第二十二局|孤独の一年目
プロ棋士となった光志の一年目は、想像していたよりもずっと厳しかった。
自由に、楽しく打つ――そんな自分のスタイルは、プロの舞台では思うように通用しない。その現実が、じわじわと、しかし確実に重くのしかかってくる。
対局室の空気は、どこも似ていた。整えられた盤、均された石、無駄のない所作――そのすべてが、静かに完成されている。
その中に身を置くたび、なぜか自分の呼吸だけが、わずかに浮いている気がした。
だからといって、内容が悪いわけではない。大きく崩れることもなく、形にはなっている。
けれど――それでも、勝てなかった。
「……やっぱり、勝てなきゃ意味ないのか」
誰に言うでもなく、こぼす、その言葉は、すぐに盤の上に吸い込まれていく。
しばらくして、光志は打ち方を変えた。
読みの精度を上げ、無理な戦いは避ける。最善に近い手を、一つひとつ丁寧に積み重ねていく。
AIが示す推奨進行。勝率の高い選択。それをなぞるように打ち続けるうちに、結果は少しずつ変わっていった。
負け続けることはなくなり、拾える勝ちも増えていく。数字だけを見れば、たしかに前に進んでいるはずだった。
――けれど。
「……なんだろうな」
対局後、ひとりで棋譜を見返しながらつぶやく。
「勝ってるのに、空っぽな感じ」
石は正しく並んでいる。形も整っている。でも、その中に、自分がいない気がした。
別の日。今度は、あえて崩してみることにした。
読み切れる形から外れ、わずかに曖昧さの残る局面へ、自分から踏み込んでいく。
少し遠い一手を選ぶ。確信ではなく、感覚に手を引かれるように。
流れに身を任せるように石を置くと、盤面は静かに、しかし確実に動き出した。
相手も応じる。予定調和から外れた応酬。整っていたはずの形が揺れ、局面が呼吸を始める。
(これだ)
一瞬、そう思う。
けれど、その手応えは、最後まで続かない。
結果は、負け。あと一目、届かない。終局後、視線は自然と盤上に落ちる。
――何が違ったのか。
(……足りない)
答えは、なかなか浮かばなかった。どちらを選んでも、どこかが欠けてしまうような感覚だけが残り、気づけば打ち方そのものが揺らいでいた。
ある日は堅実に、確実さを優先する。かと思えば、別の日にはあえて形を崩し、流れに身を委ねる。勝率を取りにいくべきか、それとも自分の感覚を信じるべきか――その間を行き来し続けている。
どちらにも振り切れない。どちらを選んでも、どこかで納得しきれないまま、曖昧な感覚だけが残っていた。
だから結局――
盤の前で、選び続けるしかなかった。
夜。タブレットの画面が、静かに光る。
《本日の対局、解析完了しました》
「早いな」
《効率化しました》
「便利だな」
《便利さは、必ずしも幸福に直結しませんが》
「急に哲学やめろ」
小さく笑う。
「で、どうだった」
《二局目は良好です》
「一局目は?」
《……安全です》
「その言い方やめろ」
《三局目は》
少し間を置く。
《興味深いです》
「またそれか」
《評価値は低いですが》
《意図が明確です》
「意図、ね」
画面を見つめる。
その言葉は、どこか遠い。
《現在の傾向として》
さらに続く。
《安定志向と探索志向が交互に出現しています》
「簡単に言うと?」
《迷っています》
「だろうな」
即答だった。否定する気もない。
《ただし》
表示が一行、増える。
《停滞ではありません》
「……どういう意味だよ」
《振動しています》
「振動?」
《はい》
《止まっている状態より、エネルギーがあります》
少しだけ、考える。
「……それ、いいことなのか?」
《将来的には》
「今は?」
《非効率です》
「結局それか」
肩を落とす。
けれど、その言い方が少しだけ救いにもなっていた。
その頃、中国。ユエは、合宿の一室でタブレットを見つめていた。
練習対局を終えたあと。体は疲れている。それでも、手は止まらない。画面に表示されているのは、一局の棋譜。
「……また、変なところに打ってる」
小さくつぶやく。
中盤の一手。普通なら選ばない位置。形も、少し歪んでいる。
けれど、その後の流れを見る。
「でも……つながってる」
相手の動きが制限され、局面が、じわりと変わる。
「ちゃんと、読んでる」
その一言に、少しだけ熱がこもる。
「なのに」
最後まで進める。
終盤。寄せで差を詰めきれない。
「……もったいない」
画面を閉じかけて、止まる。
もう一度、最初から見直す。
整った一局もある。無難にまとめた碁。でも、どこか薄い。
「こっちは……つまらない」
はっきりとした感想。
隣で、魯凰が覗き込む。
「どっちもあいつのか?」
「うん」
「揺れてるな」
「そうね」
短い返事。
魯凰は軽く肩をすくめる。
「で、どっちが好きなんだよ」
「……」
一瞬、考える。
「変な方」
「だろうな」
小さく笑う。
「でも、それで負けてるんだろ」
「うん」
「じゃあ意味ないじゃん」
「あるわよ」
即答だった。
「まだ、途中だから」
魯凰は少しだけ目を細める。
「前より、進んでる」
ユエは、静かに続けた。
「迷ってるけど、止まってない」
その言葉は、自分にも向けているようだった。
魯凰の視線が、ふと別のところに移る。
「それ、まだ付けてんのか」
ユエのバッグ。
そこにぶら下がる、小さなキーホルダー。少し古びた、パンダ。
「……悪い?」
「いや」
少しだけ笑う。
「もっといいのあるだろ」
「これでいいの」
「物持ちいいな」
「そういう問題じゃない」
短いやりとり。それ以上は言わない。でも、手は無意識にキーホルダーに触れていた。
その夜。光志は、また棋譜を見返していた。
勝った碁。負けた碁。
どちらも並べる。違いは、分かる。でも、答えにはならない。
スマートフォンが震える。
《追加解析があります》
「まだあるのかよ」
《はい》
少し間を置いて。
《一部の対局データが外部から参照されています》
「……は?」
《詳細は不明です》
「誰だよ」
《推測になりますが》
表示が続く。
《興味を持つ人物がいる、ということです》
光志は、しばらく画面を見つめる。
「……物好きだな」
《同意します》
「お前もな」
《否定しません》
小さく笑う。
そのまま、盤に向き直る。石を持つ。
“カチッ。”
音が、少しだけ近くなっていた。迷いは、まだ消えない。それでも。




