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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
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第二十五局|代表選抜

日本国際棋院の特別対局室。

合宿の最終日、その静かな一室で、ナショナルチーム代表選抜の総当たり戦が始まった。

集められたのは、若手棋士八名。この中から選ばれるのは、わずか三人だけだ。


盤は八つ。石音だけが、規則正しく室内に響いている。誰も言葉を発さない。けれど、沈黙の奥で、それぞれの思考が激しくぶつかり合っていた。

一局が終わるごとに、空気は少しずつ重さを増していく。勝てば、代表へと一歩近づく。負ければ、その分だけ遠ざかる。

単純な構図。だからこそ、逃げ場がない。

盤の前に座るたびに、その事実だけが、静かに、しかし確実にのしかかってきた。


光志の初戦。相手は序盤型に強い厚み派の攻撃型棋士だった。

「星・三々……うーん、やっぱり“型”に逃げてるな……」

序盤、ツケ引き定石から小ゲイマで展開しようとした瞬間、ふと手が止まる。

直感が鈍っていた。右上の一間バサミをためらった。中央の模様への展開が読めず、後手に回った。

(……落ち着け)

心の中で言い聞かせる。

中盤。右上の攻防。本来なら踏み込める場面。少し強く当たれば、流れは動く。

(ここで……)

考える。だが、選んだのは受け。安全な一手。

形は保たれる。だが、主導権は渡る。

(……またか)

自分でも分かる。守りに入っている。勝ちに行くための選択のはずが、結果として、勝ちから遠ざかる。

終局。

「……ありません」

短く頭を下げる。盤には、大きな差はない。それでも、負けは負けだった。


二戦目、負けはしなかったがどこか“勝ち筋”ばかりに目がいき、読みと感覚のバランスを崩していた。

「また守りに入ってる……“楽しく打つ”って、どこに行った」


三戦目。

崩れない。だが、決めきれない。

優勢な局面で、ほんのわずかに手が鈍る。確定を急ぐあまり、選択肢を自ら狭めてしまう。

その一瞬の硬さが、局面の幅を奪い、ほんの小さな緩みが、気づけば差を消していく。

(違う)

分かっている。進むべき方向は、もう見えているはずなのに。

(身体が、ついてこない)

盤の前で、思考と手が微妙に噛み合わない。

選びたい手と、実際に選んでしまう手――そのあいだに、薄い膜のような隔たりがある。

中盤までは、確かに優勢だった。流れも、形も、悪くなかった。

それでも、ヨセに入ったわずかな一瞬。ほんの小さなためらいが、すべてを狂わせる。

気づいたときには、もう遅い。――“勝てる碁を落とす”。

その言葉を、そのまま盤上に写したような一局だった。

「勝ちに行こうとして、負けてどうする……」


控え室。棋譜を見返す。勝てた碁。落とした碁。差は、はっきりしている。

「……また守りに入ってる」

小さくつぶやく。

幻影ちゃんの表示が、静かに点る。

《確認しました》

「どうだった」

《安定しています》

「その言い方、やめろ」

《勝率的には悪くありません》

「でも勝ててない」

《はい》

短い肯定。

《理由は明確です》

「言ってみろ」

《選択が収束しています》

「……簡単に」

《幅が狭いです》

沈黙。

「……分かってる」

《実行できていません》

「分かってるって」

少し強く言う。

画面は変わらない。

《補足します》

「まだあるのか」

《恐れている状態です》

「……何を」

《不確定性を》

その言葉が、静かに刺さる。


四戦目。

盤の前に座る。呼吸を整える。石を持つ。

(もう一度)

あの言葉がよぎる。問いかける碁。そして。

(震える一手)

指先に、わずかな重みが乗る。

盤の中心。何もない場所。そこに、視線が落ちる。

一瞬。迷いが来る。次の瞬間。それを越える。


“カチッ。”


天元。

盤の中心に、黒が静かに置かれる。その瞬間、空気がわずかに動いた。

相手の手が止まり、周囲の気配も、ほんの少しだけ揺れる。

意味を持たないようでいて、確かに意味を孕んだ一手。どこにも属さない。だが、どこへでもつながる。


相手は二連星。整った構え。それに対して、光志は三々へと踏み込む。

形を崩す。均衡を、ほんのわずかにずらす。

さらに一間トビ。中央と辺の境界を曖昧にし、局面そのものを混ぜていく。

(……いい)

呼吸が合う。石の流れが、手の内側でほどけるように見えてくる。

相手が整えようとするほど、わずかな歪みが生まれ、そこに触れる。深追いはしない。ただ、静かに揺らす。


中盤。中央には、緩やかな模様が広がっていく。確定はしない。それでも、確かに効いている。

(これだ)

言葉にしなくても分かる。盤と、自分の距離が、これまでよりも近い。

――その一局は、僅差で落とした。


終盤、ほんのわずかな読み違い。一目、届かない。

「……ありません」

静かに頭を下げる。悔しさは、確かにある。けれど。

(……違う)

これまでの敗北とは、質が違っていた。

負けはしたが、それでも、何かを掴んでいる。

盤を見つめる。そこには、まだ消えていない手応えが、確かに残っていた。


五戦目、六戦目。

迷いは、まだ完全には消えていない。

それでも――踏み込むべき場面で、手が自然と前に出るようになっていた。

守るだけの選択を、ひとつ外す。その代わりに、局面をわずかに揺らす一手を選ぶ。


左辺の攻防。そこで放ったのは、軽いノゾキ。

一見すれば、損にも見える手。だが、その一手が相手の応手を限定する。

受け方が絞られた瞬間、形にわずかな歪みが生まれる。そして、その歪みを起点に、盤上の流れが静かに変わっていった。

「どこまで見てるんだ、古賀……」

他の棋士がつぶやく。だが、その手は確かに盤面に“音”を生んでいた。


──そして、最終戦。相手は、加藤大河。

AI至上主義を貫く加藤の碁は、相変わらず正確無比だった。

「さあ」

加藤が軽く言う。

「今日はどっちで来ます?」

「どっちって」

「安全か、面白いか」

少し笑う。

「両方だよ」

光志は短く返す。

「欲張りっすね」

「そうでもない」

石を持つ。置く。対局が始まる。


序盤は互角に進む。

加藤の打ち方は、これまでと何も変わらない。正確で、無駄がなく、最善とされる一手を淡々と積み重ねてくる。

盤は、整っていく。余白を残さず、誤差を許さない進行。

その流れに、光志も合わせる。

正面から外れることなく、同じリズムで石を運びながら――ほんのわずかだけ、筋をずらす。

完全には崩さない。だが、相手にも、完全には整えさせない。


中盤。右辺での攻防。加藤は早くも模様を確定させにかかり、実利を優先した手を選ぶ。

その一手を見た瞬間、光志の中で、何かがわずかに引っかかった。


――揺らぎ。

ほんの僅かだが、確かにそこにあった。

(……ここ)

わずかな違和感。揺らぎ。ほんの少しの隙。光志は、その内側に踏み込む。

厚みに触れる。

切りを誘う。

応じさせる。

流れを変える。

「っ……」

加藤の指が、わずかに止まる。中央に、空間が生まれる。そこに、石を置く。


“カチッ。”

石音が、はっきりと響いた。その一手で、盤の奥行きが、わずかに深くなる。

終盤。形勢は僅差。どちらに転んでもおかしくない、張り詰めた均衡。

加藤は詰めてくる。正確に、無駄なく、削り取るように。

それに対して、光志は――選ぶ。

安全な手ではない。勝率だけをなぞる一手でもない。

“打ちたい手”を、置く。

盤の流れに、抗うのではなく、静かに乗せるように。その一手は、どこか自然で、しかし確かに局面を動かしていた。

そして――それが、そのまま差になる。


「……ありません。」

加藤が静かに言う。石を置く音が止まる。数秒の静寂。やがて、小さなざわめき。

誰かが息を吐く。

「これが……古賀の碁か」


結果。四勝三敗。ぎりぎりのライン。

それでも。名前が呼ばれる。

「――古賀光志」

その瞬間、肩の力が抜ける。天井を見上げる。ゆっくりと、息を吐く。

(勝つための碁)

必要だ。

(その上で)

もう一つ。

(震える一手)

それを、選べるかどうか。

それが、自分の碁。

「……悪くないな」

小さくつぶやく。ポケットの中のキーホルダーが、わずかに揺れた。

確立は、終わりではない。ここから、続いていく。



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