第二十局|プロ試験の日々
春が過ぎ、夏の匂いが街に忍び寄る頃。
光志は、地方都市で行われる日本国際棋院のプロ入段試験を受けるため、小さなキャリーバッグを引いて駅に立っていた。ホームに立つその姿は、どこか背中が軽くもあり、重くもあった。目指すは、市ヶ谷試験会場。
特別な場所のはずなのに、景色はいつもと変わらない。電車が来て、ドアが開いて、人が乗っていく。その流れの中に、自分もいる。
「……さて」
小さく息を吐く。
「いっちょ、やるか」
ポケットの中で、キーホルダーがわずかに触れる。それを確かめるように握ってから、電車に乗り込んだ。
スマートフォンが震える。長嶺先生からのメッセージだった。
『幻影ちゃん、こっちでも元気にしてるぞ。こないだ、なぜか落語の音声解析始めてたがな』
「……方向性どうなってんだよ」
思わず笑う。
少し遅れて、もう一件通知が届く。
《古典芸能は、間と構造の学習に適しています》
「本人きた」
《ご武運を》
「軽いな」
《重くすると、動作が遅くなります》
「そういう問題か?」
《半分くらいは》
そのやりとりが、少しだけ緊張をほどいた。
プロ入りの試験は、想像以上に過酷だった。同世代のライバルたちは、研修会や囲碁道場で鍛え上げられた猛者ばかり。地方から一人で出てきた光志には、その雰囲気すら異世界のように思えた。
受付を済ませると、簡単な説明が行われる。
プロ入段試験――いわゆる採用リーグ。
一定期間のあいだ、参加者同士で対局を重ね、最終的な順位や勝率で合否が決まるが、毎年、合格する人数も決まっている。勝てば上がり、負ければ下がる。そして足切りの、それだけの分かりやすい仕組み。
ただし――その「それだけ」が、思っていたより重い。
全員が強い。誰もが、同じ場所を目指している。
勝率は表示されない。けれど、空気で分かる。誰が走っていて、誰が止まりかけているのか。
(……ちゃんと、世界だな)
小さく思う。
ここは、特別な場所ではない。ただ、同じ方向を向いた人間が集まっているだけだ。
一局目。
対局が始まると、意外なほど落ち着いていた。碁盤と石がそこにある限り、やるべきことは変わらない。
(大丈夫だ。ただ、打てばいい)
相手は強い。読みも深いし、迷いも少ない。でも、それは全国大会でも感じたことだった。違うのは――
(当たり前に、ここにいるって感じか)
“場慣れ”の差。けれど、盤の上では関係ない。
ひとつ受ける。
ひとつ広げる。
全国大会でユエとともに築いた一手一手を思い出しながら、焦らず、置いていく。
結果は、勝ち。派手ではない。でも、確かな一局だった。
数日が過ぎる。対局、検討、待機。その繰り返し。周囲の会話は少ないが、視線は多い。誰もが、他人の成績を気にしている。
直接は聞かない。でも、どこかで計算している。光志は、その中に少しずつ馴染んでいった。
勝つ日もあれば、負ける日もある。連勝すると、少しだけ視線が増える。連敗すると、少しだけ静かになる。その変化が、分かるようになってきた。
ある対局。中盤、少し難しい形になった。互いに大きな石を抱え、どちらも決め手が見えない。
(ここ、か?)
いくつかの候補手が浮かぶ。
安全な手。
確実な手。
少しだけ得をする手。
どれも、悪くない。でも。
(……それだと、足りない)
ふと、別の筋が見える。少し遠い。少し無理がある。形も、きれいではない。けれど――
(つながる)
理由は、はっきりしない。でも、流れとして、そこに伸びている気がした。
石を持つ。
ほんの一瞬だけ、間を置く。
そして、置く。
“カチッ。”
その一手は、盤の上で少し遠くに浮いて見えた。
相手の手が、止まる。時間が流れる。読みが、ぶつかる。
数分後。
相手が、わずかに形を崩す。
(……いける)
そこからは、静かに押し切った。
終局後、相手が小さく言った。
「……今の手、ちょっと予想外でした」
「自分でも、少しそう思ってます」
軽く頭を下げる。それ以上の言葉はない。でも、その一局は、確かに残った。
順調に見えた流れは、最後の直前で揺れる。
重要な一局を落とした。内容は悪くない。でも、結果は負け。それだけで、順位は動く。
(……まずいな)
待機室。誰もが静かに座っている。話す人はいない。でも、全員が考えている。あと何勝必要か。誰が上にいるか。その空気の中で、スマートフォンが震えた。
《落ち着いてください。光志くんなら、まだ間に合います》
幻影ちゃんからの通知だった。なぜかタイミングが完璧すぎて、光志は笑いながらつぶやいた。
「見てたのかよ」
《観測はしていません》
《推測です》
「精度高すぎだろ」
《表情ログがありませんので、逆に自由度が高いです》
「意味わかんねぇよ」
少しだけ笑う。
《残り一局です》
「分かってる」
《勝てば、可能性は高いです》
「負けたら?」
《……統計的には厳しくなります》
「やめろ、急に現実出すな」
《ご希望に応じて、ロマン寄りの回答にも切り替え可能です》
「じゃあそっちで」
《勝てば、すべて解決します》
「雑!」
そのやりとりが、少しだけ肩の力を抜いた。
最終局の相手は、前年もこの場に立っていたという大学生だった。落ち着いた佇まいで、無駄のない打ち回しを見せる、簡単には崩れないタイプだ。
序盤から対局は静かに進んでいく。互いに大きなミスはなく、均衡を保ったまま、差はほんのわずかなまま推移していた。
中盤、流れが揺れる。
こちらの形に、少しだけ歪みが出る。
(ここで……)
選択。また、いくつかの手が見える。
安全な手。持ちこたえる手。そして――
(踏み込むか)
少しだけ深く入る手。
リスクはある。でも、その先に、広がりがある。
呼吸を整える。石を置く。
“カチッ。”
その音は、今度は近く聞こえた。
相手が考える。時間が流れる。やがて、応じる。その瞬間、形がつながる。流れが、こちらに寄る。あとは、丁寧に打つだけだった。
終局。
「……ありがとうございました」
一礼。
相手も、静かに頭を下げる。結果は、勝ち。
それだけ。でも、その一局の重みは、これまでとは少し違っていた。
会場の外。
空は、少しだけ高くなっていた。スマートフォンが震える。
《対局、お疲れさまでした》
「……どうだった」
《評価値的には、良好です》
「またそれか」
《ですが》
少し間を置いて。
《本局には、“らしさ”がありました》
その言葉に、少しだけ立ち止まる。
「……そうか」
《はい》
短い肯定。
《観測精度、向上しています》
「お前がな」
《双方です》
その返答が、少しだけ可笑しかった。
結果は、まだ分からない。合格か、不合格か。
それでも。盤の上で打った一手は、確かにそこにあった。それだけで、少しだけ前に進めた気がした。




