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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第五局|一局だけの約束


翌日から、僕は少しだけ、挙動不審になった。廊下でユエを見かけるたび、声をかけるべきか、かけないべきか、頭の中で三手先まで読んでは、全部裏目に出る。


――いや、今日じゃない。

――今のはタイミングが悪い。

――その角度から話しかけるの、重くないか?

結果、ただの不審者になる。


「……古賀くん?」

ユエのほうから声をかけられたとき、心臓が跳ねた。

「さっきから、同じ廊下を三回通ってる」

「えっ、そ、そう?」

嘘だった。五回目だ。しかも二回は、行き先なんてなかった。ただ、ここを通れば会えるかもしれないと思っただけだ。しかも、彼女には、それを見抜かれている。

「迷ってるなら、話して」

逃げ道を、静かに塞がれた。

「いや、その……囲碁部のことで」

「また?」

即座にため息。

だが、その溜息は“呆れ”というより、“既視感”に近かった。

「昨日も言った。行かない」

「お菓子あるよ」

「いらない」

「話を聞くだけでいい」

「聞かない」

「一分」

「長い」

会話が、卓球みたいに返ってくる。

「……三十秒」

ユエは、じっと僕を見た。観察するような目。

「古賀くん、しつこい」

「よく言われる」

「誇るところじゃない」

「でも、碁打ちは、しつこくないと」

「それも違う」

ぴしゃり。完全に、形勢不利。

「昨日も、昼も、放課後も」

ユエが指折り数え始める。

「誘う、断る。誘う、断る。このやり取り、何局目?」

「たぶん、七局目」

「多すぎ」


それでも、ユエは立ち去らなかった。――ここだ。


「嫌なら、はっきり断っていい」

僕は、少しだけ声のトーンを落とした。

「でも、ちゃんと理由を聞きたい」

「もう言った」

「“レベルが低い”以外で」

一瞬、ユエの視線が揺れた。

「……何を期待してるの」

「期待してるわけじゃない」

自分でも意外なほど、落ち着いた声が出た。

「ただ、確認したいだけ」

「何を」

「君が、本当に、盤を捨てたのか」

ユエは、黙った。その沈黙が、さっきまでの断定的な拒絶と、少し違う。

「昨日言われたこと、全部、調べた」

僕は続けた。

「持ち時間の使い方。序盤の判断。中国の解説動画も、三本見た」

「……一晩で?」

「眠れなかった」

正直に言った。

ユエは、驚いたようでも、呆れたようでもなかった。ただ、少しだけ、目を細めた。

「それで?」

「やっぱり、全然足りなかった」

自分でも笑ってしまうくらい、差を感じた。

「でも――悔しかった」

その言葉が、口からこぼれた瞬間、ユエの表情が、ほんのわずかに変わった。

――評価じゃない。

――同情でもない。

囲碁打ちが、別の囲碁打ちを見るときの顔。

「……」

「一局だけでいい」

もう一度、言った。

「強くなりたい、とかじゃない」

「認めてほしい、とかでもない」

「じゃあ、何」

「君の盤を、一度だけ見たい」


沈黙。

長い。

ユエは、キーホルダーに触れた。無意識の仕草。


「……条件がある」

ついに、石が置かれた。

「一局だけ」

「それでいい」

「研究じゃない」

「分かってる」

「私が勝つ」

「……うん」

「でも、私が勝ったら、二度と誘わないで」

「……3日間くらいなら考える」

「二度と!」

「わ、分かったよ……!」

この瞬間、僕は確信した。ユエは、根負けしたんじゃない。――応じたんだ。囲碁打ちとして。

ユエは、僕をじっと見てから、ふっと息を吐いた。

「放課後」

「部室で?」

「……そこしか、ないんでしょ」

その言葉に、妙な安堵が広がった。


放課後。部室へ向かう階段は、いつもより長く感じた。

鍵は、いつも通り、僕のポケットにある。この学校で、囲碁部の扉を開けられるのは、たぶん、僕だけだ。

――この扉は、いつもは世界から閉ざされている。

でも、今日は違った。

背後に、足音がある。

振り返ると、ユエがいた。

無言。表情も、いつも通り。

けれど、その歩幅には迷いがなかった。まるで、この場所に来ることを、最初から決めていたみたいに。

二人で、部室の前に立つ。古い扉。色あせた部活名のプレート。

――囲碁部。その文字を見つめたまま、ほんの一瞬、息を止める。ここはずっと、一人で守ってきた場所だ。誰にも開かれることのなかった、小さな世界。けれど今は――違う。

鍵を差し込む手が、少しだけ震えた。その理由が緊張なのか、期待なのか、自分でもよくわからなかった。

それでも、ゆっくりと回す。

カチリ、と音がした。

閉ざされていたはずの世界が、静かにひらいた。―― 一局だけ。

たったそれだけの約束なのに、十九路を挟む前の空気は、大会前よりも、張り詰めていた。

僕は、深呼吸して、扉を開けた。


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