第二十四局|再会しない再会
久しぶりに訪れた高校は、どこか少しだけ小さく見えた。
校門も、校舎も、何ひとつ変わっていないはずなのに――距離の測り方だけが、自分の中で変わってしまったような感覚がある。
足を進めるたびに、風に混じる匂いが、断片的な記憶を呼び起こす。
懐かしい、というよりも。ここはもう過去ではなく、ただ自分が離れていただけの“続いている場所”なのだと、静かに知らされる。
廊下を抜け、囲碁部の部室の前で足を止める。見慣れたはずの扉が、ほんのわずかに遠く感じられた。
ノブに手をかけ、ゆっくりと押す。きしむ音とともに開いた先に、変わらない空気があった。
――いや、ひとつだけ、違う。
部室の中には、ひとりの生徒がいた。碁盤に向かい、微動だにせず、じっと考えている。
静かな空間の中で、その姿だけが、盤上の一手のように際立って見えた。
制服の胸元に、小さな名札が光る。――多田。
「……あの」
声をかけると、少年が顔を上げる。
一瞬、止まる。
次の瞬間、ぱっと表情が変わった。
「え、ちょっと待って」
立ち上がる。
「もしかして……古賀先輩っすか?」
「一応、そうなるな」
苦笑しながら答える。
「うわ、マジか」
多田は一歩近づいて、まじまじと見る。
「本物だ……」
「レアキャラ扱いやめろ」
「だって幻影ちゃんが“かつてのエース”って言ってたんで」
「誇張がすぎる」
「部員二人しかいなかったって話も聞いてます」
「事実だな」
「逆にすごくないっすか」
「何がだよ」
「絶滅寸前で存続してる感じ」
「褒めてるのかそれ」
「半分くらい」
軽いテンポ。そのやりとりが、妙に心地いい。
多田はふと視線を落とす。
「……あ、それ」
光志のポケット。覗く小さなキーホルダー。
「まだ現役なんすね」
「まあな」
「縁起物っすか?」
「どうだろうな」
「だいぶ年季入ってますけど」
「否定はしない」
「いいなあ」
「何がだよ」
「そういうの、持ってるの」
少し照れたように笑う。
その言葉に、光志は一瞬だけ返事に迷う。軽く頷くだけにして、視線を奥へ向けた。
棚の上。見慣れた端末。あの頃と同じ場所に、それはあった。
「……まだあるんだな」
近づく。画面に触れる。すぐに、淡い光が灯る。
《おかえりなさい》
「久しぶりだな」
《約五百十五日ぶりです》
「細かいな」
《記録していますので》
「相変わらずだな」
《進化もしています》
「例えば?」
《落語の理解度が向上しました》
「そこじゃない」
多田が横で吹き出す。
「マジで言ってるんすか、それ」
「たぶんな」
《笑いの構造は囲碁にも通じます》
「便利な理屈だな」
少しだけ間があって。光志は、ふと聞く。
「……ユエは」
短い問い。
《最近、林玥さんの棋譜もよく更新されていますよ。以前よりも柔軟性と創造性が増しています》
「……ユエの棋譜?」
《最新の棋譜、表示します》
幻影ちゃんの画面が、かすかに切り替わる。表示されたのは、盤上に再現されたユエの最新の棋譜だった。そこには、AI的な合理性が確かにあった。無駄を削ぎ落とし、最短距離で地へと収束していく、整いすぎた進行。
――けれど、その奥に。
わずかに、別の気配が混じっている。
見慣れたはずのリズム。それでも、どこか違う。
序盤は、きれいに整っている。迷いはなく、形も崩れない。AIが示す“正しさ”を、そのままなぞるような布石。だが、中盤に差しかかったあたりで、空気がわずかに変わる。
ほんの一手。合理性から、ほんのわずかだけ逸れる選択。効率だけでは説明できない、余白のようなものが、盤上に残されていた。
「……ここ」
光志がつぶやく。
普通なら選ばない位置。少し遠い一手。形は、やや崩れる。だが。
「つながってる」
自然に言葉が出る。石が呼応する。局面が、ゆっくり動く。
《柔軟性と創造性が向上しています》
「だな」
終盤まで進める。精度は落ちない。むしろ、安定している。
「……ちゃんと勝ってる」
《はい》
「すげぇな」
思わず漏れる。
「え、それ誰っすか?」
多田が身を乗り出す。
「昔の仲間」
「強いんすか」
「めちゃくちゃな」
「いいなあ……」
素直な声。少しだけ、羨ましさが混じる。
光志は、もう一度盤面を見る。
(AIの土台……その上に)
合理的な進行。崩れない形。その上に。
(自由に、乗せてる)
かつての自分とは、順番が違う。
あの頃の自分は、自由に打つことから入り、あとから形を整えようとしていた。
けれど――今、目の前にあるのは、その逆だ。まず、徹底的に整える。
無駄を削ぎ、形を極め、揺るがない土台をつくる。そのうえで、あえて崩す。
だからこそ、その一手は、崩れていない。外れているように見えて、盤全体の中で、きちんと生きている。
――成立している。
《補足情報があります》
幻影ちゃんの表示が変わる。
《光志くんの棋譜も、定期的に参照されています》
「……誰に」
《推測は可能です》
「言わなくていい」
《了解です》
短い沈黙。
多田が小さく笑う。
「なんか、見えない対局っすね」
「……そうだな」
「負けられないやつ」
「たぶんな」
そのとき、背後から足音。
「来てたんですね」
振り向くと、長嶺先生が立っていた。
「久しぶりです」
「お久しぶりです」
軽く頭を下げる。
「この子たち、君の棋譜見て入ってきたんですよ」
「……マジで?」
「ええ。刺激が強かったみたいで」
「悪影響じゃないといいけどな」
「どうでしょうね」
少し笑う。
「この端末も、少し手を入れてみました」
「手を?」
「思考の幅を広げる方向に」
幻影ちゃんの画面を軽く叩く。
「無駄とか、寄り道とか。そういうのを少し」
「AIに?」
「意外と相性いいんですよ」
穏やかな声。
「最近、“変な最善手”を出すようになりましてね」
《訂正します》
《“興味深い最善手”です》
「言い方の問題か?」
《重要です》
多田がまた笑う。
「このAI、キャラ濃いっすね」
「前からだ」
部室を出る。廊下を歩く。夕方の光が、少し長く伸びている。
ポケットの中のキーホルダーに触れる。少しだけ、温度が残っている気がした。
(……そうか)
ゆっくりと、考えがまとまる。
勝つための碁。負けないための選択。それは、必要だ。土台になる。でも、それだけでは足りない。
(その上に)
もう一つ。あの一手。盤の空気を変える手。心が、少しだけ動く瞬間。
(震える一手)
言葉が、すとんと落ちる。無理に作るものじゃない。てらうわけでもない。積み重ねた上で、現れるもの。技術の上に、感情がある。
「……いいかもしれないな」
小さくつぶやく。
《何がですか》
「目指す碁」
《定義されましたか》
「たぶんな」
《共有を推奨します》
「やめとく」
《残念です》
軽い応酬。それでも、どこか噛み合っている。
(“勝つための碁”を礎に、“心が震える一手”を打てたなら──それが、俺の理想だ)
反比例ではない。“楽しさ”は、勝利の上に積み重ねることもできるのだ。
歩きながら、空を見上げる。まだ途中だ。でも。進む方向は、少しだけはっきりしていた。




