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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十四局|新顧問・長嶺誠

その知らせは、昼休みに、さらっと流れてきた。

「囲碁部の顧問、交代になるらしいよ」

誰が言い出したのかは、覚えていない。ただ、その一言だけが、耳に留まった。

岩田先生は、もうすぐ定年だ。分かってはいたことなのに、いざ現実になると、部室の空気が、少し薄くなる気がした。


放課後。部室に行くと、見慣れない男が、碁盤の前に立っていた。座っていない。打ってもいない。ただ、十九路盤を、上から眺めている。

年齢は、三十代後半か、四十代前半。スーツでも、ジャージでもない。学校の職員というより、どこか、校外の人に近い服装。姿勢は、少しだらけている。でも、視線だけは、落ち着いていた。

その男は碁笥の蓋を、そっと指で叩く。

コン。

軽い音。

「これ、どっちが強いんだっけ」

白と黒の石を、指でつまみ上げる。

「……黒が先です」

「あ、そっか」

それだけで、囲碁を知らないことが、はっきり分かった。

ユエが、少し遅れて部室に入ってくる。男は、ちらりと一度だけ見る。そして、すぐ、盤面に視線を戻した。

「二人部活?」

「はい」

「囲碁って、見てると、分かることが多いって言うよね」

碁盤を指さす。

「これ、陣取りでしょ?」

「はい」

「で、ここに石が密集してる」

「たぶん、争ってる」

推測は、雑だ。でも、外れてはいない。

「で、これ」

盤の縁を、指でなぞる。

「擦れてない」

「……はい?」

「よく使う人がいると、このへん、もっと丸くなる」

囲碁の知識はない。でも、物を見る目は、妙に正確だった。

「囲碁ってさ」

男は、椅子に腰かけて、背もたれに体重を預ける。

「正直、よく分からないんだよね」

ユエが、わずかに眉を動かした。

「ルールも、勝ち方も、説明されると、面倒そう」

「でも」

盤面を見る。

「ここに石を置くと、空気が変わるのは、分かる」

言い方が、囲碁のそれではなかった。

「楽しくやろうとすると、強くなれない感じ」

「強くなろうとすると、楽しさが減る感じ」

「たぶん、他の競技も、同じ」

囲碁を知らない人の言葉なのに、核心だけを、掠めていく。

「で、最近は、AIがあるんでしょ?」

その一言で、空気が、少し張る。

「正解、教えてくれるやつ」

「便利だよね。めちゃくちゃ」

笑う。

「でも、それで辞める人、山ほど見てきた」

どこで?とは、聞かなかった。その言葉だけが、場に、静かに沈んだ。

「もしかして、新しい顧問の先生ですか?」

「えーと……こんにちは。囲碁は……ちょっと、ルールもよくわかりませんが……とりあえず“長嶺”と言います。よろしくお願いいたします。」

「先生、囲碁やるんですか?」

僕が聞くと、即座に首を振った。

「無理無理」

「向いてない」

即答だった。

「囲碁を、囲碁として見ない大人」

ユエが、ぽつりと言った。

「……変な人」

「うん」

否定できなかった。光志とユエは、ちらりと視線を交わす。

(……この人が次の顧問かぁ……未来は白紙、いや、無地かも)

どちらからともなく、同時にため息が漏れた。


囲碁部に、新しい顧問がやってきた。長嶺ながみね まこと。理科全般担当。40代。眼鏡の奥の目は弱々しく、ワイシャツの襟は曲がっている。

でも盤面に、新しい視線が、置かれた気がした。AIでもない。中国でも、日本でもない。普通の顧問ともちょっと違う囲碁を知らない、大人と言う異分子。十九路盤の上で、また、風向きが、静かに、変わり始めていた。



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