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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
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第二十四局|再会しない再会

久しぶりに訪れた高校は、どこか少しだけ小さく見えた。

校門も、校舎も、何ひとつ変わっていないはずなのに――距離の測り方だけが、自分の中で変わってしまったような感覚がある。

足を進めるたびに、風に混じる匂いが、断片的な記憶を呼び起こす。

懐かしい、というよりも。ここはもう過去ではなく、ただ自分が離れていただけの“続いている場所”なのだと、静かに知らされる。

廊下を抜け、囲碁部の部室の前で足を止める。見慣れたはずの扉が、ほんのわずかに遠く感じられた。


ノブに手をかけ、ゆっくりと押す。きしむ音とともに開いた先に、変わらない空気があった。

――いや、ひとつだけ、違う。

部室の中には、ひとりの生徒がいた。碁盤に向かい、微動だにせず、じっと考えている。

静かな空間の中で、その姿だけが、盤上の一手のように際立って見えた。

制服の胸元に、小さな名札が光る。――多田。


「……あの」

声をかけると、少年が顔を上げる。

一瞬、止まる。

次の瞬間、ぱっと表情が変わった。

「え、ちょっと待って」

立ち上がる。

「もしかして……古賀先輩っすか?」

「一応、そうなるな」

苦笑しながら答える。

「うわ、マジか」

多田は一歩近づいて、まじまじと見る。

「本物だ……」

「レアキャラ扱いやめろ」

「だって幻影ちゃんが“かつてのエース”って言ってたんで」

「誇張がすぎる」

「部員二人しかいなかったって話も聞いてます」

「事実だな」

「逆にすごくないっすか」

「何がだよ」

「絶滅寸前で存続してる感じ」

「褒めてるのかそれ」

「半分くらい」

軽いテンポ。そのやりとりが、妙に心地いい。

多田はふと視線を落とす。

「……あ、それ」

光志のポケット。覗く小さなキーホルダー。

「まだ現役なんすね」

「まあな」

「縁起物っすか?」

「どうだろうな」

「だいぶ年季入ってますけど」

「否定はしない」

「いいなあ」

「何がだよ」

「そういうの、持ってるの」

少し照れたように笑う。

その言葉に、光志は一瞬だけ返事に迷う。軽く頷くだけにして、視線を奥へ向けた。

棚の上。見慣れた端末。あの頃と同じ場所に、それはあった。

「……まだあるんだな」

近づく。画面に触れる。すぐに、淡い光が灯る。

《おかえりなさい》

「久しぶりだな」

《約五百十五日ぶりです》

「細かいな」

《記録していますので》

「相変わらずだな」

《進化もしています》

「例えば?」

《落語の理解度が向上しました》

「そこじゃない」

多田が横で吹き出す。

「マジで言ってるんすか、それ」

「たぶんな」

《笑いの構造は囲碁にも通じます》

「便利な理屈だな」

少しだけ間があって。光志は、ふと聞く。

「……ユエは」

短い問い。

《最近、林玥さんの棋譜もよく更新されていますよ。以前よりも柔軟性と創造性が増しています》

「……ユエの棋譜?」


《最新の棋譜、表示します》

幻影ちゃんの画面が、かすかに切り替わる。表示されたのは、盤上に再現されたユエの最新の棋譜だった。そこには、AI的な合理性が確かにあった。無駄を削ぎ落とし、最短距離で地へと収束していく、整いすぎた進行。


――けれど、その奥に。

わずかに、別の気配が混じっている。

見慣れたはずのリズム。それでも、どこか違う。

序盤は、きれいに整っている。迷いはなく、形も崩れない。AIが示す“正しさ”を、そのままなぞるような布石。だが、中盤に差しかかったあたりで、空気がわずかに変わる。

ほんの一手。合理性から、ほんのわずかだけ逸れる選択。効率だけでは説明できない、余白のようなものが、盤上に残されていた。


「……ここ」

光志がつぶやく。

普通なら選ばない位置。少し遠い一手。形は、やや崩れる。だが。

「つながってる」

自然に言葉が出る。石が呼応する。局面が、ゆっくり動く。

《柔軟性と創造性が向上しています》

「だな」

終盤まで進める。精度は落ちない。むしろ、安定している。

「……ちゃんと勝ってる」

《はい》

「すげぇな」

思わず漏れる。

「え、それ誰っすか?」

多田が身を乗り出す。

「昔の仲間」

「強いんすか」

「めちゃくちゃな」

「いいなあ……」

素直な声。少しだけ、羨ましさが混じる。

光志は、もう一度盤面を見る。

(AIの土台……その上に)

合理的な進行。崩れない形。その上に。

(自由に、乗せてる)


かつての自分とは、順番が違う。

あの頃の自分は、自由に打つことから入り、あとから形を整えようとしていた。

けれど――今、目の前にあるのは、その逆だ。まず、徹底的に整える。

無駄を削ぎ、形を極め、揺るがない土台をつくる。そのうえで、あえて崩す。

だからこそ、その一手は、崩れていない。外れているように見えて、盤全体の中で、きちんと生きている。

――成立している。

《補足情報があります》

幻影ちゃんの表示が変わる。

《光志くんの棋譜も、定期的に参照されています》

「……誰に」

《推測は可能です》

「言わなくていい」

《了解です》

短い沈黙。

多田が小さく笑う。

「なんか、見えない対局っすね」

「……そうだな」

「負けられないやつ」

「たぶんな」

そのとき、背後から足音。

「来てたんですね」

振り向くと、長嶺先生が立っていた。

「久しぶりです」

「お久しぶりです」

軽く頭を下げる。

「この子たち、君の棋譜見て入ってきたんですよ」

「……マジで?」

「ええ。刺激が強かったみたいで」

「悪影響じゃないといいけどな」

「どうでしょうね」

少し笑う。

「この端末も、少し手を入れてみました」

「手を?」

「思考の幅を広げる方向に」

幻影ちゃんの画面を軽く叩く。

「無駄とか、寄り道とか。そういうのを少し」

「AIに?」

「意外と相性いいんですよ」

穏やかな声。

「最近、“変な最善手”を出すようになりましてね」

《訂正します》

《“興味深い最善手”です》

「言い方の問題か?」

《重要です》

多田がまた笑う。

「このAI、キャラ濃いっすね」

「前からだ」

部室を出る。廊下を歩く。夕方の光が、少し長く伸びている。

ポケットの中のキーホルダーに触れる。少しだけ、温度が残っている気がした。

(……そうか)

ゆっくりと、考えがまとまる。

勝つための碁。負けないための選択。それは、必要だ。土台になる。でも、それだけでは足りない。

(その上に)

もう一つ。あの一手。盤の空気を変える手。心が、少しだけ動く瞬間。

(震える一手)

言葉が、すとんと落ちる。無理に作るものじゃない。てらうわけでもない。積み重ねた上で、現れるもの。技術の上に、感情がある。

「……いいかもしれないな」

小さくつぶやく。

《何がですか》

「目指す碁」

《定義されましたか》

「たぶんな」

《共有を推奨します》

「やめとく」

《残念です》

軽い応酬。それでも、どこか噛み合っている。


(“勝つための碁”を礎に、“心が震える一手”を打てたなら──それが、俺の理想だ)

反比例ではない。“楽しさ”は、勝利の上に積み重ねることもできるのだ。

歩きながら、空を見上げる。まだ途中だ。でも。進む方向は、少しだけはっきりしていた。



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