第十七局|打てなかった別れの一局
六月下旬。雨は降っていないのに、空気だけが湿っている。窓の外は白くにじんでいて、廊下の床はどこか重たい光を返していた。放課後。囲碁部の部室には、珍しく軽やかな音が響いていた。
“キュッ、キュッ。”
ホワイトボードにマーカーが走る音。
「よし……!」
光志は一歩下がって、それを眺める。
――囲碁甲子園まで、あと15日!!
少し大きすぎる文字。少し曲がった矢印。それでも、今の自分の気分にはちょうどよかった。
「ユエ、今度の週末さ」
振り返りながら、言葉を続ける。
「午前・午後・夜で三連戦いこう。実戦形式で。幻影ちゃんも付き合ってくれるって――」
そこまで言って、言葉が止まる。部室には、誰もいなかった。机の上に置かれた碁盤も、椅子も、全部、少しだけ静かすぎる。
――あれ?
違和感は、小さなものだった。ただ、その小ささが、かえって気になった。
数日後。
「林さん、中国に帰国するそうですよ」
長嶺先生の声は、いつも通りやわらかかった。
「親御さんの都合もあるようですが……それと」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置いてから続ける。
「中国ナショナルチームの、強化選手に選ばれたみたいですねぇ」
その言葉は、驚くほど静かに耳に届いた。理解するまでに、少し時間がかかる。
「……強化選手、って」
「ええ。すごいことですよ」
すごいこと。たしかに、そうだと思う。むしろ、当然かもしれない。ユエの実力なら、どこに行っても通用する。それでも。胸のどこかが、少しだけ、置いていかれるような感じがした。
その日の夕方。部室には、またひとりだった。
碁盤の上に石を並べる。置いては、戻し。また置いて、少し考えて、戻す。形にならない。
集中しようとしても、どこかで途切れる。タブレットの画面が、やわらかく光った。
《光志さん》
「……なんだよ、幻影ちゃん」
《現在、思考が盤外に逸れています》
「……分かってるよ」
《では、提案です》
少し間を置いてから、続く。
《青春の最終電車、まもなく発車です》
「またそれか」
《乗車するかどうかは、乗客の自由です》
《ただし、次の便は未定となっております》
思わず、小さく息が漏れる。
「……行けってことだろ」
《強制ではありません》
《ですが、後悔のログは長く残ります》
少しだけ、間が空く。
その間に、いくつかの言葉が浮かんでは消えた。
「……わかったよ」
立ち上がる。迷いがなくなったわけじゃない。でも、止まっているよりはいい気がした。
公園のベンチ。
雨は降っていないのに、空気はしっとりしている。
街灯の下、キャリーケースの取っ手に、見慣れたパンダのキーホルダーが揺れていた。
ユエは、静かに座っていた。
「……見送り、禁止とかじゃなかったの?」
少しだけ軽く言ってみる。
ユエは目を開けて、こちらを見る。
「来たんだ」
「まあな。……ちょっと、背中押されて」
「AIに?」
「うん。妙に詩人だった」
小さな沈黙。風が、ゆっくりと通り過ぎる。
「なんで、言わなかったんだよ」
問いかける声は、思ったよりも静かだった。
ユエは少しだけ視線を落とす。
「言ったら、なんか……変わりそうだったから」
「変わるだろ、そりゃ」
「そういう意味じゃなくて」
言葉を探すように、少しだけ間が空く。
「今のまま、でいたかったの」
その一言が、思ったよりも重く残る。
「……それに」
ユエは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「あんた、絶対うるさくなるでしょ」
「否定できない」
「でしょ」
ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。でも、それは長く続かない。
「戻るの、嫌なのか?」
光志は、少し迷ってから聞いた。
ユエは、首を横に振る。
「ううん。むしろ、楽しみ」
その声は、はっきりしていた。
「もっと強くなれる場所だから」
少しだけ、視線が遠くを見る。
「でもね」
そこで、言葉がやわらかくなる。
「ここで思い出したこともある」
「……どんな?」
「囲碁って、勝ち負けだけじゃないってこと」
静かに続ける。
「うまく言えないけど……打ってる時間、そのものに意味があるっていうか」
その言葉を聞いて、光志は少しだけ笑った。
「それ、先生も似たこと言ってた」
「でしょ?」
ユエも、ほんの少しだけ笑う。
「……あんたの打ち方も、ちょっと変わったし」
「そうか?」
「前より、自分の打ち筋でも、ちゃんと待てるようになった」
少しだけ間を置いて。
「嫌いじゃない」
その言葉が、思った以上に嬉しくて、でも同時に、少しだけ寂しかった。
光志はポケットから、小さなキーホルダーを取り出す。少し色あせた、緑のパンダ。
「これ、昔のやつ。だいぶくたびれてるけど」
ユエはそれを見て、目を細める。
「……何これ。顔、ちょっと潰れてる」
「長く一緒だったからな」
「ふーん」
ユエは自分のバッグから、自分のレアパンダを外した。
少し新しい、限定デザイン。
「じゃあ、交換」
「え?」
「あんたの、それ……なんか放っておけないし」
「ひどくない?」
「責任持って預かってよね」
そう言って差し出される。
光志はそれを受け取って、胸ポケットにしまった。
「……再戦まで、大事にする」
「うん」
短い返事。それだけで、十分だった。
ユエは立ち上がる。キャリーケースの音が、静かに響く。
少し歩いて、ほんの一瞬だけ立ち止まる。振り返らないまま、言った。
「……全国、ちゃんと生きなさいよ」
「当たり前だろ」
「負けたら、笑うから」
「やめろ、それ一番効くやつ」
小さく息を漏らす音。それが笑いなのかどうかは、分からない。
そのまま、ユエは歩き出す。
(……少しだけ)
心の中で、言葉が浮かぶ。
(ほんの少しだけ、心残りかも)
でも、その続きを言葉にすることはなかった。
その夜。タブレットに、短いメッセージが残っていた。
《総括》
《本局、未対局》
「当たり前だろ」
《ですが》
《最も記憶に残る対局のひとつになる可能性があります》
「……打ってないのにか?」
《はい》
少しだけ間を置いて。
《人生の棋譜は、盤上に限りません》
光志は、しばらく画面を見つめてから、小さく笑った。
そして迎えた全国大会当日。東京の空は、少しだけ高かった。
会場の前で、光志は立ち止まる。胸ポケットの中で、小さな重みを感じる。
深く息を吸う。
「……よし」
声は大きくない。でも、確かに前を向いている。
扉を押し開ける。その先には、まだ見たことのない盤が、きっと待っている。




