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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第四局|拒絶という一手

放課後の廊下は、昼よりも静かだった。部活へ向かう足音と、帰宅する生徒の声が、間延びしたリズムで交差している。僕は、少し先を歩くユエの背中を見つけ、呼び止めた。


「林――さん」

足が止まる。振り返るまでに、わずかな間があった。

「何」

短い。いつもの通り余計な感情を削ぎ落とした声だった。

「囲碁部……その、よかったら、見に来ない?」

言葉にした瞬間、自分でも分かった。これは勧誘じゃない。――確認だ。

あのキーホルダー。ノートの線。盤から離れきれない思考の癖。それらすべてを踏まえた上での、最終確認。

ユエは、少しだけ視線を落とした。そして、迷いなく言った。

「行かない」

即断。一秒もかからなかった。

「日本の囲碁は、レベルが低い」

その言葉は、強い調子じゃなかった。むしろ、淡々としていた。だからこそ、胸の奥に、深く刺さった。

「……低い?」

「そう」

ユエは、説明を始める。誰かを説得するためじゃない。事実を並べるだけ、という口調で。

「前にも言ったけど持ち時間の使い方が甘い。序盤で形を急ぎすぎる。中盤の読みも浅い」

僕は、反論しようとして、やめた。思い当たる節が、ありすぎた。

「定石を“知識”として覚えてるだけ。どうしてそこに置くのか、説明できない人が多い」

中国の解説動画で、よく聞く言い回し。耳にタコができるほどの、評価軸。

「中国じゃ、囲碁は“琴棋書画”の一つ」

その言葉で、少しだけ空気が変わった。

「音楽、囲碁、書、絵。教養であり、人格であり、競争」

ユエは、遠くを見るように続ける。

「ただの遊びじゃない。人生を賭ける価値があるもの」

僕の中で、知識が、静かに共鳴した。


――知ってる。日本でも、そういう時代があった……らしい。

本因坊、秀策。呉清源。昭和の一時期には、日本が、世界の中心だった。囲碁の“最前線”は、確かにここにあった。でも、それはもう、過去形だ。


「今の日本は、囲碁を“安全な部活”にした」

ユエの言葉が、続く。

「負けても大丈夫。勝っても、人生は変わらない」

「……悪いことじゃないだろ」

ようやく、声が出た。

「囲碁が好きなだけの人も、いていい」

ユエは、少しだけ首を傾げた。

「好き、だけ?」

その問い返しに、言葉が詰まる。

「それは、荒波から降りた囲碁」

静かな断定だった。

その瞬間、僕は理解した。彼女は、嵐の中で打ってきたんだ。才能で、結果で、将来で、常にふるいにかけられる場所。

対して、僕はどうだ。衰退期。熱が冷めたあと。かつての栄光の残骸の上。それでも、十九路盤は、ここにもある。


「ここで打っても、強くならない」

ユエは、そう言った。

「だから、打たない」

拒絶だった。感情じゃない。価値観としての、一手。

胸の奥で、劣等感が、ゆっくり広がる。


――確かに、世界の中心じゃない。

――でも、ここにも、無数の手は残ってる。

定石は更新される。

AIは、さらに先を行く。

世界は、止まらない。


荒波の“外”で打っている自覚は、僕にもあった。それでも。それでも、だ。

「じゃあ……」

声が、少し震えた。

「日本の十九路は、全部、無意味なの?」

ユエは、答えなかった。ただ、背を向ける。白と黒のパンダが、小さく揺れた。

拒絶という一手は、僕の盤面に、大きな余白を残していった。

――ここから、どう打つ?それが、次の問いになった。



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