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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第一章:-AIとパンダと、時々、君。
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第二局|黒と白の転校生

その日は、特別な朝じゃなかった。

HRが始まる前の教室は、いつもと同じざわめきに包まれていた。机を引く音、スマホを隠す動作、昨日のテレビの話題。誰もが、同じ速度で時間をやり過ごしている。担任が教室に入ってくるまでは。


「えー、今日は転校生を紹介します」

その一言で、空気が少しだけ動いた。

転校生。この言葉には、決まって微妙な期待と、どうでもいい好奇心が混じる。

教室の後ろのドアが開く。最初に目に入ったのは、黒い髪だった。肩より少し下まで、無駄のない長さで整えられている。

次に、白いシャツ。きちんとアイロンのかかった制服が、教室の雑多な色の中で、不自然なほど静かに映えた。


林玥リン・ユエです」

自己紹介は、実にシンプルだった。しかしそれだけで、クラスの視線が一斉に集まった。

中国からの転校生。両親の仕事の関係で、

(こんな僻地に…………まぁ、アニメ等では、ありがちなパターンかぁ。)


教室の中が、急に騒がしくなった気がした。

前の席の女子がひそひそと話し、後ろの男子が興味本位で振り返る。そのどれにも、彼女は反応しない。まるで、盤上に置かれた白石みたいだった。周囲がどれだけ騒いでも、そこに「在る」だけで、空気を変えてしまう存在。


彼女の席は、窓際の一番後ろになった。僕の席から、ちょうど斜め前だ。

授業が始まると、林玥――ユエは、ノートを丁寧に取り出し、淡々と板書を書き写していた。分からないところがあっても、首を傾げるだけで、誰にも聞かない。

昼休み。クラスはいつも通り、いくつかの小さな輪に分かれていく。彼女は、そのどれにも入らなかった。弁当を広げ、窓の外を見ながら、静かに箸を進める。声をかけようとする生徒は、何人かいた。けれど、どこかで踏みとどまる。

近づきづらい、というより、入り込む隙がない。それは、拒絶とは違う。ただ、目に見えないが、境界線がはっきりしている感じがする。

僕は、その様子を、なんとなく見ていた。特別な理由はない。ただ、気になった。同年代なのに、同じ教室にいるはずなのに、彼女はどこか、違う時間を生きているように見えた。

朝のHRも、授業中も、昼休みも。周囲が小刻みに揺れている中で、彼女だけが静止画のようだった。

――碁会所の先生たちと、少し似ている。

そんなことを思ってしまった自分に、苦笑する。同級生を、老人と同列に見るなんて。


彼女は、どこか近寄りがたいバリアを纏っていて、クラスの誰もが「きれいだけど話しかけづらい」と口を揃えていた。――僕もそう思っていた。あの昼休みに“あれ”を見るまでは。


その日、僕は廊下から教室を覗いた。ユエは、ひとりで席に座り、鞄から小さなポーチを取り出していた。何気なく目に入ったのは、彼女のリュックについたキーホルダー。

ちょっと色褪せたそれは、黒石と白石を抱えてにっこり笑うパンダのぬいぐるみがぶら下がっているキーホルダーだった。


“囲碁パンダ”。中国の囲碁グッズ界では知る人ぞ知る“ゆるキャラ”で、あざと可愛い笑顔が特徴。……クールビューティーには、およそ似つかわしくないアイテム。だからこそ、僕の中の、囲碁レーダーが、はっきりと反応した。

――もしかして。

考えるより先に、足が動いていた。教室の入口で立ち止まり、声をかける。

「……囲碁、やるの?」

自分でも驚くほど、素直な声だった。

彼女は、少しだけ肩を揺らして、こちらを見た。ほんの一瞬、警戒が走るのが分かる。

「……どうして、分かるの?」

日本語は流暢だけど、語尾に、わずかな硬さが残っている。僕は、彼女のリュックを指差した。

「そのパンダ。囲碁パンダでしょ?」

「……」

「僕も持ってる。緑色のやつ。洗濯したら、ちょっと縮んだけど」

言ってから、しまったと思った。初対面で言う話じゃない。でも、彼女はため息をついた。

「……昔のグッズ、よく知ってるね」

「やっぱり……」

「でもこれ非売品。中国でも、もうほとんど出回ってない」

思わず、前のめりになる。

「すごい……じゃあ、やっぱり囲碁、打てるんだ!」

熱が、抑えきれなかった。けれど、その熱量とは正反対に、彼女は、ほんの少しだけ、距離を取った。

「囲碁をやってること、内緒にしてたのに……」

「え?」

「迂闊だった。まさか、ここで“囲碁パンダ”を知ってる人がいるなんて」

視線を、窓の外に移す。


「……打てるけど」

少し間を置いて、続ける。

「日本じゃ、打つつもりはない」

「どうして?」

「打っても、意味がないから」

言葉は静かだった。でも、その一言は、石みたいに重かった。

「レベルが低い」

「え……」

「大会映像、見たことがある。持ち時間の半分も使わない。定石も曖昧なのに、ベスト8に残る。信じられない」

返す言葉が、見つからなかった。

「中国じゃ、小学生でも、もっと読む」

「囲碁は、文化で、スポーツ」

そして、最後に。

「日本では、……ただの娯楽、に見える」

胸の奥が、きしんだ。でも、それでも、僕は引き下がれなかった。だって、僕がやっと見つけた同世代の十九路だから。

盤の上で、じっと形を整えながら、いつか一気に動く石のようにチャンスをうかがう。


黒と白。

静と動。

まだ何も始まってもいないのに、十九路盤のどこかで、音のしない一手が打てた気がした。


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