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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第六局|一変な囲碁

部室には誰もいなかった。というより、最初から「誰もいない」のが当たり前だった。

机の上に十九路盤を置き、二人で向かい合う。僕は久々に心臓が高鳴っているのを感じた。

窓際に置かれた古い碁盤。脚の一本がわずかに短く、角に紙が挟まっている。

碁笥は欠けていて、黒石が2つだけ多い。(白石が一つだけ少ないと言った方が正しいか……)でも、十九路は、十九路だ。


「黒、どうぞ。コミなしでいいわ」

ユエが言った。

――試されている。

囲碁は、黒の先手有利、しかもコミなし先手。

だが、黒番は、攻める側。主導権を握る色。僕は、指先で黒石を一つ転がし、盤の中央へ向けた。

置いたのは、盤の中央。天元。部室の空気が、一拍だけ止まった。

ユエは何も言わない。眉も動かさない。ただ、白石を隅に置いた。

三々。

正確で、無駄がない。中央に夢を見る僕とは、真逆の一手。


――序盤

ユエは、淡々と地を確保していく。右上、左下。必要なところだけを、最短距離で押さえる。

僕は、天元から伸ばした石を、すぐに厚くはしない。低く、低く、盤面をなぞるように。

厚みを作れば、必ず切られる。なら、薄くても、繋がっていればいい。

ユエの石は、どれも「正しい」。迷いがない。

僕の石は、「正しくない」。でも、意図だけはある。――盤を、散らす。


――中盤

最初の接触は、左辺だった。僕の黒が、少しだけ前に出た瞬間、ユエは躊躇なく、押さえに来る。強い。読む必要のないところは、読まない。


局所戦。僕は、逃げる。戦わない。取られる石は、あらかじめ決めている。

小さな黒が、二つ、盤上から消えた。でも、その間に、中央の黒が、一本、太くなった。

「……そこ、捨てるんだ」

ユエの声が、初めて盤から離れた。

「うん」

即答した。

守れば、全滅する。捨てれば、盤は生きる。

中盤の終わり、盤面は、明らかに白が有利だった。地は、白。厚みも、白。でも、中央だけが、まだ、決まっていない。

ユエの手が、一瞬、止まる。ほんの、瞬きほど。その隙を、僕は見逃さなかった。

中央に、もう一子。派手じゃない。勝負手でもない。ただ、切れなくするための一手。

「……」

ユエは、すぐに対応した。最善手。それでも、中央は、完全には潰れない。


生きてもいない。

死んでもいない。

宙ぶらりんのまま、終盤へ流れ込む。


――終盤

ヨセ。白は、正確だった。一目でも、半目でも、拾いに来る。

無駄がない。

慈悲もない。

僕は、大きなところだけを見る。細かい目は、諦める。勝負は、もう、終わっている。彼女が、ヨセを間違うわけがない。

「……ないな」

思わず、口からこぼれた。

ユエが、碁石を置く手を止めた。

「……投了?」

静かな声。盤は、崩れていない。でも、結果は、はっきりしている。

ユエは、盤面を見つめたまま、言った。

「数える?」

僕は、首を振った。

「いえ、ありません」

投了のタイミングを見失っていたが、ユエの問いかけに即答した。

負けた。完敗。でも――。


ユエの視線が、中央に残った黒石に留まる。

「全部、効率が悪い」

評価は、相変わらず、辛辣だ。

「勝ち筋でもない」

それも、事実。

少し間があって、続く。

「でも……」

その「でも」に、全てが詰まっていた。

「簡単には、終わらせてない」

評価が、揺れた。


ゼロではない。

合格でもない。

でも、無視できない。

「どうして、こんな打ち方を?」

問いが、投げられる。僕は、盤を見たまま答えた。

「定石は、あまり知らないから」

正直だった。

「でも、まだ、置ける場所がある気がして」

十九路は、広い。人類が、まだ全部を知らないくらいに。

ユエは、何も言わなかった。ただ、キーホルダーの白と黒を、指先で揺らす。

「……約束は、ここまで」

立ち上がる。でも、扉へ向かう足取りは、来たときより、少しだけ遅い。

負けた。それでも。

盤の上にも、彼女の中にも、種は残せた気がした。


***


――変な囲碁だった。

対局が終わって、しばらく経っても、その感覚が消えなかった。

強いか、と聞かれれば、強くはない。正確か、と言われれば、雑なところはいくらでもある。形も、美しいとは言えない。

それなのに、盤面を思い返すたび、胸の奥に、小さな引っかかりが残る。


中国で教わった囲碁は、もっとはっきりしていた。囲碁は、勝つための競技。正解に、最短で辿り着くための計算。定石は、先人が膨大な時間と敗北を積み重ねて辿り着いた最適解。それを疑うのは、若さではなく、慢心だと教えられた。

迷う時間は、弱さ。読み切れない手は、失格。――だから、打つ前に、必ず答えがあった。


石を置く前に、頭の中で結果が決まっている。それが当然の環境で、囲碁をしてきた。長い机が並ぶ部屋。無言で進む時計。同じ年齢なのに、全員が同じ目をしている空間。

勝っても褒められない。負ければ、理由だけを問われる。そこでは、「自由」は評価されなかった。評価されたのは、正解にどれだけ早く辿り着けるか、それだけだった。

でも、彼の囲碁には、答えがなかった。


――序盤。

多少、定石を知っているのは、分かる。でも、そのままなぞらない。「ここ、普通は守るだろう」という場所を、あっさり手放す。代わりに、遠くの一線に石を置く。意味が分からない。でも、無意味でもない。


――中盤。

局所の得失より、盤全体の呼吸を見ている。読んでいないわけじゃない。読み切れないところを、あえて残している。

それは、勝ちに行く囲碁というより――「まだ何かあるはずだ」と探している囲碁だった。

定石に縛られない、というより。定石を一度受け止めた上で、そこから外に踏み出している。まるで、完成された地図を持ちながら、その余白を歩こうとしているみたいだった。


――終盤。

形勢は、こちらが良かった。数えれば、勝っている。

「数える?」

そう聞いたときの、あの返事。

「いえ、ありません」

投げやりでも、悔しさでもない。まるで冒険の途中で一息つく旅人のような、静かで、妙に晴れた声だった。

――この人は、負けたと思っていない。勝敗じゃない何かを、打っていた。

中国で育った囲碁は、正解を積み重ねて、完成に近づく競技だった。でも、古賀光志の囲碁は、違う。

完成していないことを、恐れていない。まだ定義されていない形を、探している。それは、非効率で、遠回りで、たぶん、強くなるには向いていない。

――それでも。

「また打ってもいいかも」

そんな言葉が、ふっと浮かんだ自分に、少し驚いた。

変な囲碁。でも、不快じゃない。むしろ――どこか、懐かしい違和感だった。



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