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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―

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第十六局|碁声と応答

六月初旬。地方大会の会場は、地元の文化センターの一室だった。少し強めの空調が、肌にひんやりと触れる。並べられたパイプ椅子は、座るたびに小さく揺れて、どこか落ち着かない。天井の蛍光灯が、静かに瞬いている。

――それでも、碁盤の前に座れば、すべてが遠のく。


「うわ、将棋ブース、また囲碁より席広く取ってるじゃん……」

受付を済ませながら、光志は隣室から聞こえる「王手!」の声に苦笑した。

その隣で、ユエはいつも通りの足取りで歩いている。視線はまっすぐ前へ。手元では、小さなパンダの碁石キーホルダーが、わずかに揺れていた。

「テンション高いね、光志」

「そりゃあな。大会だし。しかも今日はダブルエントリーだぞ」

「……朝から、声が大きい」

そう言いながらも、ユエの口元はほんの少しだけやわらいでいる。

そのとき、タブレットが小さく震えた。


《囲碁の香りがしますね》

「……どんな匂いだよ、それ」

《木と石と、ほんの少しの緊張感です》

「詩人か」

光志の返しに、ユエが小さく息を漏らす。

笑った、というほどでもない。けれど、空気が少しだけ軽くなる。

《ちなみに本日の光志さんの勝率は――》

「聞かない!今日は聞かないって決めてる!」

食い気味に遮ると、ほんの一拍おいてから、返事が来た。

《……いい傾向です》

その言葉は、どこか柔らかかった。以前なら、対局前に評価値を見ていた。自分の立ち位置を、数字で確かめないと落ち着かなかった。けれど今は、違う。盤の前で考えた時間を、信じてみたいと思っている。


午前の部、個人戦。

ユエは淡々と勝ち上がっていった。無駄のない石運び。相手の呼吸を乱さず、それでいて少しずつ形を崩していく。まるで、静かな水が、気づかないうちに地形を変えていくみたいだった。

一方の光志は、初戦から少し違うタイプと当たった。

「気合だ!勝負は気持ちだろ!」

序盤から勢いよく石が飛んでくる。形よりも勢い。読みよりも圧。

――前なら、飲まれていた。

相手のリズムに引きずられて、焦って、崩れて。気づいたときには、取り返しがつかなくなっている。でも、今は少し違う。石を持つ手を、一度止める。呼吸を整える。

(急がなくていい)

頭の中で、誰かの声がした気がした。それが「ヒュー坊」との記憶なのか、自分のものなのかは分からない。ただ、盤面はちゃんとそこにある。相手の石は、確かに勢いがある。でも、そのぶん、少しだけ伸びすぎている。

――なら。


ひとつ、受ける。もうひとつ、つなぐ。

派手ではないけれど、静かな手を重ねていく。気づけば、形は整っていた。

「……あれ?」

相手の手が止まる。そこで初めて、自分が追いついていることに気づく。

終盤、少しだけ踏み込んだ一手。

読み切れているわけじゃない。でも――“いける気がした”。そして、そのまま、押し切った。


「ふぅ……」

終局後、肩の力が抜ける。派手な勝ち方じゃない。でも、ちゃんと“考えて打った碁”だった。

控え室で顔を合わせると、ユエがこちらを見る。

「……まさか勝つとは思わなかった」

「ひどくない!?」

思わず声が裏返る。

「でも」

ユエは少しだけ間を置いて、続けた。

「さっきの碁、嫌いじゃない」

「え?」

「あんた、前より……無理に動かなくなった」

その言葉に、少し驚く。

「粘るっていうか。待てるようになったというか」

「……それ、褒めてる?」

「どう思う?」

わずかに目を細めるユエ。その表情は、いつもより少しだけやわらかく、光志は、なんとなく照れくさくなって、視線を逸らした。


午後、ペア戦。

二人一組で、交互に一手ずつ打つ形式。

「つまり、君が変な手を打ったら、私が直すのね」

「いやいや、そこは“フォローする”って言って?」

「同じ意味でしょ」

「ニュアンス!」

軽口を交わしながらも、盤の前に座ると、空気はすっと変わる。


序盤。少しだけ、噛み合わない。光志が広げた形を、ユエが引き締める。

ユエが狙った筋を、光志が少し外す。けれど、それでも崩れない。

むしろ――どこか、揺らぎながらも続いていく。

《現在の進行、標準的な最適解から外れています》

「はい出た、いつものやつ」

《ですが》

ほんの一拍置いて、続く。

《このズレ方は、嫌いではありません》

「え、珍しくない?」

「AIが“好き”とか言うんだ」

《言語選択の問題です》

《“面白い”に訂正します》

光志とユエは、顔を見合わせる。少しだけ、笑う。


中盤。光志が打った一手に、わずかな隙が生まれる。相手がそこを突いてくる。

――まずい。

そう思った瞬間、手が止まりかける。以前なら、すぐにAI思考で無難な手を考えていた。評価値に答えを求めていた。でも今は。

(ここで考える)


盤を見る。

形を見る。

流れを見る。

そして――思い出す。


何度も「ヒュー坊」や「ユエ」と打って、何度も失敗して、そのたびに言われてきたこと。

“その手は、少し急いでいます”

なら。


ひとつ、待つ。ひとつ、受ける。

その一手を置いたとき、ユエの指が、ほんの一瞬だけ止まった。そして、そのまま自然に続ける。まるで、最初からそういう流れだったみたいに。


(……いいじゃない)

ユエは何も言わない。でも、その内側で、ほんの少しだけ何かが動く。

無理に合わせるのではなく、相手の手を受けて、つないでいく。それは、自分とは少し違う打ち方だった。けれど――悪くない。むしろ、少しだけ、心地いい。


準決勝。

一度だけ、ユエの手がわずかにぶれた。珍しいことだった。

「……やば」

光志が小さくつぶやく。その局面。形は崩れかけている。でも。

(まだ、終わってない)

頭の中に、いくつかの筋が浮かぶ。その中で、一番きれいじゃない手を選ぶ。少し重くて、少し遠回りで。でも、つながる手。


石を置く。

“カチッ。”

その音が、静かに響く。

数手後、流れが変わる。完全じゃない。でも、崩れなかった。

「まぐれ?」

ユエが小さく言う。

「いや」

光志は少しだけ笑った。

「たぶん、覚えてた」

何を、とは言わない。けれど、その言葉で、十分だった。


決勝戦。

大きな波はない。けれど、小さな流れが、何度も行き来する。

ユエの正確な読み。光志の少しだけ自由な一手。それが、ぶつかることなく、重なっていく。

《現在の進行、依然として非効率です》

《ですが――》

《継続観察を推奨します》

「ちょっと丸くなってない?」

「ね」


終局。

盤面は、わずかにこちらへ傾いていた。大差ではない。でも、確かな勝ち。


地方予選を突破。

表彰式のあと。賞状を受け取った光志は、ユエの方を振り向く。

「これで、全国大会だな!」

親指を立てる。

ユエは一度だけ視線を外してから、少しだけ頷いた。

「……ま、悪くない」

その声は、いつもと変わらない。でも、その奥で、ほんの少しだけ、何かが揺れているのを感じた。

光志の打ち方は、少しずつ変わってきている。AIに寄りかかるでもなく、ただ離れるでもなく。自分で考えて、選んでいる。

(……少しだけ)

ほんの少しだけ。

(負けたくない、かも)

誰にも聞こえないくらいの、小さな感情。

そのとき、タブレットが震える。

《総括》

《非論理的な選択が複数確認されました》

《しかし》

《全体としては、良好な結果です》

「どっちだよ」

「褒めてるの、それ」

《……両方です》

その返答に、二人は同時に息を漏らした。

笑ったのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。ただ、確かなことがひとつだけある。

盤の上で交わされたものは、まだ言葉にならないまま、ちゃんと残っている。

――碁石の音と一緒に。



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