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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第三局|囲碁パンダの違和感

昼休みの教室は、午前中よりも少しだけ緩んでいる。

弁当の匂いが混ざり、椅子を引く音が増え、会話のトーンも一段下がる。誰かのスマホから動画の音が漏れ、笑い声が断続的に弾ける。そんな中で、林玥――ユエは、今日もひとりだった。


昨日と同じ席。

同じ窓際。

同じ距離感。


誘われれば断らない。けれど、自分から輪に入ろうともしない。昼休みが始まると、彼女は弁当箱を取り出し、きっちりと箸を揃えた。ご飯とおかずの配置が、妙に整っている。


――配置。

その言葉が、頭の中に引っかかった。

箸の置き方。

弁当箱の向き。

鞄を床に置く位置。


どれもが、無意識とは思えないほど、均衡を意識している。視線の使い方もそうだ。教室全体を一度、ゆっくりと見渡してから、食事に戻る。まるで、盤面を確認するみたいに。

僕は、弁当を食べながら、さりげなく様子を窺った。見つめすぎると、不審がられる。

――(いや、そもそも不審だ。)そんな言い訳をしながら、観察を続ける。

ユエは、食事の途中で、一度だけ、ポーチを開いた。中身を確認するわけでもなく、何かを取り出すわけでもない。ただ、指先で触れて、閉じた。


囲碁パンダ。昨日、確かに見た、あのキーホルダー。昼の光の中でも、それはやけに目立っていた。白と黒のコントラストが、教室の雑多な色彩から、静かに浮き上がっている。ただの可愛いキーホルダー、と片づけるには、どうにも落ち着かない。

なぜ、あれを隠さないのか。なぜ、あえて、視界に入りやすい場所につけているのか?

彼女は言った。囲碁を打つつもりはない、と。日本では意味がない、と。それなのに、囲碁を知っている人間なら、ほぼ確実に足を止めてしまう目印を、堂々とぶら下げている。


――矛盾している。僕は、頭の中で碁盤を広げた。


わざと弱く見える石。

あからさまに空いた地点。

相手に打たせるための、誘いの形。


囲碁では、隠すことと、見せることは、対立しない。むしろ、同じ戦略の裏表だ。

彼女は、どちらを選んでいる?

考えているとき、ふと、別の違和感が胸に引っかかった。


――ノート。昼休みの少し前、ユエが授業のノートを閉じた瞬間を、僕は見ていた。板書を写すだけにしては、余白が多すぎる。

ページの端に、細い線がいくつも引かれていた。角度を変えた線。交差する線。文字じゃない。図形だ。それは、碁盤の升目を、無意識に縮小したような配置に見えた。

本人は、たぶん気づいていない。考え事をするとき、手が勝手に動いてしまう、あの感じ。

囲碁を打つ人間は、盤がなくても、盤を描く。それを見た瞬間、背中に、ゾクリとしたものが走った。


――そうだ。彼女は、打ちたがっている。

打たないと言いながら、打つ気がないと言いながら、思考の癖が、もう十九路から離れられていない。午後の授業が始まる直前、クラスメイトの一人が声をかけた。


「林さん、そのキーホルダー、かわいいね」

一瞬だけ、教室の空気が止まる。ユエは、ほんの少し考えてから、答えた。

「……ありがとう」

それだけ。

言い訳しない。説明しない。でも、話題を広げさせもしない。その距離の取り方が、妙に碁打ちらしかった。


余白を残す。

踏み込ませすぎない。

相手の出方を待つ。


僕の中で、点と点が、静かに繋がっていく。囲碁パンダは、単なるアクセサリーじゃない。ノートの落書きも、偶然じゃない。これは、彼女なりの、無意識のサインだ。――私は、まだ盤の上にいる。そう言っているようにしか、見えた。

その瞬間、僕の中で、疑いは消えた。林玥は、囲碁を打ちたい。少なくとも、打つことを、完全には捨てられていない。彼女は、囲碁をやめていない。やめられていない。

たとえ、日本で打つつもりがないと言っても。たとえ、レベルが低いと切り捨てても。囲碁は、彼女の中で、まだ躍動している。

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。ユエは、弁当箱を片付け、ポーチを鞄にしまう。囲碁パンダが、揺れた。その揺れを見て、僕の中で、一つの考えが形を持った。


――この人は、盤から離れられていない。そして、かなり強い。たぶん。

この教室のどこかに、まだ打たれていない一手があるはずだ。



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