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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
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第二十三局|再び、問いを

光志が、プロになり2年目の夏の初め、日本国際棋院が主催するナショナルチームの合宿が始まった。光志はその一員として、他のプロ棋士たちとともに選抜合宿に臨んでいた。

推薦枠として招集された光志は、注目される立場ではなかったが、盤の前では関係ない。全員が、同じ十九路に向き合う。

結果は、悪くなかった。大崩れはない。内容も整っている。けれど。


「……またか」

検討室で棋譜を見つめながら、思わずつぶやく。視線は盤上ではなく、すでに終わったはずの流れの中を、何度もなぞっていた。

勝ちきれない。

優勢だったはずの形が、いつの間にか差を詰められている。

安全に寄せて、そのまま逃げ切るか――あるいは、ほんのわずかに届かないまま終わり、引き分けに近い感覚の碁ばかりが、静かに積み重なっていく。

大敗はない。崩れてはいない。それでも――勝てない。

安定はしている。けれど、それだけだった。


その日も、結局は似たような一局だった。終局後、光志は何も言わず、淡々と石を碁笥に戻していく。

カラ、と乾いた音が、やけに響く。

対局相手は軽く一礼し、静かに席を立つ。引き止める理由も、言葉も見つからないまま、その背中を見送った。

残された盤面に、そっと手を伸ばす。――まだ、終わっていない気がした。

もう一度、最初から並べる。さっきまでそこにあったはずの流れを、確かめるように、一手ずつ。(ここで……)

中盤の分岐。安全な手を選んだ場面。

別の手もあった。少し踏み込む手。流れを変える手。だが、そのときは選ばなかった。

(勝ちに行った、つもりだった)

なのに。勝ちきれていない。


「……まだ見てるのか」

不意に、声が落ちてきた。振り返る。

あの年老いたプロ棋士──光志の師匠であり、かつて七冠を達成した伝説の棋士・本因坊昌覺ほんいんぼう しょうがくが、静かに声をかけてきた。

現役時代は華麗な打ち筋と盤上の創造性で日本囲碁界の黄金期を築いた一人。現在は実戦の場からは退いているが、その鋭い眼光と洞察は今も健在だった。

「……はい」

思わず、背筋が伸びる。

昌覺は盤に近づき、何も言わずに石をいくつか動かす。

中盤の形が、少しだけ変わる。

「ここだな」

短い一言。光志は頷く。

「はい」

「なぜ、打たなかった」

問いは、まっすぐだった。

「……読めなかったわけじゃ、ありません」

「なら」

「リスクが、あったので」

「どのくらいだ」

「……崩れる可能性が」

言いながら、自分でも曖昧だと分かる。

昌覺は、少しだけ目を細める。

「で、結果はどうだ」

「……」

言葉が出ない。

「安全に打って、勝てたか」

「……勝てませんでした」

「そうだな」

淡々とした肯定。責める響きはない。だが、逃げ場もない。

昌覺は、石を一つ持ち上げる。そして、先ほど光志が選ばなかった位置に、置く。

“カチッ。”

音が、やけに響いた。

「これは、勝ちに行く手だ」

静かな声。

「崩れるかもしれん。だが、流れは動く」

少しだけ間を置く。

「お前の碁はな」

そのまま続ける。

「うまくなった」

「……はい」

「だが」

視線が、まっすぐに向けられる。

「面白くない」

「えっ……?」


昌覺は盤を見つめたまま、指先で石を一つ転がした。

その小さな音が、やけに長く尾を引く。

「昔、誰かが言っとったな」

ぽつりと、独り言のように続ける。

「囲碁は宇宙だ。果てがない、と」

その言葉に、光志の胸がわずかに揺れる。

「広いからこそな」

「どこへでも行ける」

石をひとつ、盤の端に置く。

「だが、お前は今――」

わずかに間を置く。

「自分で行き先を決めて、そこしか見とらん」

「……」

言葉が、刺さる。

「安全な道だけを選べば、迷わん」

「迷わんが――広がりもせん」

昌覺は、今度は中央に石を置いた。

「本来、碁はもっと不自由で、もっと自由なもんだ」

「不自由で……自由?」

「そうだ」

短く頷く。

「読めば読むほど縛られる。だが、その中でどこに踏み出すかは、お前次第だ」

視線が、わずかに鋭くなる。

「お前は今、“正しい場所”にしか打っとらん」

「だがな」

ほんのわずかに、声が低くなる。

「宇宙に、正しい場所なんてものはない」

その言葉に、光志の呼吸が止まる。

「あるのは、“どこへ行くか”だけだ」

静かな断定だった。

「あの時の“問いかける碁”はどこに行った?」

その表現に、光志の指がわずかに止まる。

「これはどうなる。あれはどう動く。そういう碁だった」

ゆっくりと、石を戻す。

「今は」

少しだけ、間。

「答えをなぞっている」

静かな断定。

「……」

喉の奥が、詰まる。

「どちらが正しいかは、知らん」

ふっと、視線を外す。

「だがな」

背を向けながら言う。

「お前の碁は、前の方が“生きていた”」

それだけ言って、歩き出す。止める言葉は、出てこなかった。


しばらくして。別の声が、横から入る。

「きついっすね」

振り向く。──関西出身の若手実力者、加藤大河がいた。安定感と読みの深さで、すでに代表入りが濃厚と噂される存在だ。

「聞いてたのか」

「聞こえました」

肩をすくめる。

「でも、あの人、ああいう言い方しかしないっすよね」

「……そうだな」

苦笑する。

加藤は盤を覗き込む。

「ここっすよね」

問題の局面。

「はい」

「自分なら、絶対打たないです」

あっさりと言う。

「だろうな」

「だって、リスク高いじゃないですか」

当然のように続ける。

「勝率、下がりますし」

「……」


加藤の碁は、その軽い口調とは裏腹に、驚くほど機械的だった。

遊び心など微塵も見せず、盤上には、計算され尽くした勝率重視の一手だけを淡々と積み上げていく。

無駄がない。揺らぎもない。まるで、AIの出力をそのままなぞっているかのようだった。


「結局、“勝てる手”が正義なんですよ」

加藤はそう言って、どこか楽しそうに笑う。その声音には、迷いが一切なかった。

彼にとって囲碁は、思考を競うものではなく、最適解へと収束させるゲームだ。

AI至上主義――その言葉を、冗談ではなく、本気で信じている。


「勝てばいい。それ以外に、何がある?」

軽く言い放たれたその一言に、光志は、ただ苦笑を返すしかなかった。

否定も、肯定もできないまま、盤上に並ぶ“正しすぎる石”だけが、妙に重く見えた。

「でも」

加藤は少しだけ笑う。

「それで勝ててないなら、意味ないですよね」

「……」

今度は、別の角度から刺さる。

「古賀さんの碁って」

言葉を選ぶように少し間を置く。

「どっちつかずなんですよ」

「どっちも、ってことか」

「いや」

首を振る。

「どっちにもなりきれてない」

静かな指摘。

軽い口調なのに、逃げ場がない。

「攻めるなら攻める。守るなら守る」

盤を指でなぞる。

「でもこれ、途中で引いてるんすよ」

「……分かってる」

「分かっててやってるなら、なおさら厄介っすね」

さらっと言う。

「お前な」

思わず苦笑が漏れる。加藤は気にせず続ける。

「自分は、割り切ってるだけなんで」

「勝てる手を打つ」

「それだけです」

「……それで勝てるのか」

「はい」

即答だった。迷いがない。

「面白いかどうかは、知らないですけど」

肩をすくめる。

「勝てば、評価されますし」

「……そうだな」

その通りだ。プロは、結果で測られる。それは、もう分かっている。

「でも」

加藤は少しだけ目を細める。

「古賀さんは、それじゃないんじゃないですか」

「……どういう意味だ」

「さっきの話、聞いてて思いました」

軽く言う。

「問いかける碁、でしたっけ」

「……ああ」

「なんか、それっぽいですもん」

「それっぽいってなんだよ」

「うまく言えないですけど」

少し考える。

「盤に、余計なことしてる感じ」

「褒めてるのか、それ」

「半分くらい」

笑う。

「でも、それで勝てるなら、それでいいじゃないですか」

「……勝ててない」

「じゃあ、やり方が中途半端なんすよ」

きっぱりと言う。

「どっちかに振り切るか」

少しだけ間を置く。

「それとも」

光志を見る。

「自分のやり方、ちゃんと決めるか」

静かな検討室に、再び音が戻る。誰かが石を打つ音。遠くの会話。光志は盤を見つめたまま、動かなかった。


(……自分の碁)

その言葉が、ゆっくりと沈んでいく。

勝つための碁。

問いかける碁。

どちらも、分かっている。どちらも、選んできた。だからこそ。

(どっちでもない)

今の自分が、はっきり見える。石をひとつ、持ち上げる。そして、盤の上に置く。


“カチッ。”

その音は、まだ少し揺れていた。それでも。問いは、もう一度、はっきりと形を持ち始めていた。そんなある日、長嶺先生からメッセージが届く。

『囲碁部、文化祭に向けて活動中。久々に顔出しませんか?』

気晴らしも兼ねて高校を訪れると、懐かしい部室には、新入部員たちの姿があった。



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