第二十八局|盤外の一手
中国・杭州――中国棋院本館。
ガラス張りの廊下の先、重厚な扉の向こうに、会議室がある。
普段は対局とは無縁の場所。だが今日は、盤の外で“手”が打たれようとしていた。
「――日本代表として出場したい、ということですか」
低い声が、室内に落ちた。
長机の向こう側。数名の幹部が並び、その中央に座る老人が、ゆっくりと視線を上げる。
林玥――ユエは、その正面に立っていた。
「はい」
短く、迷いのない返答。
空気がわずかに変わる。誰もすぐには言葉を返さない。
やがて、ひとりが口を開いた。
「前例がありません」
「理解しています」
「あなたは中国棋院所属の棋士です。育成も、登録も、すべてこちらに属している」
「承知しています」
「ではなぜ、日本代表として出場する必要があるのですか?」
問いは、まっすぐだった。
ユエは一拍、間を置く。
「……盤の上で、確かめたいことがあります」
「それは中国代表としてではできないのですか?」
「できません」
即答だった。
「相手が、そこにいないからです」
その一言に、数名の表情がわずかに動いた。
「個人的な理由ですか」
「はい」
「なおさら認められません」
冷静な切り返し。
「代表は、個人の感情で選ばれるものではない」
「分かっています」
「では」
「それでも」
ユエは、わずかに視線を上げた。
「必要です」
静かな断定。会議室に、沈黙が落ちる。
「……無茶だな」
廊下に出た瞬間、低い声が背後から響いた。振り返るまでもない。魯凰だった。
壁にもたれるように立ち、腕を組んでいる。視線はまっすぐ、だが感情は読みづらい。
「聞いてたの?」
「聞こえる」
短い返答。
「やめておけ」
「どうして?」
「意味がない」
「あるよ」
「ない」
即座に返る。
「中国代表として勝てばいい。それで証明になる」
「それじゃ足りない」
「何がだ」
ユエは、少しだけ考える。
「……同じ盤じゃない」
「?」
「立っている場所が違うと、見えるものも違う」
「言ってる意味が分からないな」
「分からなくていい」
淡々としたやりとり。だが、その奥にあるものは、静かにぶつかっていた。
魯凰は、一歩近づく。
「……あいつのためか」
その言葉に、ユエの動きが、ほんのわずかに止まる。
「光志」
名前が落ちる。
「……違う」
「嘘だな」
即答だった。
「盤の話じゃない顔をしてる」
「……」
沈黙。
魯凰は続ける。
「お前がどこで打とうが、関係ない。だが」
一拍。
「そいつの隣に立つ必要はない」
その言葉には、わずかに温度があった。
静かな拒絶。そして――ほんのわずかな、感情。
ユエは、それを受け止める。
「必要だよ」
「なぜ」
「そこじゃないと、届かないから」
「……」
「あなたには、分からないと思う」
言い切る。
魯凰の視線が、わずかに鋭くなる。
「分からないな」
「うん」
「だが」
さらに一歩近づく。
「だったら、証明しろ」
低く、静かに。
「その場所に立つ意味があることを」
その言葉は、否定ではなかった。
条件提示でもない。――挑発に近い。
ユエは、わずかに目を細めた。
「面白いじゃない」
別の声。振り向くと、そこにいたのは――シェン・シン。
ドアにもたれ、腕を組みながら、静かにこちらを見ている。
「日本代表?」
わずかに口元が緩む。
「らしくないことするね」
「そう?」
「うん」
即答。
「でも、いいと思う」
魯凰が視線を向ける。
「本気か?」
「本気」
シェンは肩をすくめる。
「だって、つまらないじゃない」
「何が」
「このままじゃ」
軽く言う。
「勝っても、負けても、予定通り」
視線がユエに向く。
「それ、退屈でしょ?」
「……」
「あなたと打つなら」
一拍。
「ちゃんとした舞台がいい」
「中国代表同士でもできる」
魯凰が口を挟む。
「違う」
シェンは首を振る。
「それじゃ意味がない」
「なぜだ」
「立場が違うから」
ユエと同じ言葉。だが、意味は少し違う。
「私はね」
石を持つ仕草をする。
「“一番”を証明したいの」
「……」
「中国の中で、じゃない」
静かな声。
「ちゃんと、外に向けて」
その視線は、まっすぐだった。
「そのためには」
ユエを見る。
「あなたに勝つ必要がある」
はっきりと。
「だから」
少し笑う。
「その条件、通したほうがいいと思うよ。あなたにとっても……」
数日後。再び、会議室。空気は前回よりも重い。
だが――流れは、変わっていた。
「条件付きでの対応か……?」
書面が机の上に置かれる。
会議室の奥。発言を控えていた一人の男が、ゆっくりと椅子を引いた。
魯凰だった。それまで一言も口を開いていなかった彼が、静かに視線を上げる。
「……私は、この提案に賛成です」
低く抑えた声。しかし、その一言で場の空気がわずかに揺れた。
「魯凰……?」
意外そうな声が漏れる。
彼は気に留める様子もなく、言葉を続けた。
「林玥は、日本の碁に触れて、強くなり、中国に帰ってきた」
短い間。
「それは、否定すべきことではない」
視線はまっすぐ前へ。感情は見せない。だが、その言葉には確かな重みがあった。
「外に出て、学び、戻る。それは――自然な流れです」
一拍置く。
「中国は、礼節を重んじる国です」
その一言に、何人かの表情がわずかに変わる。
「ならば」
「礼においては、礼で返す。その上で……」
静かな断言だった。
会議室に、短い沈黙が落ちる。
魯凰はそれ以上語らない。だが、その場にいる誰もが理解していた。
これは理屈だけではない。盤上で決着をつけるという、彼自身の意志でもある。
そのとき、別の席から小さな笑いが漏れた。
「……ふふ、いいじゃない」
シェン・シンだった。
「条件としては、むしろ歓迎よ」
頬杖をつきながら、軽く続ける。
「どうせなら――はっきりさせましょう」
細められた視線。
「誰が“一番”なのか」
空気が、再びわずかに動いた。
競技としての囲碁。個としての誇り。それぞれの思惑が、静かに一点へ収束していく。
沈黙。そして――
「それでは、認めよう。日本代表としての出場を容認する。ただし――」
読み上げる。
「こちら側での対局の組み合わせを保証すること」
「さらに」
「魯凰選手、シェン・シン選手との対局機会を含む」
「……ほぼ指名だな」
「異例すぎる」
「だが」
誰かが言う。
「理屈は通っている」
その一言で、場の流れは静かに定まった。
誰かが強く押したわけでも、劇的に覆ったわけでもない。
けれど、確かに――盤は、そこへと傾いた。
会議室を出た廊下で、ユエは足を止める。張り詰めていたものをほどくように、ゆっくりと息を吐いたそのとき、ポケットの中で、かすかな振動が伝わる。
スマートフォンが、静かに震えていた。
《成立しました?》
幻影ちゃん。
「うん」
短く答える。
《かなり無理のある手でしたね!》
「そうだね」
《ただし》
一拍。
《局面は動きました》
少しだけ、笑う。
「でしょ」
《評価値は揺れています》
「それでいい」
《安定はしません》
「うん」
視線を上げる。
「でも」
窓の外、広がる都市。
「止まってるよりは、いい」
《同意します》
静かな応答。
ユエは、目を閉じる。そして、開く。
(これでいい)
盤の外で打った一手。その意味は――これから、盤の上で証明される。




