第四局|拒絶という一手
放課後の廊下は、昼よりも静かだった。部活へ向かう足音と、帰宅する生徒の声が、間延びしたリズムで交差している。僕は、少し先を歩くユエの背中を見つけ、呼び止めた。
「林――さん」
足が止まる。振り返るまでに、わずかな間があった。
「何」
短い。いつもの通り余計な感情を削ぎ落とした声だった。
「囲碁部……その、よかったら、見に来ない?」
言葉にした瞬間、自分でも分かった。これは勧誘じゃない。――確認だ。
あのキーホルダー。ノートの線。盤から離れきれない思考の癖。それらすべてを踏まえた上での、最終確認。
ユエは、少しだけ視線を落とした。そして、迷いなく言った。
「行かない」
即断。一秒もかからなかった。
「日本の囲碁は、レベルが低い」
その言葉は、強い調子じゃなかった。むしろ、淡々としていた。だからこそ、胸の奥に、深く刺さった。
「……低い?」
「そう」
ユエは、説明を始める。誰かを説得するためじゃない。事実を並べるだけ、という口調で。
「前にも言ったけど持ち時間の使い方が甘い。序盤で形を急ぎすぎる。中盤の読みも浅い」
僕は、反論しようとして、やめた。思い当たる節が、ありすぎた。
「定石を“知識”として覚えてるだけ。どうしてそこに置くのか、説明できない人が多い」
中国の解説動画で、よく聞く言い回し。耳にタコができるほどの、評価軸。
「中国じゃ、囲碁は“琴棋書画”の一つ」
その言葉で、少しだけ空気が変わった。
「音楽、囲碁、書、絵。教養であり、人格であり、競争」
ユエは、遠くを見るように続ける。
「ただの遊びじゃない。人生を賭ける価値があるもの」
僕の中で、知識が、静かに共鳴した。
――知ってる。日本でも、そういう時代があった……らしい。
本因坊、秀策。呉清源。昭和の一時期には、日本が、世界の中心だった。囲碁の“最前線”は、確かにここにあった。でも、それはもう、過去形だ。
「今の日本は、囲碁を“安全な部活”にした」
ユエの言葉が、続く。
「負けても大丈夫。勝っても、人生は変わらない」
「……悪いことじゃないだろ」
ようやく、声が出た。
「囲碁が好きなだけの人も、いていい」
ユエは、少しだけ首を傾げた。
「好き、だけ?」
その問い返しに、言葉が詰まる。
「それは、荒波から降りた囲碁」
静かな断定だった。
その瞬間、僕は理解した。彼女は、嵐の中で打ってきたんだ。才能で、結果で、将来で、常にふるいにかけられる場所。
対して、僕はどうだ。衰退期。熱が冷めたあと。かつての栄光の残骸の上。それでも、十九路盤は、ここにもある。
「ここで打っても、強くならない」
ユエは、そう言った。
「だから、打たない」
拒絶だった。感情じゃない。価値観としての、一手。
胸の奥で、劣等感が、ゆっくり広がる。
――確かに、世界の中心じゃない。
――でも、ここにも、無数の手は残ってる。
定石は更新される。
AIは、さらに先を行く。
世界は、止まらない。
荒波の“外”で打っている自覚は、僕にもあった。それでも。それでも、だ。
「じゃあ……」
声が、少し震えた。
「日本の十九路は、全部、無意味なの?」
ユエは、答えなかった。ただ、背を向ける。白と黒のパンダが、小さく揺れた。
拒絶という一手は、僕の盤面に、大きな余白を残していった。
――ここから、どう打つ?それが、次の問いになった。




