第三十局|君と碁のある未来
ベトナム戦を終えた控室は、静かな熱に包まれていた。
勝った者も、負けた者も。それぞれが、自分の盤面をまだ抱えている。
「ユエ、今日はいつになく集中してたね」
ベトナム戦を終えた控室。光志が声をかけると、ユエは肩を小さくすくめた。
「……うん。でも、まだ途中だよ。大会も、私自身も」
静かな声だったが、その奥には何か強い決意が感じられた。光志はユエの隣に腰を下ろした。
「お前さ、初戦に勝ったっていうのに、まったく浮かれてないのな。俺は、負けたけど……」
「彼女は強い。あの対局、紙一重だったよ」
「そっか。でも、お前の碁……綺麗だった」
その言葉に、ユエは一瞬、驚いたように光志を見た。
「……ありがとう」
それだけ言って、視線を盤の方へ落とす。思い出しているのは、同じものだった。
ペア碁。呼吸が合わなかったあの一局。でも今は。並べる気がしている。
「なあ、俺……お前と、また打ちたいと思ってる」
「今、一緒に大会出てるじゃない」
「そうじゃなくて――対局として。個人として、ちゃんと打ちたいんだ」
ユエは少し黙って、それから静かに笑った。
「……私も」
それで十分だった。
その夜、選手村の中庭で光志はひとり、AI解析された棋譜をモニターで見つめていた。
「……この手。あの局面で……か」
終盤、ルー・ファンが指した一手は、一般的な人間の感覚からすれば“意味不明”にも思えるほど非直感的。だが、AIによれば――完璧。
「……なんだよ、この手」
思わず、つぶやく。
「彼は、そういう碁を打つ」
そこへ、後ろから静かな声が届く。ユエだった。
「……いつの間に」
「さっきから」
隣に座る。
「彼は、私の知る中で……最も“正確な碁”を打つ人」
「方針も、構想も、全部が計算に沿っている。まるで、AIそのものみたいにね。彼の中では、“完璧”でなければ意味がないの」
光志は眉をひそめる。
「息が詰まりそうだな」
「慣れてる人は、そうでもないよ」
少しだけ笑う。
「彼自身は、自由である必要を感じてないと思う。“最善だけが美しい”って、昔から言ってた」
光志は無意識に自分の石の打ち方を思い返す。
「俺とは、真逆だな。形なんて気にしないし、読んでも読んでも、自信が持てないときは直感に頼るし……結局、勝ち負けより“面白いか”で打っちゃってる」
ユエは小さく笑った。
「でも、それが“あなたの碁”だよ。機械みたいな完璧じゃないけど――誰にも真似できないもの」
光志は肩をすくめる。
「ルー・ファンから見たら、きっと俺なんて“正しくない”打ち手なんだろうな」
ユエは少しだけ視線を遠くに向けて、言った。
「……たぶん、彼はあなたの碁を“肯定”はしない。でも、“興味”は持ってる。だから、あの人……あなたを指名したんだよ」
「……!」
光志の中に、静かに緊張が走る。
「彼は、自分にないものを見ると、否定しつつも惹かれていく。自分の“完璧”が崩れるかもしれないって、どこかで怖れてるんだと思う」
「お前、そこまでわかるのか……?」
「……昔、一度だけ、彼に勝ったことがあるの」
ユエの声がほんのわずか震えた。
「私の打ち方は、彼にとって予測できなかった。でも、その時の彼……盤を睨んだまま、震えてた。“間違い”を許せない彼にとって、“感情”で打つ碁は、きっと理解の外にあったんだと思う」
「でもね、光志。きっと彼は……私だけじゃなく、“あなた”も見てる」
「は?」
(まさか……魯 凰は俺の碁に興味を持ってる?)
「……試されてる。あなたが、この大会で“何を打つか”を」
光志は息をのんだ。
その彼が、次の対局相手――
「でも、私は信じてる。あなたの碁は、彼にもちゃんと届く」
「……光志」
「ん?」
「あと、どれくらいかな」
「何が」
「こうやって」
少しだけ、言葉を探す。
「一緒にいられるの」
夜風が、少しだけ強くなる。
光志は答えない。答えられない。分かっているから。
「帰るんだよな」
やっと、言う。
「うん」
「中国」
「うん」
「……そっか」
それ以上、続かない。言葉にすると、軽くなる気がした。
少しの沈黙。でも、その沈黙は、重くない。ただ、確かにそこにある。
「じゃあ、なおさらさ……最後に、俺と打ってくれよ」
光志の声は、どこか苦しげだった。
「ユエ。お前と並んで、囲碁部を立て直して、ペア碁もやって……悔しいことも、嬉しいことも、ずっと分け合ってきた。
だからこそ――最後は、ライバルとして、一局、ちゃんと向き合いたいんだ」
言葉を置くように、光志は言った。
ユエは、その瞳をまっすぐに見つめ返し、しばらく、何も言わない。
やがて――
「うん。私も、それがいいと思う」
小さく、けれど確かな声だった。
再び、静けさが降りる。けれどそれは、さっきまでの迷いを含んだものではない。
選んだ先を、互いに受け入れたあとの静けさ。
ユエは、そっとポケットに触れる。指先に当たる、小さな感触――パンダのキーホルダー。
光志もまた、無意識に胸元へ手をやる。同じもの。けれど、今はそれぞれ別の場所にある。
並んでいた時間の名残と、これから分かれていく道の気配が、その小さな重みの中に、静かに宿っていた。
「ね」
ユエが言う。
「未来ってさ」
「うん?」
「ちゃんとあると思う?」
「……あるだろ」
「どこに」
少しだけ意地悪な聞き方。
光志は、少し考えてから言う。
「盤の上」
ユエは、一瞬だけ驚いて。
それから、ふっと笑う。
「それ、ずるい答え」
「そうか?」
「うん。でも」
一拍。
「好き」
夜空の下。
言葉は少ない。
でも。ちゃんと、伝わっている。
離れる未来。でも。終わるわけじゃない。
夜空の下、二人はしばらく何も言わずに座っていた。未来がどう転んでも――盤上でなら、きっとまた会える。だから今は、それぞれの一手を信じて。




