳が、わずかに震えた。
沈 星は、笑みを浮かべながら言う。
「你竟然在这种地方比赛。以前,你可是瞄准更高目标的呢……」
(あなたがこんなところで試合してるなんて。昔は、もっと上を目指してたのにね……)
(中国棋院的中学部?)
ユエの過去が、輪郭を持った瞬間だった。
光志が思わず口を挟んだ。
「なんか会話が失礼な雰囲気に聞こえるんですが?」
魯は、ちらりと光志を見て、興味なさそうに言った。
「你,是她的伴侣?嗯……好吧,加油」
(君、彼女のパートナー? ふうん……まあ、がんばって)
その言い方は、雰囲気からして「勝負にならない」と言っているようだ。
ユエは言い返さなかった。――かつて、自分自身も同じように思っていたからだ。
値踏みする目。悪意はない。でも、遠慮もない。
同じ十九路の前に立っているのに、立っている場所が、違う。勝ち続けてきた人たち。勝つことだけを、選び続けてきた人たち。
そして、僕。実績は、できた。でも、胸の奥で、何かが、ざらついている。
ユエは、何も言わず、盤の前に座った。
――これは、試合じゃない。過去と現在が、ぶつかるための、一局だ。そのことだけが、はっきりと、分かった。
エキシビションマッチは、淡々と始まった。勝敗は、公式記録に残らない。拍手も、賞状も、ない。それでも。盤の前に座った瞬間、空気だけは、決勝よりも重くなった。
コミは、六目半。条件は、同じ。逃げ道は、ない。盤を挟んで、再会と対峙が交差する。
序盤。
僕は、無難な囲碁を打っていた。AIと打ち続けて身についた、形の整った配置。損をしない選択。評価値が下がらない手。ユエも、淡々と応じる。感情を挟まない。過不足のない一手一手。盤面は、静かに進んでいく。
相手は隙のない布石を展開してきた。ユエは対応するが、ほんのわずかな“読みの深さ”の差が、じわじわと効いてくる。
――気づけば、少しずつ、こちらの地が、削られている。じわじわと。本当に、じわじわと。
派手な失敗は、ない。致命的なミスも、ない。それなのに、盤面は、確実に相手に寄っていく。
光志も喰らいつくが、相手はプロを目指すレベル。形勢は徐々に傾いていく。
(……差が、開いてる)
中盤。
ユエの石が、ほんのわずか、重くなった。読みが遅れたわけじゃない。手が悪いわけでもない。
でも。石に、勢いがない。そのことに、僕より先に、相手が気づいた。
「……前より、丸くなったね」
魯凰の声は、軽かった。沈星も、何も言わずに頷く。
「悪くはない。でも」
「ユエ、あなたこんな碁、打つ人じゃなかった」
その一言で、ユエの手が、止まった。ほんの一瞬。でも、確かに。
ユエは静かに思った。自分が日本に来る直前までは、魯とは互角だったはず。だが、今は違う。どこかで“伸び悩んでいる”自分に気づいていた。
(日本では、ここでは、自分は、もう成長できないんじゃないか、と。やっぱり、日本に来たことは間違いだった――?)
盤面を見つめるユエの横顔が、どこか、遠くなる。読みの中から、闘志が、抜け落ちていく。
このまま、静かに負ける。そんな気配が、はっきりと、漂った。
自分の一手じゃない一手。でも、この形の責任は、自分にもある。
――ペア碁は、ひとりの碁じゃない。だからこそ、逃げ場がない。
そして僕は、やめた。無難な囲碁を。評価値を。正解を。損をしない一手を。――ここしかない。
「打つよ」
光志は、ぽつりと言った。
盤の中央――白と黒がもつれ合った、そのわずかな隙間。
一見すれば、どちらにも繋がらず、ただ切り離されるだけの場所。
そこへ、石が滑り込むように置かれた。
両側から挟まれる危険地帯。
普通なら、守るか、外へ逃げる。
そのどちらでもなく――あえて中に踏み込む“切り”。
一手で、形がほどけ、ばらばらだった石同士に、かすかな呼吸が通る。
だが同時に、自分から薄くなる手でもあった。AIなら、まず選ばない。
それでも――盤面全体を巻き込んで、生き筋をこじ開ける一手。
石を置いた瞬間、空気が、変わった。
「……それ、打つ?」
沈星が、初めて声を上げる。魯凰も、目を細めた。審判席にいた棋譜取りの老人が、筆を止めた。周囲もざわつく。
(なんで……そこで、その手?)
(え、なんとなく?)
(“なんとなく”でそんな手、打つな)
ユエが困惑をにじませながら見つめる。光志は、照れ笑いを浮かべた。――でも。少なくとも、この碁は、生き返った。ユエが、僕を見る。一瞬だけ。
盤面が、歪む。
秩序が、崩れる。
賭けだ。
しかし――その後のユエは、わずかに乗り遅れた。調子を合わせきれず、細かい読み違いが出た。さっきまでの“無難な碁”と、急に切り替わった“変な碁”。その落差に、ユエの判断が、半拍遅れた。それを相手は、逃さない。
終盤。盤面は、再び、収束していく。
「……数えよう」
静かな声。結果は。白、六目半勝ち。半目。ほんの、半目。
「……ごめん、僕がミスった」
「……違う。むしろ、私が……」
負けた理由は、はっきりしていた。途中まで、僕が、無難すぎた。途中から、僕が、急すぎた。
そして。その変化に、ユエが、ついてこられなかった。
魯が、席を立ちながら言った。
「……面白かった」
「光志くん。君のあの手、ユエが一番、理解していると思うよ。」
「え?」
「今の君たちは、噛み合ってなかった。でも、あの一手は、面白かったよ」
そして、彼はユエに向き直る。
「ユエ、お前、前より表情が柔らかくなったな。そういう囲碁も、悪くないんじゃないか?」
「途中で、碁が息をした」
沈星も、頷く。
そう言い残して、彼らは去っていった。
ユエは、何も言わない。ただ、盤面を見つめている。悔しさでも、怒りでもない。もっと、深いところで。
帰り道。バス停のベンチに二人で並んで座る。
「……あのとき、どうして、あの手を?」
ユエが、ぽつりと尋ねた。
「え? なんとなく、っていうか……AIなら絶対打たないけど、“面白そうだな”って思って」
「……」
「怒ってる?」
「……ううん。私、あなたの囲碁が“つまらなくなった”って思ってた。でもあなたの……」
そこでユエは、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。
"つまらない囲碁を打つようになってたのは……私の方だったかも……"
ユエは少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。
光志は、笑いながら言った。
「ユエさ、今、俺の事“好き”って言おうとした?」
「はぁ?言ってない。まだ“嫌いじゃないけど”の段階」
「だって、顔が赤くなっているから……なるほど、なるほど……昇段には程遠いな」
「あなたには、もう少し努力が必要!」
半目の敗北。
それは、強くなろうとして、何かを削り、それでも、まだ足りなかった、その証だった。成長は、確かにあった。でも、その代償も、はっきりと、そこに残っていた。
囲碁の実力も、感情も、きっとまだ噛み合ってない。けれど、同じ十九路盤に座り、打ちたいと思える。そんな気持ちが、ふたりのあいだに、生まれはじめていた。
――次に進むためには、まだ、越えなければならない何かがある。十九路盤は、そう、黙って告げていた。




