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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第二章:―交差する十九路、揺れる最善―
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第十七局|打てなかった別れの一局

六月下旬。雨は降っていないのに、空気だけが湿っている。窓の外は白くにじんでいて、廊下の床はどこか重たい光を返していた。放課後。囲碁部の部室には、珍しく軽やかな音が響いていた。


“キュッ、キュッ。”

ホワイトボードにマーカーが走る音。

「よし……!」

光志は一歩下がって、それを眺める。


――囲碁甲子園まで、あと15日!!

少し大きすぎる文字。少し曲がった矢印。それでも、今の自分の気分にはちょうどよかった。

「ユエ、今度の週末さ」

振り返りながら、言葉を続ける。

「午前・午後・夜で三連戦いこう。実戦形式で。幻影ちゃんも付き合ってくれるって――」

そこまで言って、言葉が止まる。部室には、誰もいなかった。机の上に置かれた碁盤も、椅子も、全部、少しだけ静かすぎる。

――あれ?

違和感は、小さなものだった。ただ、その小ささが、かえって気になった。


数日後。

「林さん、中国に帰国するそうですよ」

長嶺先生の声は、いつも通りやわらかかった。

「親御さんの都合もあるようですが……それと」

少しだけ、言葉を選ぶように間を置いてから続ける。

「中国ナショナルチームの、強化選手に選ばれたみたいですねぇ」

その言葉は、驚くほど静かに耳に届いた。理解するまでに、少し時間がかかる。

「……強化選手、って」

「ええ。すごいことですよ」

すごいこと。たしかに、そうだと思う。むしろ、当然かもしれない。ユエの実力なら、どこに行っても通用する。それでも。胸のどこかが、少しだけ、置いていかれるような感じがした。

その日の夕方。部室には、またひとりだった。

碁盤の上に石を並べる。置いては、戻し。また置いて、少し考えて、戻す。形にならない。

集中しようとしても、どこかで途切れる。タブレットの画面が、やわらかく光った。


《光志さん》

「……なんだよ、幻影ちゃん」

《現在、思考が盤外に逸れています》

「……分かってるよ」

《では、提案です》

少し間を置いてから、続く。

《青春の最終電車、まもなく発車です》

「またそれか」

《乗車するかどうかは、乗客の自由です》

《ただし、次の便は未定となっております》

思わず、小さく息が漏れる。

「……行けってことだろ」

《強制ではありません》

《ですが、後悔のログは長く残ります》

少しだけ、間が空く。

その間に、いくつかの言葉が浮かんでは消えた。

「……わかったよ」

立ち上がる。迷いがなくなったわけじゃない。でも、止まっているよりはいい気がした。


公園のベンチ。

雨は降っていないのに、空気はしっとりしている。

街灯の下、キャリーケースの取っ手に、見慣れたパンダのキーホルダーが揺れていた。

ユエは、静かに座っていた。


「……見送り、禁止とかじゃなかったの?」

少しだけ軽く言ってみる。

ユエは目を開けて、こちらを見る。

「来たんだ」

「まあな。……ちょっと、背中押されて」

「AIに?」

「うん。妙に詩人だった」

小さな沈黙。風が、ゆっくりと通り過ぎる。

「なんで、言わなかったんだよ」

問いかける声は、思ったよりも静かだった。

ユエは少しだけ視線を落とす。

「言ったら、なんか……変わりそうだったから」

「変わるだろ、そりゃ」

「そういう意味じゃなくて」

言葉を探すように、少しだけ間が空く。

「今のまま、でいたかったの」

その一言が、思ったよりも重く残る。

「……それに」

ユエは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

「あんた、絶対うるさくなるでしょ」

「否定できない」

「でしょ」

ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。でも、それは長く続かない。

「戻るの、嫌なのか?」

光志は、少し迷ってから聞いた。

ユエは、首を横に振る。

「ううん。むしろ、楽しみ」

その声は、はっきりしていた。

「もっと強くなれる場所だから」

少しだけ、視線が遠くを見る。

「でもね」

そこで、言葉がやわらかくなる。

「ここで思い出したこともある」

「……どんな?」

「囲碁って、勝ち負けだけじゃないってこと」

静かに続ける。

「うまく言えないけど……打ってる時間、そのものに意味があるっていうか」

その言葉を聞いて、光志は少しだけ笑った。

「それ、先生も似たこと言ってた」

「でしょ?」

ユエも、ほんの少しだけ笑う。

「……あんたの打ち方も、ちょっと変わったし」

「そうか?」

「前より、自分の打ち筋でも、ちゃんと待てるようになった」

少しだけ間を置いて。

「嫌いじゃない」

その言葉が、思った以上に嬉しくて、でも同時に、少しだけ寂しかった。

光志はポケットから、小さなキーホルダーを取り出す。少し色あせた、緑のパンダ。

「これ、昔のやつ。だいぶくたびれてるけど」

ユエはそれを見て、目を細める。

「……何これ。顔、ちょっと潰れてる」

「長く一緒だったからな」

「ふーん」

ユエは自分のバッグから、自分のレアパンダを外した。

少し新しい、限定デザイン。

「じゃあ、交換」

「え?」

「あんたの、それ……なんか放っておけないし」

「ひどくない?」

「責任持って預かってよね」

そう言って差し出される。

光志はそれを受け取って、胸ポケットにしまった。

「……再戦まで、大事にする」

「うん」

短い返事。それだけで、十分だった。

ユエは立ち上がる。キャリーケースの音が、静かに響く。

少し歩いて、ほんの一瞬だけ立ち止まる。振り返らないまま、言った。

「……全国、ちゃんと生きなさいよ」

「当たり前だろ」

「負けたら、笑うから」

「やめろ、それ一番効くやつ」

小さく息を漏らす音。それが笑いなのかどうかは、分からない。

そのまま、ユエは歩き出す。

(……少しだけ)

心の中で、言葉が浮かぶ。

(ほんの少しだけ、心残りかも)

でも、その続きを言葉にすることはなかった。


その夜。タブレットに、短いメッセージが残っていた。

《総括》

《本局、未対局》

「当たり前だろ」

《ですが》

《最も記憶に残る対局のひとつになる可能性があります》

「……打ってないのにか?」

《はい》

少しだけ間を置いて。

《人生の棋譜は、盤上に限りません》

光志は、しばらく画面を見つめてから、小さく笑った。


そして迎えた全国大会当日。東京の空は、少しだけ高かった。

会場の前で、光志は立ち止まる。胸ポケットの中で、小さな重みを感じる。

深く息を吸う。


「……よし」

声は大きくない。でも、確かに前を向いている。

扉を押し開ける。その先には、まだ見たことのない盤が、きっと待っている。




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