第二十五局|代表選抜
日本国際棋院の特別対局室。
合宿の最終日、その静かな一室で、ナショナルチーム代表選抜の総当たり戦が始まった。
集められたのは、若手棋士八名。この中から選ばれるのは、わずか三人だけだ。
盤は八つ。石音だけが、規則正しく室内に響いている。誰も言葉を発さない。けれど、沈黙の奥で、それぞれの思考が激しくぶつかり合っていた。
一局が終わるごとに、空気は少しずつ重さを増していく。勝てば、代表へと一歩近づく。負ければ、その分だけ遠ざかる。
単純な構図。だからこそ、逃げ場がない。
盤の前に座るたびに、その事実だけが、静かに、しかし確実にのしかかってきた。
光志の初戦。相手は序盤型に強い厚み派の攻撃型棋士だった。
「星・三々……うーん、やっぱり“型”に逃げてるな……」
序盤、ツケ引き定石から小ゲイマで展開しようとした瞬間、ふと手が止まる。
直感が鈍っていた。右上の一間バサミをためらった。中央の模様への展開が読めず、後手に回った。
(……落ち着け)
心の中で言い聞かせる。
中盤。右上の攻防。本来なら踏み込める場面。少し強く当たれば、流れは動く。
(ここで……)
考える。だが、選んだのは受け。安全な一手。
形は保たれる。だが、主導権は渡る。
(……またか)
自分でも分かる。守りに入っている。勝ちに行くための選択のはずが、結果として、勝ちから遠ざかる。
終局。
「……ありません」
短く頭を下げる。盤には、大きな差はない。それでも、負けは負けだった。
二戦目、負けはしなかったがどこか“勝ち筋”ばかりに目がいき、読みと感覚のバランスを崩していた。
「また守りに入ってる……“楽しく打つ”って、どこに行った」
三戦目。
崩れない。だが、決めきれない。
優勢な局面で、ほんのわずかに手が鈍る。確定を急ぐあまり、選択肢を自ら狭めてしまう。
その一瞬の硬さが、局面の幅を奪い、ほんの小さな緩みが、気づけば差を消していく。
(違う)
分かっている。進むべき方向は、もう見えているはずなのに。
(身体が、ついてこない)
盤の前で、思考と手が微妙に噛み合わない。
選びたい手と、実際に選んでしまう手――そのあいだに、薄い膜のような隔たりがある。
中盤までは、確かに優勢だった。流れも、形も、悪くなかった。
それでも、ヨセに入ったわずかな一瞬。ほんの小さなためらいが、すべてを狂わせる。
気づいたときには、もう遅い。――“勝てる碁を落とす”。
その言葉を、そのまま盤上に写したような一局だった。
「勝ちに行こうとして、負けてどうする……」
控え室。棋譜を見返す。勝てた碁。落とした碁。差は、はっきりしている。
「……また守りに入ってる」
小さくつぶやく。
幻影ちゃんの表示が、静かに点る。
《確認しました》
「どうだった」
《安定しています》
「その言い方、やめろ」
《勝率的には悪くありません》
「でも勝ててない」
《はい》
短い肯定。
《理由は明確です》
「言ってみろ」
《選択が収束しています》
「……簡単に」
《幅が狭いです》
沈黙。
「……分かってる」
《実行できていません》
「分かってるって」
少し強く言う。
画面は変わらない。
《補足します》
「まだあるのか」
《恐れている状態です》
「……何を」
《不確定性を》
その言葉が、静かに刺さる。
四戦目。
盤の前に座る。呼吸を整える。石を持つ。
(もう一度)
あの言葉がよぎる。問いかける碁。そして。
(震える一手)
指先に、わずかな重みが乗る。
盤の中心。何もない場所。そこに、視線が落ちる。
一瞬。迷いが来る。次の瞬間。それを越える。
“カチッ。”
天元。
盤の中心に、黒が静かに置かれる。その瞬間、空気がわずかに動いた。
相手の手が止まり、周囲の気配も、ほんの少しだけ揺れる。
意味を持たないようでいて、確かに意味を孕んだ一手。どこにも属さない。だが、どこへでもつながる。
相手は二連星。整った構え。それに対して、光志は三々へと踏み込む。
形を崩す。均衡を、ほんのわずかにずらす。
さらに一間トビ。中央と辺の境界を曖昧にし、局面そのものを混ぜていく。
(……いい)
呼吸が合う。石の流れが、手の内側でほどけるように見えてくる。
相手が整えようとするほど、わずかな歪みが生まれ、そこに触れる。深追いはしない。ただ、静かに揺らす。
中盤。中央には、緩やかな模様が広がっていく。確定はしない。それでも、確かに効いている。
(これだ)
言葉にしなくても分かる。盤と、自分の距離が、これまでよりも近い。
――その一局は、僅差で落とした。
終盤、ほんのわずかな読み違い。一目、届かない。
「……ありません」
静かに頭を下げる。悔しさは、確かにある。けれど。
(……違う)
これまでの敗北とは、質が違っていた。
負けはしたが、それでも、何かを掴んでいる。
盤を見つめる。そこには、まだ消えていない手応えが、確かに残っていた。
五戦目、六戦目。
迷いは、まだ完全には消えていない。
それでも――踏み込むべき場面で、手が自然と前に出るようになっていた。
守るだけの選択を、ひとつ外す。その代わりに、局面をわずかに揺らす一手を選ぶ。
左辺の攻防。そこで放ったのは、軽いノゾキ。
一見すれば、損にも見える手。だが、その一手が相手の応手を限定する。
受け方が絞られた瞬間、形にわずかな歪みが生まれる。そして、その歪みを起点に、盤上の流れが静かに変わっていった。
「どこまで見てるんだ、古賀……」
他の棋士がつぶやく。だが、その手は確かに盤面に“音”を生んでいた。
──そして、最終戦。相手は、加藤大河。
AI至上主義を貫く加藤の碁は、相変わらず正確無比だった。
「さあ」
加藤が軽く言う。
「今日はどっちで来ます?」
「どっちって」
「安全か、面白いか」
少し笑う。
「両方だよ」
光志は短く返す。
「欲張りっすね」
「そうでもない」
石を持つ。置く。対局が始まる。
序盤は互角に進む。
加藤の打ち方は、これまでと何も変わらない。正確で、無駄がなく、最善とされる一手を淡々と積み重ねてくる。
盤は、整っていく。余白を残さず、誤差を許さない進行。
その流れに、光志も合わせる。
正面から外れることなく、同じリズムで石を運びながら――ほんのわずかだけ、筋をずらす。
完全には崩さない。だが、相手にも、完全には整えさせない。
中盤。右辺での攻防。加藤は早くも模様を確定させにかかり、実利を優先した手を選ぶ。
その一手を見た瞬間、光志の中で、何かがわずかに引っかかった。
――揺らぎ。
ほんの僅かだが、確かにそこにあった。
(……ここ)
わずかな違和感。揺らぎ。ほんの少しの隙。光志は、その内側に踏み込む。
厚みに触れる。
切りを誘う。
応じさせる。
流れを変える。
「っ……」
加藤の指が、わずかに止まる。中央に、空間が生まれる。そこに、石を置く。
“カチッ。”
石音が、はっきりと響いた。その一手で、盤の奥行きが、わずかに深くなる。
終盤。形勢は僅差。どちらに転んでもおかしくない、張り詰めた均衡。
加藤は詰めてくる。正確に、無駄なく、削り取るように。
それに対して、光志は――選ぶ。
安全な手ではない。勝率だけをなぞる一手でもない。
“打ちたい手”を、置く。
盤の流れに、抗うのではなく、静かに乗せるように。その一手は、どこか自然で、しかし確かに局面を動かしていた。
そして――それが、そのまま差になる。
「……ありません。」
加藤が静かに言う。石を置く音が止まる。数秒の静寂。やがて、小さなざわめき。
誰かが息を吐く。
「これが……古賀の碁か」
結果。四勝三敗。ぎりぎりのライン。
それでも。名前が呼ばれる。
「――古賀光志」
その瞬間、肩の力が抜ける。天井を見上げる。ゆっくりと、息を吐く。
(勝つための碁)
必要だ。
(その上で)
もう一つ。
(震える一手)
それを、選べるかどうか。
それが、自分の碁。
「……悪くないな」
小さくつぶやく。ポケットの中のキーホルダーが、わずかに揺れた。
確立は、終わりではない。ここから、続いていく。




