表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/36

第三十局|君と碁のある未来

ベトナム戦を終えた控室は、静かな熱に包まれていた。

勝った者も、負けた者も。それぞれが、自分の盤面をまだ抱えている。


「ユエ、今日はいつになく集中してたね」

ベトナム戦を終えた控室。光志が声をかけると、ユエは肩を小さくすくめた。

「……うん。でも、まだ途中だよ。大会も、私自身も」

静かな声だったが、その奥には何か強い決意が感じられた。光志はユエの隣に腰を下ろした。

「お前さ、初戦に勝ったっていうのに、まったく浮かれてないのな。俺は、負けたけど……」

「彼女は強い。あの対局、紙一重だったよ」

「そっか。でも、お前の碁……綺麗だった」

その言葉に、ユエは一瞬、驚いたように光志を見た。

「……ありがとう」

それだけ言って、視線を盤の方へ落とす。思い出しているのは、同じものだった。

ペア碁。呼吸が合わなかったあの一局。でも今は。並べる気がしている。

「なあ、俺……お前と、また打ちたいと思ってる」

「今、一緒に大会出てるじゃない」

「そうじゃなくて――対局として。個人として、ちゃんと打ちたいんだ」

ユエは少し黙って、それから静かに笑った。

「……私も」

それで十分だった。


その夜、選手村の中庭で光志はひとり、AI解析された棋譜をモニターで見つめていた。

「……この手。あの局面で……か」

終盤、ルー・ファンが指した一手は、一般的な人間の感覚からすれば“意味不明”にも思えるほど非直感的。だが、AIによれば――完璧。

「……なんだよ、この手」

思わず、つぶやく。

「彼は、そういう碁を打つ」

そこへ、後ろから静かな声が届く。ユエだった。

「……いつの間に」

「さっきから」

隣に座る。

「彼は、私の知る中で……最も“正確な碁”を打つ人」

「方針も、構想も、全部が計算に沿っている。まるで、AIそのものみたいにね。彼の中では、“完璧”でなければ意味がないの」

光志は眉をひそめる。

「息が詰まりそうだな」

「慣れてる人は、そうでもないよ」

少しだけ笑う。

「彼自身は、自由である必要を感じてないと思う。“最善だけが美しい”って、昔から言ってた」

光志は無意識に自分の石の打ち方を思い返す。

「俺とは、真逆だな。形なんて気にしないし、読んでも読んでも、自信が持てないときは直感に頼るし……結局、勝ち負けより“面白いか”で打っちゃってる」

ユエは小さく笑った。

「でも、それが“あなたの碁”だよ。機械みたいな完璧じゃないけど――誰にも真似できないもの」

光志は肩をすくめる。

「ルー・ファンから見たら、きっと俺なんて“正しくない”打ち手なんだろうな」

ユエは少しだけ視線を遠くに向けて、言った。

「……たぶん、彼はあなたの碁を“肯定”はしない。でも、“興味”は持ってる。だから、あの人……あなたを指名したんだよ」

「……!」

光志の中に、静かに緊張が走る。

「彼は、自分にないものを見ると、否定しつつも惹かれていく。自分の“完璧”が崩れるかもしれないって、どこかで怖れてるんだと思う」

「お前、そこまでわかるのか……?」

「……昔、一度だけ、彼に勝ったことがあるの」

ユエの声がほんのわずか震えた。

「私の打ち方は、彼にとって予測できなかった。でも、その時の彼……盤を睨んだまま、震えてた。“間違い”を許せない彼にとって、“感情”で打つ碁は、きっと理解の外にあったんだと思う」

「でもね、光志。きっと彼は……私だけじゃなく、“あなた”も見てる」

「は?」

(まさか……魯 凰は俺の碁に興味を持ってる?)

「……試されてる。あなたが、この大会で“何を打つか”を」

光志は息をのんだ。

その彼が、次の対局相手――

「でも、私は信じてる。あなたの碁は、彼にもちゃんと届く」

「……光志」

「ん?」

「あと、どれくらいかな」

「何が」

「こうやって」

少しだけ、言葉を探す。

「一緒にいられるの」

夜風が、少しだけ強くなる。

光志は答えない。答えられない。分かっているから。

「帰るんだよな」

やっと、言う。

「うん」

「中国」

「うん」

「……そっか」

それ以上、続かない。言葉にすると、軽くなる気がした。

少しの沈黙。でも、その沈黙は、重くない。ただ、確かにそこにある。

「じゃあ、なおさらさ……最後に、俺と打ってくれよ」

光志の声は、どこか苦しげだった。

「ユエ。お前と並んで、囲碁部を立て直して、ペア碁もやって……悔しいことも、嬉しいことも、ずっと分け合ってきた。

だからこそ――最後は、ライバルとして、一局、ちゃんと向き合いたいんだ」

言葉を置くように、光志は言った。

ユエは、その瞳をまっすぐに見つめ返し、しばらく、何も言わない。


やがて――

「うん。私も、それがいいと思う」

小さく、けれど確かな声だった。

再び、静けさが降りる。けれどそれは、さっきまでの迷いを含んだものではない。

選んだ先を、互いに受け入れたあとの静けさ。

ユエは、そっとポケットに触れる。指先に当たる、小さな感触――パンダのキーホルダー。

光志もまた、無意識に胸元へ手をやる。同じもの。けれど、今はそれぞれ別の場所にある。

並んでいた時間の名残と、これから分かれていく道の気配が、その小さな重みの中に、静かに宿っていた。

「ね」

ユエが言う。

「未来ってさ」

「うん?」

「ちゃんとあると思う?」

「……あるだろ」

「どこに」

少しだけ意地悪な聞き方。

光志は、少し考えてから言う。

「盤の上」

ユエは、一瞬だけ驚いて。

それから、ふっと笑う。

「それ、ずるい答え」

「そうか?」

「うん。でも」

一拍。

「好き」

夜空の下。

言葉は少ない。

でも。ちゃんと、伝わっている。

離れる未来。でも。終わるわけじゃない。

夜空の下、二人はしばらく何も言わずに座っていた。未来がどう転んでも――盤上でなら、きっとまた会える。だから今は、それぞれの一手を信じて。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ