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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第三章:―ツケ三々は、照れ隠しのあとで―
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第二十局|プロ試験の日々

春が過ぎ、夏の匂いが街に忍び寄る頃。

光志は、地方都市で行われる日本国際棋院のプロ入段試験を受けるため、小さなキャリーバッグを引いて駅に立っていた。ホームに立つその姿は、どこか背中が軽くもあり、重くもあった。目指すは、市ヶ谷試験会場。

特別な場所のはずなのに、景色はいつもと変わらない。電車が来て、ドアが開いて、人が乗っていく。その流れの中に、自分もいる。


「……さて」

小さく息を吐く。

「いっちょ、やるか」

ポケットの中で、キーホルダーがわずかに触れる。それを確かめるように握ってから、電車に乗り込んだ。

スマートフォンが震える。長嶺先生からのメッセージだった。

『幻影ちゃん、こっちでも元気にしてるぞ。こないだ、なぜか落語の音声解析始めてたがな』

「……方向性どうなってんだよ」

思わず笑う。

少し遅れて、もう一件通知が届く。

《古典芸能は、間と構造の学習に適しています》

「本人きた」

《ご武運を》

「軽いな」

《重くすると、動作が遅くなります》

「そういう問題か?」

《半分くらいは》

そのやりとりが、少しだけ緊張をほどいた。


プロ入りの試験は、想像以上に過酷だった。同世代のライバルたちは、研修会や囲碁道場で鍛え上げられた猛者ばかり。地方から一人で出てきた光志には、その雰囲気すら異世界のように思えた。


受付を済ませると、簡単な説明が行われる。

プロ入段試験――いわゆる採用リーグ。

一定期間のあいだ、参加者同士で対局を重ね、最終的な順位や勝率で合否が決まるが、毎年、合格する人数も決まっている。勝てば上がり、負ければ下がる。そして足切りの、それだけの分かりやすい仕組み。

ただし――その「それだけ」が、思っていたより重い。


全員が強い。誰もが、同じ場所を目指している。

勝率は表示されない。けれど、空気で分かる。誰が走っていて、誰が止まりかけているのか。

(……ちゃんと、世界だな)

小さく思う。

ここは、特別な場所ではない。ただ、同じ方向を向いた人間が集まっているだけだ。


一局目。

対局が始まると、意外なほど落ち着いていた。碁盤と石がそこにある限り、やるべきことは変わらない。

(大丈夫だ。ただ、打てばいい)

相手は強い。読みも深いし、迷いも少ない。でも、それは全国大会でも感じたことだった。違うのは――

(当たり前に、ここにいるって感じか)

“場慣れ”の差。けれど、盤の上では関係ない。


ひとつ受ける。

ひとつ広げる。

全国大会でユエとともに築いた一手一手を思い出しながら、焦らず、置いていく。

結果は、勝ち。派手ではない。でも、確かな一局だった。


数日が過ぎる。対局、検討、待機。その繰り返し。周囲の会話は少ないが、視線は多い。誰もが、他人の成績を気にしている。

直接は聞かない。でも、どこかで計算している。光志は、その中に少しずつ馴染んでいった。

勝つ日もあれば、負ける日もある。連勝すると、少しだけ視線が増える。連敗すると、少しだけ静かになる。その変化が、分かるようになってきた。


ある対局。中盤、少し難しい形になった。互いに大きな石を抱え、どちらも決め手が見えない。

(ここ、か?)

いくつかの候補手が浮かぶ。

安全な手。

確実な手。

少しだけ得をする手。

どれも、悪くない。でも。

(……それだと、足りない)

ふと、別の筋が見える。少し遠い。少し無理がある。形も、きれいではない。けれど――

(つながる)

理由は、はっきりしない。でも、流れとして、そこに伸びている気がした。


石を持つ。

ほんの一瞬だけ、間を置く。

そして、置く。

“カチッ。”


その一手は、盤の上で少し遠くに浮いて見えた。

相手の手が、止まる。時間が流れる。読みが、ぶつかる。

数分後。

相手が、わずかに形を崩す。

(……いける)

そこからは、静かに押し切った。


終局後、相手が小さく言った。

「……今の手、ちょっと予想外でした」

「自分でも、少しそう思ってます」

軽く頭を下げる。それ以上の言葉はない。でも、その一局は、確かに残った。


順調に見えた流れは、最後の直前で揺れる。

重要な一局を落とした。内容は悪くない。でも、結果は負け。それだけで、順位は動く。

(……まずいな)

待機室。誰もが静かに座っている。話す人はいない。でも、全員が考えている。あと何勝必要か。誰が上にいるか。その空気の中で、スマートフォンが震えた。


《落ち着いてください。光志くんなら、まだ間に合います》

幻影ちゃんからの通知だった。なぜかタイミングが完璧すぎて、光志は笑いながらつぶやいた。

「見てたのかよ」

《観測はしていません》

《推測です》

「精度高すぎだろ」

《表情ログがありませんので、逆に自由度が高いです》

「意味わかんねぇよ」

少しだけ笑う。

《残り一局です》

「分かってる」

《勝てば、可能性は高いです》

「負けたら?」

《……統計的には厳しくなります》

「やめろ、急に現実出すな」

《ご希望に応じて、ロマン寄りの回答にも切り替え可能です》

「じゃあそっちで」

《勝てば、すべて解決します》

「雑!」

そのやりとりが、少しだけ肩の力を抜いた。


最終局の相手は、前年もこの場に立っていたという大学生だった。落ち着いた佇まいで、無駄のない打ち回しを見せる、簡単には崩れないタイプだ。

序盤から対局は静かに進んでいく。互いに大きなミスはなく、均衡を保ったまま、差はほんのわずかなまま推移していた。


中盤、流れが揺れる。

こちらの形に、少しだけ歪みが出る。

(ここで……)

選択。また、いくつかの手が見える。

安全な手。持ちこたえる手。そして――

(踏み込むか)

少しだけ深く入る手。

リスクはある。でも、その先に、広がりがある。

呼吸を整える。石を置く。

“カチッ。”

その音は、今度は近く聞こえた。

相手が考える。時間が流れる。やがて、応じる。その瞬間、形がつながる。流れが、こちらに寄る。あとは、丁寧に打つだけだった。


終局。

「……ありがとうございました」

一礼。

相手も、静かに頭を下げる。結果は、勝ち。

それだけ。でも、その一局の重みは、これまでとは少し違っていた。


会場の外。

空は、少しだけ高くなっていた。スマートフォンが震える。

《対局、お疲れさまでした》

「……どうだった」

《評価値的には、良好です》

「またそれか」

《ですが》

少し間を置いて。

《本局には、“らしさ”がありました》

その言葉に、少しだけ立ち止まる。

「……そうか」

《はい》

短い肯定。

《観測精度、向上しています》

「お前がな」

《双方です》

その返答が、少しだけ可笑しかった。

結果は、まだ分からない。合格か、不合格か。

それでも。盤の上で打った一手は、確かにそこにあった。それだけで、少しだけ前に進めた気がした。



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