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第三十一局|完璧という名の檻(ケージ)

夜は、まだ終わっていなかった。

同じ時間、同じ大会の只中にありながら、その喧騒からわずかに切り離された場所で、もうひとつの盤が静かに息づいている。


魯凰は、ひとり、選手村の一室に座っていた。

机の上には、使い込まれた碁盤とタブレット端末。画面には、先ほど終えたばかりの対局の解析結果が表示されている。評価値のグラフは終始なめらかに推移し、ほとんど揺らぎを見せていない――理想的といっていい軌跡だった。

「……」

指先で画面をなぞり、ひとつ前の局面へと戻す。さらにその前へ。やがて、ひとつの分岐点で動きが止まった。

そこに示されているのは、最善手――常に、最善とされる選択の積み重ね。理屈の上では、何ひとつ間違っていないはずだった。

「……違う」

ごく小さく、呟きが漏れる。

勝っている。結果だけを見れば、何の問題もない。だが、その感触に、どこか空白が残っていた。

視線を盤へと落とす。そこに並ぶ石は、あまりにも整いすぎている。無駄がなく、隙もない――だからこそ、どこか息苦しい。


(これは、本当に“正しい”のか)

胸の奥に浮かぶその問いは、今に始まったものではない。いや――正確には、あの日から、変わることなく居座り続けているものだった。

囲碁を始めた日の記憶は、すでに曖昧だ。けれど、最初に負けたときのことだけは、はっきりと残っている。

なぜ負けたのかが、分からなかった。どこで間違えたのかも、説明できなかった。その「説明できない敗北」が、どうしても許せなかった。

だからこそ、調べた。学んだ。目に映るすべてを分解し、ひとつひとつに意味を与え、言葉にしようとした。

定石。

手筋。

布石理論。

「正しい形」を、ひとつずつ積み上げていった。

やがて、負けなくなった。読める。見える。すべてが理解できる――そう思っていた。

あの日までは。


林玥。

同じ教室で、同じ盤を挟みながら、ただひとり理解できない相手だった。

あの一局。序盤は完璧だった。中盤も主導権を握っていた。誰が見ても、自分が優勢だと分かる形だったはずだ。

だが、終盤へ入る直前――ほんのわずかな揺らぎが生まれる。

彼女の一手。意味が分からなかった。いや、読みは通っていた。理解もできていた。

それでもなお、それは――“選ばないはずの手”だった。

(なぜ、そこを打つ)

合理性がない。勝率も最善ではない。それなのに、その一手を境に、盤の流れは静かに崩れ始めた。

気づけば、自分の形が歪んでいる。想定していた未来は、どこにも残っていない。

そして――負けた。

沈黙の中で、その記憶が鮮明によみがえる。魯凰は、ゆっくりと目を閉じた。

悔しさだけではない。理解できないものに直面したときの、あの感覚。恐怖にも似た、得体の知れない揺らぎ。

そして――(……美しい)


認めたくないはずの感情が、確かにそこにあった。あの碁は、整ってはいなかった。無駄もあり、曖昧で、不確かだった。

それでも――生きていた。自分の碁には存在しない何かを、初めて突きつけられた瞬間だった。

それ以来、魯凰は変わった。より正確に。より厳密に。

一手の誤差も許さず、AIが導き出す最善手の収束点を、極限までなぞる。感情を排し、揺らぎを消し去り、“完璧”へと至る碁。

それこそが、自分の答えなのだと、そう信じてきた。


――だが。タブレットの画面に、別の棋譜が表示される。林玥。今日の対局。その手順を、ゆっくりと再生していく。

序盤は整っている。中盤に差しかかると、わずかに揺れる。そして――あのときと同じ、“選ばないはずの一手”。その瞬間、魯凰の指が止まった。

(……またか)

理解はできる。論理も通る。それでもなお、そこには説明しきれない“何か”が残る。

石が、自由に動いている。まるで盤そのものが呼吸しているかのように、流れが自然に変化していく。

魯凰は、静かに息を吐いた。

(お前は、まだ――)

変わっていない。いや、変わりながらも、なおそこに在り続けている。かつて自分を崩した“何か”を、そのまま抱えたままで。

そして。もう一人。古賀 光志。モニター越しに見た対局。

荒い。不安定。だが。どこかで、似ている。“正しくない手”を、選ぶ人間。それでも、盤に何かを残す。


(……面白い)

胸の奥で、わずかに何かが動く。それに呼応するように、口元がほんの少しだけ緩んだ。

本来なら、否定すべき対象のはずだった。理屈に収まらない手。整わない流れ。排除すべき“不確定”。

それでも――その先を見てみたいと思っている自分がいる。

自分の積み上げてきた“完璧”が、本当に正しいのか。そして、それが――崩れるのか、崩れないのか。魯凰は、机の上の石をひとつ手に取った。指先でわずかに重みを確かめながら、ゆっくりと盤の中央へとおいてみた。

天元。“カチッ。”

乾いた音が、静寂の中に溶けるように響いた。

どこにも属さない一手。だが同時に、すべてへと通じていく場所。

(次は)

ゆっくりと目を開く。

その視線は、もう迷うことなく、まっすぐ前を見据えていた。

(確かめてやる)

それは、勝機か。答えか。あるいは――かつて、自分を揺らした“何か”そのものか。

夜は、深い。だが、盤の上では。すでに、次の一手が打たれていた。



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