第五局|一局だけの約束
翌日から、僕は少しだけ、挙動不審になった。廊下でユエを見かけるたび、声をかけるべきか、かけないべきか、頭の中で三手先まで読んでは、全部裏目に出る。
――いや、今日じゃない。
――今のはタイミングが悪い。
――その角度から話しかけるの、重くないか?
結果、ただの不審者になる。
「……古賀くん?」
ユエのほうから声をかけられたとき、心臓が跳ねた。
「さっきから、同じ廊下を三回通ってる」
「えっ、そ、そう?」
嘘だった。五回目だ。しかも二回は、行き先なんてなかった。ただ、ここを通れば会えるかもしれないと思っただけだ。しかも、彼女には、それを見抜かれている。
「迷ってるなら、話して」
逃げ道を、静かに塞がれた。
「いや、その……囲碁部のことで」
「また?」
即座にため息。
だが、その溜息は“呆れ”というより、“既視感”に近かった。
「昨日も言った。行かない」
「お菓子あるよ」
「いらない」
「話を聞くだけでいい」
「聞かない」
「一分」
「長い」
会話が、卓球みたいに返ってくる。
「……三十秒」
ユエは、じっと僕を見た。観察するような目。
「古賀くん、しつこい」
「よく言われる」
「誇るところじゃない」
「でも、碁打ちは、しつこくないと」
「それも違う」
ぴしゃり。完全に、形勢不利。
「昨日も、昼も、放課後も」
ユエが指折り数え始める。
「誘う、断る。誘う、断る。このやり取り、何局目?」
「たぶん、七局目」
「多すぎ」
それでも、ユエは立ち去らなかった。――ここだ。
「嫌なら、はっきり断っていい」
僕は、少しだけ声のトーンを落とした。
「でも、ちゃんと理由を聞きたい」
「もう言った」
「“レベルが低い”以外で」
一瞬、ユエの視線が揺れた。
「……何を期待してるの」
「期待してるわけじゃない」
自分でも意外なほど、落ち着いた声が出た。
「ただ、確認したいだけ」
「何を」
「君が、本当に、盤を捨てたのか」
ユエは、黙った。その沈黙が、さっきまでの断定的な拒絶と、少し違う。
「昨日言われたこと、全部、調べた」
僕は続けた。
「持ち時間の使い方。序盤の判断。中国の解説動画も、三本見た」
「……一晩で?」
「眠れなかった」
正直に言った。
ユエは、驚いたようでも、呆れたようでもなかった。ただ、少しだけ、目を細めた。
「それで?」
「やっぱり、全然足りなかった」
自分でも笑ってしまうくらい、差を感じた。
「でも――悔しかった」
その言葉が、口からこぼれた瞬間、ユエの表情が、ほんのわずかに変わった。
――評価じゃない。
――同情でもない。
囲碁打ちが、別の囲碁打ちを見るときの顔。
「……」
「一局だけでいい」
もう一度、言った。
「強くなりたい、とかじゃない」
「認めてほしい、とかでもない」
「じゃあ、何」
「君の盤を、一度だけ見たい」
沈黙。
長い。
ユエは、キーホルダーに触れた。無意識の仕草。
「……条件がある」
ついに、石が置かれた。
「一局だけ」
「それでいい」
「研究じゃない」
「分かってる」
「私が勝つ」
「……うん」
「でも、私が勝ったら、二度と誘わないで」
「……3日間くらいなら考える」
「二度と!」
「わ、分かったよ……!」
この瞬間、僕は確信した。ユエは、根負けしたんじゃない。――応じたんだ。囲碁打ちとして。
ユエは、僕をじっと見てから、ふっと息を吐いた。
「放課後」
「部室で?」
「……そこしか、ないんでしょ」
その言葉に、妙な安堵が広がった。
放課後。部室へ向かう階段は、いつもより長く感じた。
鍵は、いつも通り、僕のポケットにある。この学校で、囲碁部の扉を開けられるのは、たぶん、僕だけだ。
――この扉は、いつもは世界から閉ざされている。
でも、今日は違った。
背後に、足音がある。
振り返ると、ユエがいた。
無言。表情も、いつも通り。
けれど、その歩幅には迷いがなかった。まるで、この場所に来ることを、最初から決めていたみたいに。
二人で、部室の前に立つ。古い扉。色あせた部活名のプレート。
――囲碁部。その文字を見つめたまま、ほんの一瞬、息を止める。ここはずっと、一人で守ってきた場所だ。誰にも開かれることのなかった、小さな世界。けれど今は――違う。
鍵を差し込む手が、少しだけ震えた。その理由が緊張なのか、期待なのか、自分でもよくわからなかった。
それでも、ゆっくりと回す。
カチリ、と音がした。
閉ざされていたはずの世界が、静かにひらいた。―― 一局だけ。
たったそれだけの約束なのに、十九路を挟む前の空気は、大会前よりも、張り詰めていた。
僕は、深呼吸して、扉を開けた。




