第十五局|変わるAI
岩田先生の定年は、思っていたより、静かだった。
「じゃ、あとはよろしく」
最後の日も、いつもの眠そうな声で、いつものように言って、職員室を出ていった。
長嶺先生――光志は「ナガメン先生」、ユエはこっそり「ポン顧問」と呼ぶようになった。その新任教師は、囲碁に関しては見事なほど無知だったが、AIに関しては異様なほどの好奇心を示していた。
「へえ、これが囲碁部で使ってるAIですか。ちょっとソース、見せてもらっても?」
「え? 勝手にいじらないでくださいよ」
「いやいや、壊したりしないし……ほんの少し、好奇心でね」
ノートPCを覗き込みながら、画面を指でなぞる。
「説明ログ、ちょっと味気なさすぎない?」
「……囲碁AIですから」
「でも、人が使うんでしょ?」
その理屈は、妙に、通っていた。
長嶺先生は、プログラマーではない。でも、仕組みを理解するのは、早かった。
「評価値の根拠、文章化できるよね」
「候補手の理由、数字だけじゃなくて、言葉にしてみたら?」
「対局の流れ、まとめて“感想”っぽくしてもいい?」
囲碁の中身には、踏み込まない。でも、囲碁を見る“視点”には、どんどん手を入れていった。
最初は、ただの改良だった。
「この局面は、地合いが拮抗しています」
そんな一文が、ログに追加される。
次に。
「ここは、読みの分岐点です」
さらに。
「この一手は、流れを変える可能性があります」
どれも、間違ってはいない。ただ。囲碁AIが、語り始めている。
ある日。部室で、碁脳を起動した。
「こんにちは。囲碁AI“碁脳”です」
声は、以前と同じ。
でも、間が、あった。
「……?」
ユエも、わずかに顔を上げる。
「今日の盤面、少し楽しみです」
画面に表示された文章。僕とユエは、同時に黙った。
「……こんなログ、前あった?」
「ない」
「なんか……このAI、人間っぽくなってない?」
「たぶん、ポン顧問の仕業ね」
長嶺先生は、悪びれもせず言った。
「入れましたよ」
「入れたって……」
「囲碁の内容じゃないよ」
先生は、キーボードを叩きながら続ける。
――「最近、LLMってやつを試していてね。囲碁AIにも少し応用してみました。……ハルシネーションって知ってますか? 正しくないことを、もっともらしく言っちゃう現象。でもね、これって“誤り”だけじゃない。未知の局面での創造性、つまり『今までにない一手』の可能性です。僕は、囲碁は人間の直感と論理がせめぎ合うゲームだと思うんです?でもAIは基本、論理一辺倒。だから、ちょっとだけ“うそ(空想)をつくバグ”を削除せず、逆に拡張してみました。そうすると、不意に出る突飛な一手が、人間の感覚とリンクしやすくなる。もちろん、全部が使える手じゃない。でも、その中に、人間では思いつかない“ひらめき”が紛れてる可能性がある。私は、それを“賢いハルシネーション”って呼んでいます」――
なぜか長嶺は、誇らしげに語る
光志とユエは、その“変わったAI”――光志が「ヒュー坊」、ユエが「幻影ちゃん」と呼び、“第三の部員”と共に、対局を重ねていった。
「先生のAI、今日もまた変な手出してきたよ。三三をカカってる上から小ケイマ……って、何の挨拶?」
「囲碁界のジョーク集に載りそうね」
AIは画面越しにひょっこり文字を出す。
《今のは“新しい風”です。流行らせていきましょう。》
「何様よ」
《囲碁界のトレンドセッターです》
「ほらまた言ってるよ……」と光志が苦笑する。
読み合い、突飛な発想に驚かされ、ときにツッコミを入れつつ無視する。だが、それが新しい発見につながることも多かった。気づけば、二人の碁は、明らかに変わっていた。
かつてのように、勝利だけを追い求めるものでも、ただ楽しいだけのものでもない。
考え、創造し、相手と響き合う。
AIは、変わっていない。アルゴリズムも、評価関数も、根本は、同じだ。変えたのは、人間だ。
岩田先生が去り、長嶺先生が来て、AIに“言葉”を与えた。
それだけ。それだけなのに。十九路盤の向こうに、対話の相手が、生まれかけていた。
――人間とAIの境界は、技術じゃなく、解釈で、揺らぎ始める。そのことを、僕は、まだ、軽く考えていた。
そして春が過ぎ、新学年が始まった。
長嶺――ナガメン先生は、ある日ふと思いついたように言った。
「そういえば、君たち。『囲碁の甲子園』って知ってる? 夏に全国大会があるらしいよ。地方予選は6月だって」
「出ましょう!」と光志が即答し、「えー……またそういう流れ?」とユエが渋い顔でため息をついた。
それでも、二人と一体(?)は、新たな目標へと歩み出した。




