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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
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第二十二局|孤独の一年目

プロ棋士となった光志の一年目は、想像していたよりもずっと厳しかった。

自由に、楽しく打つ――そんな自分のスタイルは、プロの舞台では思うように通用しない。その現実が、じわじわと、しかし確実に重くのしかかってくる。

対局室の空気は、どこも似ていた。整えられた盤、均された石、無駄のない所作――そのすべてが、静かに完成されている。

その中に身を置くたび、なぜか自分の呼吸だけが、わずかに浮いている気がした。

だからといって、内容が悪いわけではない。大きく崩れることもなく、形にはなっている。

けれど――それでも、勝てなかった。


「……やっぱり、勝てなきゃ意味ないのか」

誰に言うでもなく、こぼす、その言葉は、すぐに盤の上に吸い込まれていく。

しばらくして、光志は打ち方を変えた。

読みの精度を上げ、無理な戦いは避ける。最善に近い手を、一つひとつ丁寧に積み重ねていく。

AIが示す推奨進行。勝率の高い選択。それをなぞるように打ち続けるうちに、結果は少しずつ変わっていった。

負け続けることはなくなり、拾える勝ちも増えていく。数字だけを見れば、たしかに前に進んでいるはずだった。

――けれど。


「……なんだろうな」

対局後、ひとりで棋譜を見返しながらつぶやく。

「勝ってるのに、空っぽな感じ」

石は正しく並んでいる。形も整っている。でも、その中に、自分がいない気がした。


別の日。今度は、あえて崩してみることにした。

読み切れる形から外れ、わずかに曖昧さの残る局面へ、自分から踏み込んでいく。

少し遠い一手を選ぶ。確信ではなく、感覚に手を引かれるように。

流れに身を任せるように石を置くと、盤面は静かに、しかし確実に動き出した。

相手も応じる。予定調和から外れた応酬。整っていたはずの形が揺れ、局面が呼吸を始める。


(これだ)

一瞬、そう思う。

けれど、その手応えは、最後まで続かない。

結果は、負け。あと一目、届かない。終局後、視線は自然と盤上に落ちる。

――何が違ったのか。

(……足りない)

答えは、なかなか浮かばなかった。どちらを選んでも、どこかが欠けてしまうような感覚だけが残り、気づけば打ち方そのものが揺らいでいた。

ある日は堅実に、確実さを優先する。かと思えば、別の日にはあえて形を崩し、流れに身を委ねる。勝率を取りにいくべきか、それとも自分の感覚を信じるべきか――その間を行き来し続けている。

どちらにも振り切れない。どちらを選んでも、どこかで納得しきれないまま、曖昧な感覚だけが残っていた。


だから結局――

盤の前で、選び続けるしかなかった。

夜。タブレットの画面が、静かに光る。

《本日の対局、解析完了しました》

「早いな」

《効率化しました》

「便利だな」

《便利さは、必ずしも幸福に直結しませんが》

「急に哲学やめろ」

小さく笑う。

「で、どうだった」

《二局目は良好です》

「一局目は?」

《……安全です》

「その言い方やめろ」

《三局目は》

少し間を置く。

《興味深いです》

「またそれか」

《評価値は低いですが》

《意図が明確です》

「意図、ね」

画面を見つめる。

その言葉は、どこか遠い。

《現在の傾向として》

さらに続く。

《安定志向と探索志向が交互に出現しています》

「簡単に言うと?」

《迷っています》

「だろうな」

即答だった。否定する気もない。

《ただし》

表示が一行、増える。

《停滞ではありません》

「……どういう意味だよ」

《振動しています》

「振動?」

《はい》

《止まっている状態より、エネルギーがあります》

少しだけ、考える。

「……それ、いいことなのか?」

《将来的には》

「今は?」

《非効率です》

「結局それか」

肩を落とす。

けれど、その言い方が少しだけ救いにもなっていた。



その頃、中国。ユエは、合宿の一室でタブレットを見つめていた。

練習対局を終えたあと。体は疲れている。それでも、手は止まらない。画面に表示されているのは、一局の棋譜。

「……また、変なところに打ってる」

小さくつぶやく。

中盤の一手。普通なら選ばない位置。形も、少し歪んでいる。

けれど、その後の流れを見る。

「でも……つながってる」

相手の動きが制限され、局面が、じわりと変わる。

「ちゃんと、読んでる」

その一言に、少しだけ熱がこもる。

「なのに」

最後まで進める。

終盤。寄せで差を詰めきれない。

「……もったいない」

画面を閉じかけて、止まる。

もう一度、最初から見直す。

整った一局もある。無難にまとめた碁。でも、どこか薄い。

「こっちは……つまらない」

はっきりとした感想。

隣で、魯凰が覗き込む。

「どっちもあいつのか?」

「うん」

「揺れてるな」

「そうね」

短い返事。

魯凰は軽く肩をすくめる。

「で、どっちが好きなんだよ」

「……」

一瞬、考える。

「変な方」

「だろうな」

小さく笑う。

「でも、それで負けてるんだろ」

「うん」

「じゃあ意味ないじゃん」

「あるわよ」

即答だった。

「まだ、途中だから」

魯凰は少しだけ目を細める。

「前より、進んでる」

ユエは、静かに続けた。

「迷ってるけど、止まってない」

その言葉は、自分にも向けているようだった。

魯凰の視線が、ふと別のところに移る。

「それ、まだ付けてんのか」

ユエのバッグ。

そこにぶら下がる、小さなキーホルダー。少し古びた、パンダ。

「……悪い?」

「いや」

少しだけ笑う。

「もっといいのあるだろ」

「これでいいの」

「物持ちいいな」

「そういう問題じゃない」

短いやりとり。それ以上は言わない。でも、手は無意識にキーホルダーに触れていた。


その夜。光志は、また棋譜を見返していた。

勝った碁。負けた碁。

どちらも並べる。違いは、分かる。でも、答えにはならない。

スマートフォンが震える。

《追加解析があります》

「まだあるのかよ」

《はい》

少し間を置いて。

《一部の対局データが外部から参照されています》

「……は?」

《詳細は不明です》

「誰だよ」

《推測になりますが》

表示が続く。

《興味を持つ人物がいる、ということです》

光志は、しばらく画面を見つめる。

「……物好きだな」

《同意します》

「お前もな」

《否定しません》

小さく笑う。

そのまま、盤に向き直る。石を持つ。


“カチッ。”

音が、少しだけ近くなっていた。迷いは、まだ消えない。それでも。



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