第二十九局|再会、そして決別
「林 玥選手が、日本代表として出場を希望……?」
会議室にざわめきが広がった。日本国際棋院の幹部たちは一様に困惑し、その中心で一人、会長が額に手を当てていた。
「前代未聞だ……」
場の空気を破ったのは、若手理事の声だった。
「いくら日本での活動実績があるからと言って、国際大会の代表に、他国の育成下にある棋士を入れる?」
「 そんなこと、中国側が認めるわけが……」
「……それが、認めたんです」
年配の事務局員が一枚の書面を掲げた。そこには、中国棋院の公式文書が貼付されていた。
《林 玥選手に限り、日本代表選出を容認する》
その文面には、ただ一行、注釈が添えられていた。
《ただし、中国代表選手との対局が保証されること》
「つまり、条件付きの承諾ってわけだな……」
「対局相手の指定なんて、通常ルールではありえないですよ」
「しかし、日本がこのまま欠員のまま出場すれば、戦力的にもメンツ的にも苦しい。最悪の場合、棄権になる」
「……私たちに、選択肢はないのかもしれませんね」
静まり返る会議室。その中で、誰かがつぶやいた。
「林 玥、彼女は、どうして....」
中国棋院。静かな対局室。シェン・シンは、その報告を淡々と聞いていた。
「日本代表、ね」
短い言葉。感情は、表に出ない。
「どう思う?」
問いかけたのはコーチだった。
シェンは少しだけ考え、答える。
「合理的じゃない」
「だろうな」
「でも」
一拍。
「彼女らしい」
視線が、盤の中央に落ちる。
何もない場所。だが、そこに石が置かれる光景が、自然に浮かぶ。
「昔から」
ぽつりと言う。
「整ってるのに、崩す」
「……評価してるのか?」
「してる」
即答。
「だから面倒」
わずかに、口元が緩む。
「勝つための碁を打てるのに、そうしないことがある」
「読めない、ってことか」
「違う」
首を横に振る。
「読めるけど、選ばない」
静かな断定。
「それが、厄介」
その目には、確かな光があった。敵意ではない。だが、軽い感情でもない。
長く積み重なった時間の中で育った、“並び立つための意識”。
「ちょうどいい」
シェンは石を持つ。
「確かめるには」
開幕前日。合同練習会場。各国の選手たちが、それぞれの準備をしている。
静かなざわめき。集中の気配。
「光志!」
その声に、古賀光志は反射的に振り向いた。
国際囲碁ワールドカップU22――開幕前日の合同練習会場。
静かなざわめきの中で、各国の選手たちがそれぞれの盤に向かい、最終調整を進めている。石の触れ合う乾いた音と、低く交わされる言葉が、空気の奥で重なっていた。
その中を、ひとりの影がまっすぐに歩いてくる。――ユエだった。
白と黒を基調とした装い。無駄のない立ち姿。あの頃と変わらない、まっすぐな視線。
一瞬、時間の感覚がずれる。部室で向かい合っていたあの日と、いま目の前にある国際舞台が、うまく結びつかない。
――本当に、ここにいるのか。
彼女が、日本代表としてこの場所に立っている。その事実は、確かに現実のはずなのに、どこか輪郭がぼやけていた。一歩、また一歩と近づいてくるその姿は、紛れもなく“今”で、夢ではないと、はっきり告げていた。
光志は、わずかに息を飲む。胸の奥で、止まっていた何かが、静かに動き出すのを感じながら。
「……本当に、出るんだね」
「うん。出るよ。だって、あなたも出るんでしょう?」
光志は小さく息を呑んだ。
「中国は、よく許してくれたね」
「……ちょっと、条件付きだけど」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「私の初戦の相手は、もう決まってるの」
「誰と?」
「シェン・シン」
その名前に、空気がわずかに変わる。記憶がよみがえる。
その名に、光志は思わず目を見開いた。高校時代、ユエと光志が“ペアを組んで負けた”相手。そして、ユエの過去と誇りを知る宿命のライバル。
あの敗北。
あの距離。
(……あのときから)
続いている。
「彼女、どういう人なんだ」
光志が聞く。ユエは少しだけ考える。
「まっすぐ」
シェン・シンは、ただの実力者ではない。ユエが中国にいた頃から、互いに競い合い、比べられ続けてきた存在。彼女の碁に、陰に日向に追いつこうとし、並び立とうとしていた。──その想いは、ライバル心であり、あるいは、執着にも近い。
「意外だな」
「でも」
目を細める。
「まっすぐすぎて、曲がらない」
「……それ、強いのか」
「強いよ」
即答。
「彼女は、今では中国女流棋士ナンバーワン。私にとっても――あのときの借りを返す、いい機会だと思う」
その言葉に、迷いはなかった。静かで、揺るぎがない。
その瞬間――少し離れた場所で、視線が交わる。光志は、無意識にそちらを向いた。
魯 凰。
名を呼ばれるまでもない。その存在は、空気の密度ごと変えていた。
同じく――ユエとペアを組み、敗れた相手。重く沈むような布石。隙を許さない読み。呼吸の間すら削り取られるような対局だった。
あのときと同じ、静けさ。だが、その奥にある鋭さは、明らかに増している。何も言わない。それでも、その眼差しだけで伝わってくる。
――今度は、容赦はしない。
盤の上でしか交わらないはずの言葉が、すでに、ここで打たれていた。
「魯 凰が、俺との対局を希望したって聞いた」
「うん。でも、たぶんそれだけじゃない」
ユエは一拍おいて言った。
「光志。あなたは、もう“見られてる”んだよ。棋士として。世界に」
その言葉には、尊敬と誇りが滲んでいた。だが、光志はその視線の向こう、魯 凰の表情に、もうひとつの色を見た気がした。
──静かな敵意。けれど、それは単に碁の強さだけを競う眼差しではなかった。
言葉にはならなかった。だが、直感は告げていた。
魯 凰にとって、自分は「盤上の相手」であると同時に、「ユエの傍にいる男」でもある。
ユエはそのことに気づいているのか、気づかないふりをしているのか――その笑顔からは、読み取れなかった。
開会式の舞台に、6カ国の代表選手たちが一列に並んだ。
韓国、台湾、ベトナム、アメリカ──それぞれに個性のある若者たち。眼鏡越しに盤面をイメージしている者、音楽を聴いて集中を高めている者、誰かの言葉に笑う者。そのなかで、光志とユエは静かに視線を交わした。
「この大会が終わったら」
ユエが、小さく言う。
「どうするの?」
「まだ決めてない」
「そっか」
短い沈黙。
「私は」
少しだけ、間を置く。
「戻るよ」
「中国に?」
「うん」
「……そっか」
それ以上は、何も言わなかった。言えないわけではない。ただ、今は言葉にする必要がないと感じていた。
再会はした。けれど、この先もずっと一緒にいられるわけではない。いずれは、それぞれの場所へ戻っていく。だからこそ、その前に――盤の上で、もう一度きちんと向き合う。それが、今の自分たちにとって一番自然な形だった。
(再会か)
(それとも)
光志は、静かに考える。想いの答えは、いつだって十九路の上にある。
大会が幕を開ける。再会と決別の物語が、盤面に刻まれていく。




