第六局|一変な囲碁
部室には誰もいなかった。というより、最初から「誰もいない」のが当たり前だった。
机の上に十九路盤を置き、二人で向かい合う。僕は久々に心臓が高鳴っているのを感じた。
窓際に置かれた古い碁盤。脚の一本がわずかに短く、角に紙が挟まっている。
碁笥は欠けていて、黒石が2つだけ多い。(白石が一つだけ少ないと言った方が正しいか……)でも、十九路は、十九路だ。
「黒、どうぞ。コミなしでいいわ」
ユエが言った。
――試されている。
囲碁は、黒の先手有利、しかもコミなし先手。
だが、黒番は、攻める側。主導権を握る色。僕は、指先で黒石を一つ転がし、盤の中央へ向けた。
置いたのは、盤の中央。天元。部室の空気が、一拍だけ止まった。
ユエは何も言わない。眉も動かさない。ただ、白石を隅に置いた。
三々。
正確で、無駄がない。中央に夢を見る僕とは、真逆の一手。
――序盤
ユエは、淡々と地を確保していく。右上、左下。必要なところだけを、最短距離で押さえる。
僕は、天元から伸ばした石を、すぐに厚くはしない。低く、低く、盤面をなぞるように。
厚みを作れば、必ず切られる。なら、薄くても、繋がっていればいい。
ユエの石は、どれも「正しい」。迷いがない。
僕の石は、「正しくない」。でも、意図だけはある。――盤を、散らす。
――中盤
最初の接触は、左辺だった。僕の黒が、少しだけ前に出た瞬間、ユエは躊躇なく、押さえに来る。強い。読む必要のないところは、読まない。
局所戦。僕は、逃げる。戦わない。取られる石は、あらかじめ決めている。
小さな黒が、二つ、盤上から消えた。でも、その間に、中央の黒が、一本、太くなった。
「……そこ、捨てるんだ」
ユエの声が、初めて盤から離れた。
「うん」
即答した。
守れば、全滅する。捨てれば、盤は生きる。
中盤の終わり、盤面は、明らかに白が有利だった。地は、白。厚みも、白。でも、中央だけが、まだ、決まっていない。
ユエの手が、一瞬、止まる。ほんの、瞬きほど。その隙を、僕は見逃さなかった。
中央に、もう一子。派手じゃない。勝負手でもない。ただ、切れなくするための一手。
「……」
ユエは、すぐに対応した。最善手。それでも、中央は、完全には潰れない。
生きてもいない。
死んでもいない。
宙ぶらりんのまま、終盤へ流れ込む。
――終盤
ヨセ。白は、正確だった。一目でも、半目でも、拾いに来る。
無駄がない。
慈悲もない。
僕は、大きなところだけを見る。細かい目は、諦める。勝負は、もう、終わっている。彼女が、ヨセを間違うわけがない。
「……ないな」
思わず、口からこぼれた。
ユエが、碁石を置く手を止めた。
「……投了?」
静かな声。盤は、崩れていない。でも、結果は、はっきりしている。
ユエは、盤面を見つめたまま、言った。
「数える?」
僕は、首を振った。
「いえ、ありません」
投了のタイミングを見失っていたが、ユエの問いかけに即答した。
負けた。完敗。でも――。
ユエの視線が、中央に残った黒石に留まる。
「全部、効率が悪い」
評価は、相変わらず、辛辣だ。
「勝ち筋でもない」
それも、事実。
少し間があって、続く。
「でも……」
その「でも」に、全てが詰まっていた。
「簡単には、終わらせてない」
評価が、揺れた。
ゼロではない。
合格でもない。
でも、無視できない。
「どうして、こんな打ち方を?」
問いが、投げられる。僕は、盤を見たまま答えた。
「定石は、あまり知らないから」
正直だった。
「でも、まだ、置ける場所がある気がして」
十九路は、広い。人類が、まだ全部を知らないくらいに。
ユエは、何も言わなかった。ただ、キーホルダーの白と黒を、指先で揺らす。
「……約束は、ここまで」
立ち上がる。でも、扉へ向かう足取りは、来たときより、少しだけ遅い。
負けた。それでも。
盤の上にも、彼女の中にも、種は残せた気がした。
***
――変な囲碁だった。
対局が終わって、しばらく経っても、その感覚が消えなかった。
強いか、と聞かれれば、強くはない。正確か、と言われれば、雑なところはいくらでもある。形も、美しいとは言えない。
それなのに、盤面を思い返すたび、胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
中国で教わった囲碁は、もっとはっきりしていた。囲碁は、勝つための競技。正解に、最短で辿り着くための計算。定石は、先人が膨大な時間と敗北を積み重ねて辿り着いた最適解。それを疑うのは、若さではなく、慢心だと教えられた。
迷う時間は、弱さ。読み切れない手は、失格。――だから、打つ前に、必ず答えがあった。
石を置く前に、頭の中で結果が決まっている。それが当然の環境で、囲碁をしてきた。長い机が並ぶ部屋。無言で進む時計。同じ年齢なのに、全員が同じ目をしている空間。
勝っても褒められない。負ければ、理由だけを問われる。そこでは、「自由」は評価されなかった。評価されたのは、正解にどれだけ早く辿り着けるか、それだけだった。
でも、彼の囲碁には、答えがなかった。
――序盤。
多少、定石を知っているのは、分かる。でも、そのままなぞらない。「ここ、普通は守るだろう」という場所を、あっさり手放す。代わりに、遠くの一線に石を置く。意味が分からない。でも、無意味でもない。
――中盤。
局所の得失より、盤全体の呼吸を見ている。読んでいないわけじゃない。読み切れないところを、あえて残している。
それは、勝ちに行く囲碁というより――「まだ何かあるはずだ」と探している囲碁だった。
定石に縛られない、というより。定石を一度受け止めた上で、そこから外に踏み出している。まるで、完成された地図を持ちながら、その余白を歩こうとしているみたいだった。
――終盤。
形勢は、こちらが良かった。数えれば、勝っている。
「数える?」
そう聞いたときの、あの返事。
「いえ、ありません」
投げやりでも、悔しさでもない。まるで冒険の途中で一息つく旅人のような、静かで、妙に晴れた声だった。
――この人は、負けたと思っていない。勝敗じゃない何かを、打っていた。
中国で育った囲碁は、正解を積み重ねて、完成に近づく競技だった。でも、古賀光志の囲碁は、違う。
完成していないことを、恐れていない。まだ定義されていない形を、探している。それは、非効率で、遠回りで、たぶん、強くなるには向いていない。
――それでも。
「また打ってもいいかも」
そんな言葉が、ふっと浮かんだ自分に、少し驚いた。
変な囲碁。でも、不快じゃない。むしろ――どこか、懐かしい違和感だった。




