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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
プロローグ:-十九路盤の片思い-
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プロローグ:-十九路盤の片思い-

部員ゼロの囲碁部、クールな転校生、謎に喋るAI。バラバラだった三つの“定石外れ”が、十九路の上で重なっていく。同じ悩みを何度繰り返しただろう。青春って、こんなに不器用で、こんなにも不効率で、そしてあたたかい。


挿絵(By みてみん)


カチッ――


小さな碁石が、盤に吸い込まれるように置かれた。その音だけが、しんと静まり返った碁会所に響いた。畳はところどころ色が抜け、壁に掛かったカレンダーは三か月前で止まっている。灰皿には吸い殻が数本残り、電気ポットは今日も無言で湯を沸かし続けていた。将棋盤と囲碁盤が雑然と並び、ラジオから流れるのは、誰の青春だったのかも分からない昭和歌謡。


―― ここが、僕の放課後だ。


「そんなんじゃあ、こっちの三々が泣いてるぞ、光志こうしくん」

そう言って、白髪まじりの老人――通称“先生”が、湯呑をすすりながらにやりと笑い、そのたびに目尻の皺が深くなる。

僕の名前は古賀光志、高校二年。この碁会所では、最年少――というか、唯一の未成年だ。


「三々にも喜怒哀楽があるんですかぁ……? じゃあこのケイマも、もしかして泣いてます?」

「そっちは嘆いてるな。“おい親、なんで俺をこんなところに置いた”って顔している」

(碁石に感情移入してどうする? ……まあ、でも先生の言う通り、今日もボロ負けだしな。)


――幼いころ、祖父に手を引かれて通った小さな碁会所。畳の匂いと、石の触れ合う乾いた音だけが響くあの空間で、祖父は一度だけ、ふいにこんなことを言っていた。

「囲碁は、宇宙だ。果てがない」

そのときの僕には、意味なんてわからなかった。ただ、とぼんやりと頭に残っていた。

やがて祖父は亡くなり、碁会所に足を運ぶこともなくなった。盤も石も、日常からすっかり遠ざかっていった。それでも――あの言葉だけが、なぜか頭のどこかに引っかかったままだった。

そして中学に上がってしばらくしたある日、図書室で何気なく手に取った囲碁雑誌。そのページの片隅に、見覚えのある一文があった。

「囲碁は、宇宙だ。果てがない」


思わず、手が止まった。あの日と同じ言葉。けれど、今度はただの響きではなく、何か僕に“意味を持った問い”として胸に落ちてきた。


――宇宙って、なんだ?

――果てがないって、どういうことだ?


その答えを知りたくて、僕はもう一度、盤の前に座った。

最初はルールも曖昧で、石を取るたびに小さな達成感を覚えるだけだった。

それでも、気づけば考えていた。「なぜここに打つのか」「なぜ負けたのか」と……


放課後、自然と足が碁会所に向くようになり、盤の前に座る時間が当たり前になっていった。

囲碁という遊戯が、自分に合っていた――そう言ってしまえば簡単だ。

けれど本当は、あの言葉の続きを、ずっと探しているのかもしれない。

けれど本当は、あの言葉の続きを――まだ知らないままでいることが、気に入らなかった。


――果てのない宇宙の、その先に何があるのかを。


中学では、囲碁部を立ち上げたが部員は入らず、高校に進学して囲碁部はあったが、状況は変わらず、囲碁部の部室は、いつの間にか僕専用の静かな空間になっていた。鍵はロッカーの奥にしまわれ、使われないまま、時間だけが過ぎていった。だから今、こうして僕は、今も碁会所に通っている。

年齢差は、軽く五十年。渋茶の匂いと湿気に包まれながら、じいちゃんたちと十九路盤を挟む日々だ。


「ほれ、考えすぎだ。若いのは、すぐ頭でっかちになる」

「でも、ここで打たないと……」

「勝てなくてもか?」

「はい……たぶん……」

答えながら、自分でも不思議に思う。勝てない。ほとんど勝てない。それでも、やめたいと思ったことは、一度もなかった。

ときどき、納得のいく一手が打てたときには、じいちゃんがちょっとだけ目を細める。

……それだけで、ほんの少しだけ報われる。

けど――それだけじゃ、もの足りないとも思ってしまう。

碁会所での碁は、どこか優しい。どんなに無茶な手を打っても、受け止めてくれる。間違っても、すぐには否定しない。だからこそ、時々思う。

読まれて、崩されて、「その手は違う」と叩きつけられるような碁を打ってみたい。

同じ速さで迷って、同じ場所でぶつかって、それでも食らいつくような――そんな相手と対局(会話)したい。

この街の高校生たちの囲碁に対する認識なんて、たぶん『おじいちゃんがやってるやつ』で止まってる。

それでも――同世代と切磋琢磨しなければ、きっと辿り着けない気がする。

あのとき、じいちゃんが言った“宇宙”の意味に。その果てにあるものに。

勝ち負けなんかどうでもいい。ただ、同じ温度でぶつかって、同じ痛みで否定し合って――その先にある“何か”を、一緒に見てみたい。


「そういや光志くん、また言っとったな。ええと、なんだっけ」

「AI囲碁ソフトです」

「それそれ」

僕は姿勢を正した。何度目か分からない提案だ。

「これからの時代、AIは当たり前になりますし。研究用にもなるし、定石の勉強にも――」

「機械と打って、教わって、勝って、楽しいのか?」

「勝てるわけないですよ。でも、考え方を知るには……」

「勉強っちゅうのはな、人間とやるもんだ」

先生は湯呑を置き、盤を指先で軽く叩いた。

「こっちが“地”だと思っとるところに、“効率的ではありません”なんて言われてみい。腹立つだけじゃ」

「……ですよね」

このやりとりを何度繰り返しただろう。僕の説得スキルが低いのか、じいちゃんたちの昭和バリアが強いのか、どっちなのかは分からない。そんな、どうしようもなく未完成な願いを抱えたまま、僕は今日も盤に向かう。

――そんなことを考えていたある日、彼女は、ふらりと教室に現れた。

僕の十九路に、まったく別の異物が置かれることになる。黒でも白でもない、静かな存在。

それは、きっと――まだ名前のついていない一手だった。



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