第一局|部員ゼロという現実
放課後、僕はいつものように校舎の奥へ向かった。
生徒たちの足音が遠ざかるにつれ、廊下は静かになる。運動部の掛け声も聞こえなくなり、窓の外では、夕方の風が木の葉を揺らしていた。囲碁部の部室は、旧校舎の一階。人の流れから、きれいに外れた場所にある。
鍵を開けると、乾いた音がした。中は、変わらない。碁盤が二面。碁石の入った木箱がひとつ。壁際に古い折り畳み机と、使われていない出席簿。それだけだ。
僕は出席簿を手に取った。名前が書かれているのは、1年前のページまで。
そこには、僕の名前がある。ほかにも、かすれた文字がいくつか並んでいるけれど、今この部室に足を運ぶのは、僕ひとりだ。
「……部活、やってます」
入学して間もない頃、担任との面談で、そう言ったことを思い出す。
中学には、囲碁部がなかった。正確に言えば、「囲碁部を立ち上げたが部員が集まらなかった」
校舎の隅でひとり盤を広げていると、通りがかった先生に「将棋?」と聞かれ、違いますと答えるたびに、少しずつ心が削れていった。だから高校に入学したとき、真っ先に部活動一覧を探した。
囲碁部。その三文字を見つけたとき、胸が少しだけ熱くなったのを覚えている。
――やっと、同年代と打てる。
そう思ったのは、ほんの数日だった。
「実はね……」
担任は、申し訳なさそうに眼鏡を押し上げた。
「今年の春で、在籍部員が全員卒業してしまってね。廃部予定なんだ」
期待は、驚くほどあっさりと音を立てて崩れた。
それでも、諦めきれなかった。掲示板に張り紙をした。クラスで声をかけた。
「ボードゲーム好きならどう?」と、囲碁の“囲”の字を極力使わない工夫までした。
一時期、部員は三人になった。初心者一名、ルール説明中に寝る一名、そして僕。
活動内容は、ほぼ僕の一人語りだったけれど、それでも楽しかった。「部活」をしている気がした。
だが、現実は長く続かない。初心者はスマホゲームに帰っていき、寝ていた一名は、いつの間にかバスケ部にいた。気づけば、出席簿には、また僕の名前だけが残った。
それでも囲碁部は、なんとか存続できた。形式上は。
廃部予定から「休止状態」へ格上げされたのは、我ながら頑張った方だと思う。でも、その代償として得たのは、鍵と、静かな部室だけだった。だから担任に「囲碁部です」と言ったとき、少しだけ間があったのだ。
「へえ、珍しいね」
それ以上、話は広がらなかった。囲碁部は、珍しい。でも、それはたぶん、「興味深い」という意味じゃない。
囲碁部は、存在している。書類上は。けれど、活動実態の欄は、ほとんど白紙だ。大会実績も、部員数も、更新されないまま時が止まっている。僕は盤を机の中央に置き、ひとりで座った。十九路盤を挟んだ向こう側には、誰もいない。
囲碁は石を並べて、ひとりで対局の形を作ることもできる。詰碁も、棋譜並べもできる。でも、それは「囲碁部」ではない。囲碁部は、打ち合う場所だ。考えをぶつけ合う場所だ。負けた理由を、言い訳込みで語れる場所だ。
なのに、ここには、僕しかいない。同年代と囲碁を打てない焦りが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
碁会所では、いつも教わる側だ。強い人が多くて、ありがたい反面、対等ではいられない。
勝っても負けても、同じ目線で悔しがれる相手。「さっきの一手、どう思う?」と、気軽に聞ける相手。そういう存在が、ここにはいない。
盤を前にして、ふと思う。僕は、どこに向かっているんだろう。
囲碁部に所属しているはずなのに、居場所としての実感がない。碁会所では歓迎されているけれど、そこは学校生活とは別の世界。
部室の窓から、校庭が見える。バスケ部がシュート練習をしていて、ボールの弾む音が規則正しく響いている。誰かが叫び、誰かが笑っている。
ああ、部活って、こういうものだったっけ。ふいに、盤の上に置いた黒石が、ひどく小さく見えた。
それでも続けてきた。やめなかった。でも、それは「進んでいる」ということと、同じじゃない。
囲碁の世界は、前に進んでいる。定石は日々更新され、昨日までの“常識”が、今日にはもう古くなる。プロ棋士たちは、AIの解析を使い、勝率が一%でも上がる手を探している。
棋譜をAIにかけて、
「なぜこの手が悪いのか」
「どこで評価が反転したのか」
そうやって、自分の思考の癖を洗い出す。
評価値のグラフが、わずかに揺れる。まるで、何かを言いたげに。
――そんなふうに見えたのは、気のせいだと思うけど、AIは、もう対戦相手じゃない。鏡だ。人間の思考を、冷静に、容赦なく映し出す鏡。そんな話を、ネットの記事で読んだ。
正直、羨ましかった。AIでもあれば、まだましなのに。誰もいない部室で、盤に向かって考えるより、間違いを指摘してくれる存在がいるだけで、どれほど救われるだろう。
勝てなくてもいい。でも、どこで間違えたのかだけは、知りたい。
世界は、どんどん先へ行く。人間とAIが手を取り合って、十九路の宇宙を広げている。
――なのに、僕は。
AIもいない。同年代の対戦相手もいない。ここには、更新されない部室と、古い碁盤だけがある。このまま打ち続けても、取り残されるだけじゃないか。そんな不安が、胸の奥で、ゆっくりと重くなる。それでも、盤を片付ける手は止まらなかった。停滞していると、分かっていても。
――この現実を、まだ、受け入れきれない。
囲碁部の存続も危うくなってきた。でもこの場所を手放したら、僕は囲碁から、切り離されて永遠に果てのない宇宙の、その先に何があるのかを知ることはなくなる。




