第三局|囲碁パンダの違和感
昼休みの教室は、午前中よりも少しだけ緩んでいる。
弁当の匂いが混ざり、椅子を引く音が増え、会話のトーンも一段下がる。誰かのスマホから動画の音が漏れ、笑い声が断続的に弾ける。そんな中で、林玥――ユエは、今日もひとりだった。
昨日と同じ席。
同じ窓際。
同じ距離感。
誘われれば断らない。けれど、自分から輪に入ろうともしない。昼休みが始まると、彼女は弁当箱を取り出し、きっちりと箸を揃えた。ご飯とおかずの配置が、妙に整っている。
――配置。
その言葉が、頭の中に引っかかった。
箸の置き方。
弁当箱の向き。
鞄を床に置く位置。
どれもが、無意識とは思えないほど、均衡を意識している。視線の使い方もそうだ。教室全体を一度、ゆっくりと見渡してから、食事に戻る。まるで、盤面を確認するみたいに。
僕は、弁当を食べながら、さりげなく様子を窺った。見つめすぎると、不審がられる。
――(いや、そもそも不審だ。)そんな言い訳をしながら、観察を続ける。
ユエは、食事の途中で、一度だけ、ポーチを開いた。中身を確認するわけでもなく、何かを取り出すわけでもない。ただ、指先で触れて、閉じた。
囲碁パンダ。昨日、確かに見た、あのキーホルダー。昼の光の中でも、それはやけに目立っていた。白と黒のコントラストが、教室の雑多な色彩から、静かに浮き上がっている。ただの可愛いキーホルダー、と片づけるには、どうにも落ち着かない。
なぜ、あれを隠さないのか。なぜ、あえて、視界に入りやすい場所につけているのか?
彼女は言った。囲碁を打つつもりはない、と。日本では意味がない、と。それなのに、囲碁を知っている人間なら、ほぼ確実に足を止めてしまう目印を、堂々とぶら下げている。
――矛盾している。僕は、頭の中で碁盤を広げた。
わざと弱く見える石。
あからさまに空いた地点。
相手に打たせるための、誘いの形。
囲碁では、隠すことと、見せることは、対立しない。むしろ、同じ戦略の裏表だ。
彼女は、どちらを選んでいる?
考えているとき、ふと、別の違和感が胸に引っかかった。
――ノート。昼休みの少し前、ユエが授業のノートを閉じた瞬間を、僕は見ていた。板書を写すだけにしては、余白が多すぎる。
ページの端に、細い線がいくつも引かれていた。角度を変えた線。交差する線。文字じゃない。図形だ。それは、碁盤の升目を、無意識に縮小したような配置に見えた。
本人は、たぶん気づいていない。考え事をするとき、手が勝手に動いてしまう、あの感じ。
囲碁を打つ人間は、盤がなくても、盤を描く。それを見た瞬間、背中に、ゾクリとしたものが走った。
――そうだ。彼女は、打ちたがっている。
打たないと言いながら、打つ気がないと言いながら、思考の癖が、もう十九路から離れられていない。午後の授業が始まる直前、クラスメイトの一人が声をかけた。
「林さん、そのキーホルダー、かわいいね」
一瞬だけ、教室の空気が止まる。ユエは、ほんの少し考えてから、答えた。
「……ありがとう」
それだけ。
言い訳しない。説明しない。でも、話題を広げさせもしない。その距離の取り方が、妙に碁打ちらしかった。
余白を残す。
踏み込ませすぎない。
相手の出方を待つ。
僕の中で、点と点が、静かに繋がっていく。囲碁パンダは、単なるアクセサリーじゃない。ノートの落書きも、偶然じゃない。これは、彼女なりの、無意識のサインだ。――私は、まだ盤の上にいる。そう言っているようにしか、見えた。
その瞬間、僕の中で、疑いは消えた。林玥は、囲碁を打ちたい。少なくとも、打つことを、完全には捨てられていない。彼女は、囲碁をやめていない。やめられていない。
たとえ、日本で打つつもりがないと言っても。たとえ、レベルが低いと切り捨てても。囲碁は、彼女の中で、まだ躍動している。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。ユエは、弁当箱を片付け、ポーチを鞄にしまう。囲碁パンダが、揺れた。その揺れを見て、僕の中で、一つの考えが形を持った。
――この人は、盤から離れられていない。そして、かなり強い。たぶん。
この教室のどこかに、まだ打たれていない一手があるはずだ。




