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第二十七局|旅立ちの局面

挿絵(By みてみん)


「ギリギリだったな」


その一言に、古賀光志は力なく笑った。

結果発表の掲示板。そこには確かに、彼の名前があった。


日本代表選抜、三枠。その、最後のひとつ。得失点差すれすれの勝率で、どうにか滑り込んだ結果だった。届いたはずの場所。目指していたはずの舞台。

それでも――その実感だけが、どこか遠かった。


「……はい」

返事は短い。

岩田先生が腕を組み、静かに頷く。

少し離れたところで、長嶺先生がいつもの穏やかな表情で見ている。

そして、そのさらに奥。本因坊昌覺が、じっとこちらを見ていた。

「ここからだな」

低い声。

「はい」

光志は頷く。

その言葉に、余計な飾りはない。ただ、重さだけがある。


──国際囲碁ワールドカップU22。

2年に一度開催される若手棋士を中心とした囲碁の国際大会。各国三名、総当たり形式で争われる団体戦で、日本は代表三枠を決めるのに例年以上の苦悩を強いられていた。国内予選は過去最国内予選は過去最激戦と言われ、ネットでは「新世代の台頭」を象徴する年だと騒がれていた、その中に、光志は代表に名を連ねた。

しかし、その次の知らせが、彼の心をざわつかせた。


「……代表辞退?」

思わず、声が漏れる。

長嶺先生が静かに説明する。

「二位だった浦島くんがね。急に」

「どうして」

「留学だそうです。準備の都合で」

「……そんな」

言葉が続かない。

岩田先生が小さく息を吐く。

「仕方ない話ではある」

「でも」

「現実だ」

短い断定。

重い沈黙が落ちる。ひとつ空いた席。それをどうするか。

簡単な問題ではない。繰り上げるのか。再選考か。あるいは――

「最悪の場合、出場枠を減らす可能性もある」

「……え」

「間に合わなければ、な」

光志の背筋に、冷たいものが走る。

(せっかく……)

ここまで来たのに。

やっと、届いた場所なのに。

(ここで終わるのか?)


光志の背筋に、冷たいものが走った。

国内で代表が確定しなければ、国際舞台に立つことすらできない。

せっかく手にしたはずの切符も、状況ひとつで、簡単に白紙に戻るかもしれない。


――ユエに会う機会も、失われる。

そんな考えがよぎった瞬間、胸の奥がわずかに沈んだ。

現実は、思っているよりも脆い。積み上げたものほど、あっけなく崩れる。


協会では今、緊急会議が開かれ、各方面から、さまざまな意見が飛び交っている。

「他の選手にチャンスを」

そう主張する声もあれば、

「棄権すべきだ」という強硬な意見さえある。

結論は出ないまま、時間だけが過ぎていく。

数日後――その話題は、静かに広がっていた。日本国内にとどまらず、海の向こうへと。


中国・杭州にある中国棋院の施設でも、そのニュースが耳に届いていた。

「──日本代表、欠員?」

そうつぶやいたのは、林 リン・ユエ

囲碁盤に向かっていた彼女の指が止まった。淡々と石を打ち続けていた対局相手が、怪訝そうに眉を上げる。

「気になるの?集中しなよ」

「……ごめん。少しだけ、席を外すね」

盤面に礼をして、ユエは静かに部屋を出た。中国棋院の高層階から見下ろす都市の風景は、どこか冷たく、遠かった。

(……光志)

名前を口にすることはなかった。けれど、その思いは、確かにそこにあった。

彼が代表に選ばれたことは知っている。日本での選考状況も、表には出さず、“幻影ちゃん”を通して、ひそかに追っていた。

成績がぎりぎりだったことも、理解している。

ユエの目から見れば、光志は確かに強くなっていた。数字では測りきれない変化が、盤上には、はっきりと現れていた。だからこそ、もし、その積み重ねが、大会出場という形で評価されないのだとしたら――


(光志の石は、ようやく“響く音”を持ち始めたのに)

その舞台そのものが、消えてしまうかもしれない。それは、どうしても、納得がいかなかった。

スマートフォンが震える。画面に、見慣れた名前。

《最新情報です》

幻影ちゃん。

ユエは小さく息をつく。

「タイミング良すぎ」

《偶然です》

「絶対違う」

《否定はしません》

いつものやりとり。

少しだけ、気が緩む。

「状況は」

《混迷しています》

「簡単に」

《決まっていません》

「知ってる」

《補足します》

一拍。

《光志くん、少しだけ落ち込んでいます》

「……そう」

《ただし》

「まだあるの」

《打つ気は失っていません》

その一文に、視線が止まる。

(あの人らしい)

少しだけ、笑う。

崩れそうで、崩れない。不安定で、でも前に進む。そんな石。

(だったら)

ふと、考える。盤の上の選択のように。いくつかの手が浮かぶ。

現実的な手。無難な手。そして。ひとつだけ。少し外れた手。

「……ねえ」

ユエは小さくつぶやく。

「もし」

《はい》

「ありえない選択をしたら」

《定義によります》

「常識的じゃないやつ」

《評価は分かれます》

「でも、成立するなら?」

《興味深いです》

「……通ると思う?」

《可能性はゼロではありません》

「ゼロじゃない、か」

《むしろ》

少し間を置いて。

《そういう手でしか、変わらない局面もあります》


囲碁は、言葉を超える対話だと、かつて誰かが言っていた。

ユエにとって、光志の石は、不器用で、遠回りで、それでもどこまでも誠実だった。

だからこそ――その石が打たれない十九路の盤だとしたら、きっと寂しい。

窓の外を、静かな風がなぞる。都市の光が、かすかに揺れる。

整っているはずの景色。それでも、どこかにわずかな歪みがある。


盤の上と、よく似ている。

均衡の中に、ほんの少しだけ生まれる“隙”。そこにこそ、打ち込める場所がある。

(……だったら)

答えは、もう出ている。理屈じゃない。でも。間違っていない気がする。


「私が、日本代表として...」

声にならない囁きが、心の奥からこぼれ落ちた。

日本代表として出場する――


しかしそんな前例はない。中国棋院も、日本国際棋院も、簡単に首を縦に振るとは思えなかった。

それでも、彼が、あの場所に立つためなら。

――いや、違う。

胸の奥で、言葉が静かに形を変える。

彼のそばで、彼の碁を、この目で見届けることができるなら。


《大胆ですね》

「そう?」

《らしいです》

「どっちの意味?」

《両方です》

少しだけ笑う。

「無理かもしれない」

《はい》

「でも」

窓の外を見る。

「打たない理由にはならない」

《同意します》


遠く離れた場所で、同じ盤を思い描く。同じ時間に、別々の十九路に向かっている。

まだ交わらない線。けれど、その軌跡はどこかで重なっている気がした。打つべき場所は、はっきりと見えている。

それは理屈ではなかった。熱に浮かされた衝動でも、焦がれるような感情でもない。

ただ――同じ碁を打つ者として、あの十九路の彼方で、もう一度、向かい合いたい。

その想いは、盤上の星に導かれるように、静かに一点へと収束していく。

理由はない。ただ、そこに打つべきだと、そんな気がする。


夜の都市に灯るネオンが、ふと、黒と白の配置に重なって見えた。整っているはずの光が、どこかで歪み、わずかな余白を生んでいる。

――そこに、手は届く。

遠く離れたこの街にまで、彼の打つ石の響きが届いてくるような気がした。

ユエは静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと開く。

もう、迷いはない。その一手は――盤の外へと、確かに打たれた。



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