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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第七局|囲碁部、再始動 ―十九路に、風が通る―

遂に囲碁部に「最大の危機」がやってきた。と言うには、少し大げさかもしれない。

正確には、「存続の危機」


――それは、放課後の職員室だった。

「囲碁部? ああ、名前は確かに残ってるね」

岩田先生は、生物の教師だ。年齢は六十手前。もうすぐ定年を迎える。背筋は少し丸く、声も低い。どのクラスからも「怒らない」「放っておくと寝ている」と評されているが、それは長年、学校という場所に慣れきった人間特有の距離感だった。


「ええと……部員一名、古賀光志。顧問不在」

岩田先生は、老眼鏡をかけ直しながら名簿を確認する。

「活動実績、ほぼなし」

「……はい」

「で、今年度で廃部予定」

感情のこもらない読み上げ方が、逆に胸に来る。

「先生、それ……もう決まってるんですか?」

僕が聞くと、岩田先生は少しだけ考えてから答えた。

「決まってる、というより……流れだね」

「流れ?」

「部員がいない部は、自然に消える。それだけ」

それは、長く勤めた人の冷めた言葉だった。

「でも、活動はしてます」

「うん。君が一人で、ね」

責めている口調じゃない。

「学校はね、個人活動を部活とは呼ばないんだ」

ファイルを閉じる音が、小さく響いた。

「原則は、部員三名以上」

「三名……」

数字が、現実として重い。

「二人じゃ、ダメですか?」

岩田先生は、少しだけ笑った。

「ダメだね。二人だと、片方休んだら終わりだ」

「……?」

「それに、大会にも出られない」

そこは、分かっていた。

「じゃあ」

それでも、僕は食い下がった。

「もし、大会で結果を出したら?」

岩田先生の手が止まる。

「結果?」

「はい。二人でも、公式戦で」

しばらく沈黙。

岩田先生は、椅子にもたれ、天井を見た。

「……君、なかなか引かないね」

「囲碁なので」

「なるほど」

少しだけ、口元が緩んだ。

「分かった。最後に一つ、条件を足そう」

指を三本立てる。

「原則は、部員三名以上」

次に、二本指に戻す。

「ただし、二人でも、県大会出場クラスの実績を残せたら、継続を認める」

「本当ですか?」

「学校は“結果”が好きなんだ」

そして、小さく付け加える。

「……それに、私も、もうすぐ辞めるからね」

「え?」

「定年だよ。大きな改革はできないけど、小さな例外くらいなら、最後に残してもいい」

それは、制度と個人のあいだに生まれた、わずかな隙間だった。

「まずは、仮囲碁部」

「活動は認める。ただし、様子見」

岩田先生は、老眼鏡を外した。

「古賀くん」

「はい」

「続けるなら、本気でやりなさい。途中で消えるのは、囲碁も部活も同じだ。――どちらも、“続ける覚悟”がなければ、形には残らないからね」

その言葉には、長年の教師人生の重みがあった。


――とはいえ、現実はそう簡単じゃない。

「仮囲碁部、ね……」

部室の前で、ユエは腕を組んだまま、プレートを見上げていた。

「部員、一人でしょ?」

「……一応、顧問はいる」

「それ、ほぼ個人活動」

「否定はしない」

沈黙。

廊下の向こうで、運動部の笑い声が弾ける。

「……なんで、そこまでしてやるの?」

ふいに、ユエが聞いた。

少しだけ考えて、光志は言葉を探す。

「たぶん……ここでやめたら、宇宙の果てにたどり着けない気がするんだ」

「宇宙の果て?なにそれ?」

「じいちゃんがさ、昔言ってたんだ。囲碁は宇宙だって。……意味なんて、最初は全然わからなかったけど」

視線を、古びた扉に落とす。

「でも、最近ちょっとだけ見えかけてる気がするんだ。」


ユエは、しばらく何も言わなかった。

そのまま扉に手をかけて、軽く押す。鍵はかかっていない。

ギィ、と古い蝶番が鳴る。

中は、相変わらず埃っぽくて、静かだった。

「……じゃあさ」

振り返らないまま、ユエが言う。

「期間限定なら、付き合ってあげる」

「え?」

「仮、なんでしょ? 仮囲碁部。だったら、“仮入部”くらいでちょうどいいでしょ!」

少しだけ肩をすくめる。

「その代わり、中途半端なら、すぐやめる」

その言い方が、妙に真っ直ぐだった。

「……上等」

気づけば、そう返していた。

――そして、囲碁部(仮)が、再始動した。


***


ユエは、ふと、自分の選択を振り返っていた。どうして、引き受けたのだろう――と。

日本では、もう囲碁はやらない。そう決めていたはずだった。

理由はひとつではない。レベルの違いもあったし、環境も違った。けれど、それだけではない。

中国での囲碁は、常に“勝つこと”が求められた。正しい手を選び続けること。結果を出し続けること。そこに迷いは許されなかったし、楽しさを口にする余地も、あまりなかった。


かつては違った。石を置くたびに、新しい形が生まれるのが楽しくて、思いつくままに打っていた頃があった。けれど、いつの間にか――その感覚は、どこかへ消えていた。

それなのに。

光志と打ったあの一局が、頭を離れない。整っていないのに、どこか伸びやかで。理屈ではない流れを持った一手。思い出そうとしても曖昧なのに、その“感触”だけは、確かに残っている。


(……なんでだろう)

小さく、胸の奥でつぶやく。

囲碁を続ければ、何かを思い出せる気がした。あの頃の――まだ囲碁が、ただ楽しかった頃の感覚を。

理由として言葉にするには、まだ曖昧すぎる。けれど少なくとも、あの盤の前に座る時間を、手放したくないと思っている自分がいる。


***


放課後の部室には、決まった音がある。畳を踏む音。碁笥の蓋が触れ合う音。窓の外から聞こえる、運動部の掛け声。

囲碁部の放課後は、思っていたより静かだった。毎日、対局をするわけじゃない。むしろ、打たない日のほうが多い。盤を挟んで座り、棋譜を並べたり、互いの一手を言葉にしたりする。

「その手、どういう意味?」

ユエが聞く。

「うーん……意味は、後から考えるタイプ」

「普通、逆」

「ですよね」

そんなやりとりが、いつの間にか当たり前になっていた。


距離が縮まった、とは言えない。ユエは相変わらず静かで、感情を表に出さない。でも、距離は“果て”ではなくなった。それが、いちばん大きな変化だった。

碁会所では、勝ち負けがすべてだった。学校では、そもそも打つ相手がいなかった。ここには、評価も、順位も、時計もない。ただ、十九路盤だけが、真ん中にある。


ユエは、中国のことを語らない。過去の大会も、実績も、自分からは口にしない。ただ、ときどき。盤面を見つめる目が、明らかに「競技者」のそれになる瞬間があった。

そのたびに、僕は思う。彼女は、止まっていない。が、時折、立ち止まっている。


「……今日は、打たない?」

ある日、僕が聞くと、ユエは首を横に振った。

「見てるだけ」

「研究?」

「観察」

言い方が、彼女らしい。

僕は、一人で石を並べ始めた。十九路盤の上に、いつもの癖が出る。


守らない。

急がない。

正解を急がない。

「その手、危ない」

ユエが言う。

「はい」

「普通なら、切られる」

「でしょうね」

「……でも」

少し間があった。

「生きる形も、ある」

その言葉に、胸の奥がふっと軽くなる。


その日、対局が終わったあとも、僕はすぐに立ち上がれなかった。盤面はすでに片づけられている。勝敗も、結論もない。それでも、胸の奥が、妙に騒がしい。

――同年代と、囲碁を打っている。

それだけのことなのに、それだけのことが、今までなかった。でも今は、目の前にいる。

同じ時間を生きて、同じ教室に通って、同じ十九路を見ている相手が。


「……楽しい?」

ユエが、ふいに聞いた。

視線は盤に落としたまま。感情を探らせない、いつもの声。

「楽しいです」

即答だった。

「勝てないけど」

「それ、前も言ってた」

「でも、今はちょっと違います」

ユエは、わずかに首を傾げる。

「何が?」

「続きが、想像できるんです」

「続き?」

「次に打つ一手とか、次の一週間とか……」

言葉にしてみて、気づく。

僕は、初めて“これから”の話をしていた。ユエは何も言わなかった。ただ、碁笥の蓋を静かに閉じる。

「……期待しすぎると、裏切られる」

忠告なのか、自分自身への言葉なのか、分からない。

「それでも、期待します」

自分でも驚くほど、声が明るかった。

「同年代と打てるだけで、十分すぎるので」

ユエは、ほんの一瞬だけこちらを見た。表情は変わらない。凛として、静かで、近寄りがたいまま。

でも、その目には、「分からないものを、すぐに切り捨てない人間」を見る色があった。窓が、わずかに開いていた。夕方の風が、碁盤の上を撫でていく。白と黒が、動かないまま、そこにある。

一人で向き合っていた十九路盤に、今は、もう一つの視線がある。孤独は、消えていない。でも、独りではなくなった。――十九路に、風が通った。



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