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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十三局|敗北の余韻

大会が終わって、数日が過ぎた。

囲碁部の部室は、開いていた。鍵は、いつも通り、岩田先生の机の引き出しにあった。

でも、碁盤は、置いたまま。石も、並べられないまま。誰もが、次の一手を打たないまま。


ユエは、ほとんど話さなくなった。挨拶はする。必要な言葉は、口にする。

……でも、それ以上はない。

昼休み、彼女は窓際の席で、本を読んでいる。ページをめくる指の動きは、相変わらず正確だ。

しかし感情が、挟まっていない。あの対局のあと、彼女は一度も、囲碁の話をしない。

――半目。

その差を、彼女がどう受け止めているのか、分からない。分からないまま、時間だけが、過ぎていく中、僕は、打っていた。ひとりで。

碁脳を起動して、同じ設定で、同じレベルで。勝率は、安定している。評価値も、悪くない。数字の上では、何も失っていない。なのに、打ち終わったあと、盤面を見ても、何も、残らないのは何故だ。


「あの一手は、正しかったのか?」

考える前に、AIが答えを出す。

「最善です」

「勝率、五十三・二パーセント」

それ以上でも、それ以下でもない。


半目の負けは、修正済みのログの中で、なかったことになっていた。AIのように、勝率だけを追い求めた自分。気づけば、囲碁が“作業”になっていた、それが、どうしようもなく、気持ち悪かった。

放課後。部室に行くと、ユエが、ひとりで座っていた。碁盤の前。でも、石は、持っていない。盤面を見ているだけ。話しかけようとして、やめた。今は何を言っても、軽くなりそうだった。


***


あの一手――光志が打った奇抜な一手が、脳裏に焼きついて離れない。自分のほうが経験もある。読みの深さも精度も、高かったはず。なのに、あの瞬間、自分は光志に引っ張られた。でも合わせられなかった。


***


先に口を開いたのは、ユエの方だった。

「……あの一手」

声は、低かった。

「ついていけなかった」

謝罪ではない。言い訳でもない。事実の確認。

「……私の方が、つまらない碁を打ってた」

僕は、答えられなかった。僕も、あの一手を、後悔していたから。

勝てたかもしれない。でも、勝てなかった。打たなければ、もっと、きれいに負けられたかもしれない。どちらが、正しかったのか。誰にも、分からない。ただ、確かに言えることがある。

あの碁は、途中で、生きた。そして、それを、生かしきれなかった。それぞれが、言葉にしないまま、同じ後悔を、抱えていた。


数日後。

「一局、打とう」

その言葉は、思っていたよりも、普通に出た。

放課後の部室。窓は開いていて、春の風が、カーテンを揺らしている。ユエは、少しだけ驚いた顔をした。


「今さら何よ」

「……いや、ちゃんと勝負したこと、ないなって思って」

「ペアじゃダメだったの?」

「ペアじゃ見えない事がある。対局でユエの本気が見てみたい。俺も、俺の全部でぶつかってみたい」

ユエはしばらく黙っていたが、立ち上がって盤に向き合った。

「……AIなし?」

「うん」

それだけで、彼女は、すべてを理解したようだった。

「……いいわ。全部、見せてあげる」


碁盤を挟んで、向かい合う。今日は、ペアじゃない。部活でもない。大会でもない。ただの、対局練習。コミも、設定しない。条件も、決めない。

勝ちたいとも、負けたいとも、思っていない。ただ。ちゃんと、打ちたかった。


序盤。僕は、いつもより、ゆっくりと打った。

評価値を、思い浮かべない。次の一手に、AIと対局練習を想像しない。

盤面の、息遣いを感じる。ユエの石は、相変わらず正確だ。無駄がない。筋が通っている。でも、どこか、柔らかく、以前よりも、「勝ちに行く」圧が、感じられない。

しばらくは無言だったが、盤面が中盤に差し掛かった頃、光志がぽつりと呟いた。

「ユエ……勝ちたいか?」

「当然よ。勝つことがすべてじゃないの?」

「俺、最近思うんだ。囲碁って……何かを得るための道具じゃなくて、問いかけみたいなものなんじゃないかって」

「問いかけ?」

「うん、自分自身に、そして対局相手に。俺は、AIで読みの力をつけたけど、なんか囲碁が遠くなった気もしたんだ」


中盤。盤面が、複雑になる。

読み合い。

駆け引き。

石の強弱。

言葉はないのに、盤上では、会話が続いていた。


――そこは、打たない。

――なら、ここで待つ。

――そう来るなら、受ける。

石と石が、問いかけて、応えて、すれ違っていく。石が盤に置かれ、静かな時間が流れる。


「……私も似たようなこと、思ってた」

ユエは次の一手を、少し間を置いて打つ。

「勝つために、精度ばかり求めた。形の美しさとか、創造性とか……そんなのは弱者の戯れだと思ってた。でも、それを捨てたら、囲碁の世界が灰色になってきた」

「俺は逆で、楽しさだけを追ってた。でも、AIを通して精度に触れて、それもまた美しいと気づいた」

「……互いに足りなかったのね」

「そう。でも今は……少しだけ、わかる気がする。囲碁って、考え続けることそのものが、意味なんじゃないかって」

ユエの石が盤に落ちる。

「うん。考え続け、創造し続ける……そこにこそ、成長があるのかもね」


終盤。勝敗は、もう、どうでもよくなっていた。盤面は、少し歪んでいる。完璧ではない。

でも、不思議と、気持ちが、澄んでいた。

最後の一手をそっと盤に預け、僕は静かに息を吐いた。

形勢は――たぶん、こちらが少し足りない。けれど、数を数える気にはならなかった。

「……面白かった」

ユエが、先に言った。

それは、大会のときに、魯凰から言われた言葉とは違う重みが、あった。

「勝ち負けじゃ、ないね」

僕も、頷く。

「うん」


この一局で、確かに、何かが、混ざった。ユエの、勝利至上の美意識。僕の、自由な探索。どちらかを、捨てるんじゃない。どちらかに、寄るんでもない。盤面の上で、何かが、重なった。

この一局は、確かに、これまでで、いちばん前に進んでいた。――思想は、盤上での対話の中で、静かに、溶け合い始めていた。



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