第二十一局|合格という評価
結果発表を前にした審査室は、静かだった。
外のざわめきとは切り離されたような空間。机の上には、数枚の棋譜と、簡単な成績表。
その中の一つに、数人の視線が集まっていた。
「……古賀光志、か」
試験官のひとりが、ペン先で名前をなぞる。
「勝数は、基準をわずかに上回っています。順位も……ぎりぎり圏内」
「数字だけ見れば、問題はない」
別の試験官が頷く。
「ただし」
そう言って、棋譜をめくる。
「内容が、少し気になる」
盤面を再現した図に指を置く。
「この中盤、第七十二手。ここで本来なら、こちらに受けて地合いを固めるのが定石に近い流れです」
「ええ。相手の厚みを削ぎつつ、こちらも安全にまとめられる」
「しかし彼は――」
指が、別の点に移動する。
「ここに打っている」
少し外れた位置。形としては、不安定。
「一見すると、働きの薄い手だ」
「実際、直後の変化では損をしています。数目単位で」
「ええ。ただ――」
別の試験官が口を挟む。
「その後の展開で、相手の石の連絡を微妙に制限している」
「結果的に、中央の主導権を取り返しているんですね」
短い沈黙。
「意図的なのか、偶然なのか」
「そこが判断しづらい」
さらにページをめくる。
「しかし、この終盤の打ち回しは、稚拙だ。寄せが甘すぎる」
細かいヨセの局面。
「ここ、本来なら三目を確定できる手順を逃している」
「代わりに、こちらの手を選んでいる。結果としては一目損」
「読み切れていない可能性が高いですね」
「ええ。全体として、“甘さ”は否定できない」
机の上に、静かな空気が落ちる。
「ただ……」
誰かが、ぽつりと言う。
「全部が雑、というわけでもない」
「そうですね」
頷きが返る。
「局所的には、かなり鋭い」
「というより、“方向”が独特です」
言葉を探すように、少し間が空く。
「普通なら選ばない筋を、自然に選んでいる」
「それが、良い方向に働くこともあるし……そうでないこともある」
「安定感は、正直ありません」
結論は、そこに近かった。
そのとき。審査室の扉が、静かに開いた。
音は小さい。だが、空気がわずかに変わる。
「……おや」
誰かが立ち上がる。
「先生」
入ってきたのは、年配の棋士だった。白髪混じりの髪。ゆっくりとした足取り。だが、その目は、まだ盤の上を見ている人間のものだった。
「いや、すまん。近くまで来たものだからな」
軽く手を上げる。
「ちょっと顔を出しただけだ」
「ちょうど審議中でして」
「ほう」
興味を持ったように、机の上の棋譜に視線を落とす。
「これは?」
「今年の受験者の一人です。地方からの」
「名前は」
「古賀光志、です」
「ふむ」
老棋士は、椅子を引いて座る。棋譜を手に取り、ゆっくりと指でなぞる。
数手、追う。
もう数手。
そのまま、しばらく黙る。
周囲も、何も言わない。
やがて、小さく息を吐いた。
「……最近の若い連中はな」
ぽつりと、言う。
「よくまとまっている」
視線は、まだ棋譜の上。
「形もきれいだ。読みも深い」
「はい」
「だが」
そこで、少しだけ顔を上げる。
「少し、きれいすぎる」
誰もすぐには答えない。
「中国や韓国の連中に押されているのは、分かっているだろう」
「……ええ」
「彼らは、もっと遠慮がない。形が崩れても、勝ちに行く」
指で、盤面の一角を軽く叩く。
「日本の若い棋士は、定石をなぞるのが上手い」
「それは、強みでもありますが」
「そうだな。だが――」
少しだけ、笑う。
「それだけでは、面白くない」
その言葉は、やわらかいが、はっきりしていた。
再び、棋譜に目を落とす。
「この第七十二手」
先ほど話題に上がっていた局面。
「ここ、普通は打たん」
「はい」
「形も悪いし、損もしている」
「ええ」
老棋士は、ゆっくりと頷く。
「だがな」
指を、その石の位置に置く。
「この一手で、空気が変わっている」
誰も口を挟まない。
「相手の石が、わずかに重くなっている」
「中央への広がりも、制限されています」
「うむ」
さらに数手、追う。
「ここで、相手は本来、こちらに伸びたいはずだ」
「ええ。しかし、打てていません」
「理由は簡単だ」
指先で、石の並びをなぞる。
「この一手が、ずっと気になっているからだ」
静かな説明。だが、はっきりしている。
「形は悪い。損もしている」
「だが、“効いている”」
短く言い切る。
「──面白い。型にはまってない。だが、野暮ではない。感覚で打ってるようで、ちゃんと局面に耳を澄ませている」
「こういう手はな、読み切って打つものではない」
少しだけ目を細める。
「盤と対話していないと、出てこない」
その言葉に、空気が変わる。
評価の軸が、少しだけ動く。
「終盤はどう見ますか」
試験官の一人が聞く。
「甘いな」
即答だった。小さく笑いも混じる。
「寄せはまだ粗い。読みも浅いところがある」
「やはり、そこが課題ですね」
「当然だ」
頷く。
「だが」
少しだけ、声がやわらぐ。
「伸びしろは、そっちにある」
机の上の棋譜を軽く叩く。
「形の整え方や寄せは、後からでもいくらでも身につく」
「……はい」
「だが、この“感覚”は」
少しだけ、言葉を探す。
「教えてどうこうなるものではない」
そして。小さく、笑った。
「──面白い」
その一言は、静かに落ちた。
「合否としては、どう見ますか」
誰かが、改めて問う。
老棋士は、少しだけ考える。
「ぎりぎりだろうな」
「はい」
「だが」
そのまま続ける。
「こういう打ち手が、一人くらいいてもいい」
周囲を見渡す。
「今の日本囲碁に、足りないのはそこかもしれん」
静かな言葉。けれど、重みがあった。
しばらくの沈黙のあと。試験官たちが、ゆっくりと頷く。
「……分かりました」
「古賀光志」
誰かが名前を確認する。
「合格としましょう」
結果発表。名前が読み上げられていく。
ひとつ、またひとつ。光志は、じっと立っていた。
呼ばれるかどうか。それだけを、待つ。
「――古賀光志」
一瞬、音が消えた気がした。次の瞬間、現実が戻る。
「……はい」
声が、少しだけ遅れる。胸の奥が、じわりと熱くなる。
何かを言おうとして、言葉が出ない。代わりに、ポケットに手を入れ、キーホルダーを、強く握る。
「……やった」
小さく、つぶやく。
「やったぞ、ユエ」
誰に聞かせるでもない声。それでも、確かに届く気がした。
盤の上でつないできたものが、ひとつ、形になった瞬間だった。




